「信仰をもって聞くA」
ガラテヤ人への手紙3章
牧師 小林智彦

【あなたがたが御霊を受けたのは・・・】

「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(2節)
 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(3節)」
「とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。(5節)」ガラテヤ人への手紙3章2,3,5節

パウロは異端の教えに傾いてしまったガラテヤの信徒たちに、問いかけています。

「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞
いたからですか。(2節)」

この同じ問いをパウロは2節と5節で繰り返しています。
この問いはまた、わたし達の信仰を健全にする問いであると言えるでしょう。
私たちは、ガラテヤの信徒たちのように割礼派の惑わしを受けることはありません。
しかし自分たちの中にある罪深い性質が、私たちを神の恵ではなく、自分の努力・頑張りに頼らせてしまうのです。


神の恵みに頼る者は、神を賛美し、聖霊に満たされます。その人は謙遜な人です。
そして、これこそ恵によって救われた神の子どもの新しい性質です。

しかし自分の努力と頑張りに頼る人は、神ではなく、自分を誇り、自分を讃えます。
その人は疲れと怒りに満ち、傲慢な人になります。
これは、人間の生まれ持った性質であり、宗教・道徳の限界です。

パウロはガラテヤの信徒たちに、あなたはどちらの状態ですか?と問いかけているのです。そして、なぜ恵で始まったのに、途中から自分の努力・頑張りに頼る信仰生活、昔の宗教的な生き方に戻ってしまったのですか?と問いかけているのです。

これは、私たちも陥りやすい過ちです!

私たちは神の一方的な恵によって救われました。
恵によって救われた(御霊を受けた)なら、クリスチャンとしての成長も恵によるのです!

恵によって救われたのに、頑張り努力によって良いクリスチャンになろうとするなら、神の恵みを拒絶し、信仰を止めてしまっているのです。

多くの人々がキリストを救い主と信じ、大きな喜びをもって救われます。
しかし数年が過ぎると、喜びを失い、教会の生活が疲れて、大変と、嘆くのを聞きます。
クリスチャンになったら、生きるのが辛くなったと何度も聞いたことがあります。

なぜですか?キリストは私たちに宗教の重荷を負わせるために来られたのですか?
そうではありません!キリストは宗教も含め、重荷を取り除くために来られたのです。
一体何が、恵によって救われたクリスチャンの解放の喜びを奪ったのでしょう?

それが律法主義です!難しい言葉は止めましょう。努力・頑張り、ガンバリズムなのです!
努力して良いクリスチャンになろう、頑張って良いクリスチャンになろう!
この日本人になじみ深い考えが、なんと神の恵みを拒絶し、信仰に歩むことを止めさせ、
私たちの内にある古い罪深い性質をよみがえらせてしまうのです。

努力すればするほど、自分と自分の努力を自慢したくなります!
頑張れば頑張るほど、回りにいる人をも頑張らせたくなるのです!
しかし、努力は疲れを生み出し、頑張りは怒りを生み出します。
自分の目には成長と思えることが、実は神の目から見るなら滅びであり、後退していることもあるのです。

恵によって救われた私たちは、成長も神の恵によるのです!
隣の人に言いましょう。「成長も神の恵みです!」
また言いましょう。「良いクリスチャンになろうと、努力するのは止めましょう!」

これは私たちの文化には馴染めない考えです。そうです、これが神の国の文化です。
イエスの救いは、決して宗教、哲学や道徳ではないのです。
イエスの救いは、新しい命なのです!新しい創造なのです!

植物の種のように、種は黒くて小さいのですが、種の中にはすべての植物のデザインが含まれています。DNAがあるからです。
朝顔の種を、いくら努力して育てても、ヒマワリにはならないのです。
いのちの成長に努力は要らないのです。水や空気も自然が提供してくれるのです。
クリスチャンの霊的成長も全く同じです。努力で神がデザインした者よりも良くなることも出来ないし、努力しなかったから悪くなることもないのです!

あなたの中には神の完全な計画があり、あなたは神の最高傑作!
キリストの救いを受けて、二重に愛された者、二重に計画された者なのです!

大切なのは、努力や頑張りによって、神の恵みを退けないこと、信仰を止めないことです。
恵によって、神につながり続けること!信仰によって、神とともに歩み続けることが成長に欠かせないことです。これは努力ではなく、父なる神を求める神の子の自然な姿です。

パウロは神の子どもの成長は、律法に代表される人間の努力や頑張りには無いと繰り返して私たちに伝えています。

私たちが神の子どもとして成長するのは、恵によるのです。
パウロは恵を受けるのは律法ではなく、信仰をもって聞くことだと繰り返しています。
信仰をもって聞くこと!これが神の子の姿勢であり、恵の成長をもたらします。
私たちは神の子です!信仰をもって聞きましょう!

