「愛を追い求めなさい」
第一コリント人へ手紙14章
牧師 小林智彦

【愛を追い求めなさい】

「愛を追い求めなさい。また御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」1節

この箇所の前の章、13章は「愛の賛歌」として有名な聖書箇所でした。
私たちが目標とすべき愛が、どのような愛なのかを教えている箇所です。
14章は更に一歩進んで、この愛を教会の中でどのように行うべきか教えている箇所です。

真理を実際の生活に適用することが、とても大切です!

愛とは何かを知っていることと、実際に愛することとは大きな違いがあります。
愛とは何かを神学的、哲学的に論じることが出来ても、実際に隣人を愛することをしないならば、その知識は何の役にも立ちません。

パウロは同じく第一コリント人への手紙8章1節でこのように教えています。
「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」

愛がただの知識で終わるなら、とても残念なことです。
私たちは神の愛を知り、それを隣人の徳を高めるために行う者になりましょう!

イエス・キリストは愛を論じる方ではなく、実際に人々を愛する方でした。
私たちは、この方を神、主とお呼びしているのですから、イエスの模範に従いましょう。

【預言することを熱心に求めなさい】

パウロは教会の中で愛を行う具体的な方法として、預言することを強く勧めています。

「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」第一コリント14章1節から3節

(1)預言とは、一体なんでしょうか?

パウロが勧めている預言は、占いのような予言では決してありません!
これは絶対に誤解しないで下さい。預言は人の将来を占ったり、不思議なことを言い当てるのが聖書の預言ではないのです。占いの予言は旧約聖書