【信仰をもって聞くとは・・・】

それでは信仰をもって聞くとは、具体的にどういうことでしょうか?

@自分には出来ないことを認めること。

自分の頑張り・努力を放棄することが大切です。十字架に付けるのです。
私たちは頑張りや努力では、決して良いクリスチャンになれません!
頑張り・努力は、疲れた、怒りと自慢に満ちたクリスチャンしか生み出しません。

「天のお父さん、私は頑張ってクリスチャン生活をすることを止めます。
頑張って聖書読むこと、無理して祈ること、本当はイヤなのに伝道すること、イヤイヤながらの献金に死にます!努力と頑張りを十字架に付けます。イエスさま、あなたの十字架で努力と頑張りを滅ぼして下さい」と祈って下さい。

「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」ガラテヤ人への手紙2章21節

律法主義(頑張り・努力で救われる道)は、キリストの十字架を否定することです。
しかし、十字架こそは神の計画し、用意した完全な救い、解決なのです。

イエスはゲッセマネの園で祈りました。人類を救うために、十字架以外に方法は無いのですかと。しかし天の父がハッキリ示したのは、十字架でした。

人が救われるのも、成長するのも、キリストの十字架以外に道は無いのです!
十字架以外の救いと成長の道を諦めること、これが信仰をもって聞く始めです。

この真理を聖霊様に示して頂きましょう!
もし私たちが、自力での成長を心から諦められたら、十字架によって努力に死ねたなら、生きるのが楽になります。また人間関係が楽になります。

頑張らなくて良い!ありのままで良い! 本当に楽です。
頑張らない人は、頑張って無い人を見ても怒ったり、イライラしません。
ありのままで受け入れられている人は、まわりの人をもありのままで受け入れます。

回りの人への反応が、そのまま、恵に生きているか、律法に生きているかを示すのです。
解決は十字架です。気が付いたら直ぐに律法に死ぬ祈りを捧げましょう。

A神に期待する

自力での成長に十字架で死ぬことは、決して成長を放棄したり、成長を諦めることではありません。かえって成長が期待できるのです!

私たちは、自分の成長を、自分の努力に頼ることを止めました。
そこで初めて、神さまは何をされるのだろうと、神に期待することが出来るのです。
神に期待することこそ、信仰に生きることです。
神を待ち望むことです。

神を待ち望むと、心の中からワクワクする気持が湧き出てきます!
神さまは、今日、どんな出会いを用意して下さるだろう?
神さまは、今日、どんなスペシャルなことを私のために計画しておられるだろう?
私たちを愛して、最善な計画を用意して下さる天の父に目を向けるなら、私たちの人生は何と希望に満ちたものになるでしょう。このように神に目を注ぐ人は、人生のチャンスを逃しません!自分の努力と頑張りだけに生きる人は、神さまが良いものをいくら送っても気付くことが出来ないのです。

神はあなたの人生に、特別な計画を持っています!
日々、天のお父さんに期待しながら、神とともに歩みましょう。
これが聖霊様に導かれる生き方、神の子どもに相応しい生き方なのです。

Bアブラハムの信仰を見習う。

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」ローマ4章18.19節

パウロは信仰者の代表としてアブラハムを紹介しています。
アブラハムこそ、信仰をもって神に聞き従う人物でした。
私たちもアブラハムの信仰から学び、アブラハムのように神に聞く者になりましょう。

アブラハムの信仰、それは目に見える現実よりも、神が語られた言葉を信じる信仰です。
アブラハム夫妻は、とても子どもを産み育てる年齢ではなかったのですが、神が語られた「あなたの子孫はこのようになる」との約束の言葉を疑いませんでした。
目に見える現実よりも、神が何と言われているか、神の言葉に聞くことがアブラハムの信仰です。

そして皆さんは、アブラハムよりも恵まれた者です!
なぜならアブラハムよりも多く約束が与えられているからです!
アブラハムの時代には、旧約聖書すらありませんでした。
私たちには旧約・新約聖書が与えられ、そして神の言葉が人となられたイエス・キリストが与えられているのです!

イエスが聖霊と聖書を通して語っておられる言葉を聞き続けましょう。

目に見える現実がどんなに厳しくても、神は耐えることの出来ない試練を与えないと約束して下さっています。私たちはどんな時にも、神の言葉を信じましょう!

心に神の約束の言葉、励ましの言葉をたくさん蓄えましょう。
私たちは神の子どもです。神の子どもは聖霊に導かれる者です。
聖霊は神の言葉、聖書の言葉をもって私たちを導かれるのです。
状況に振り回されず、永遠に変わることのない神の言葉の上に人生を建て上げましょう。

信仰をもって神の言葉を聞く時、あなたの人生には神の奇跡が現れます!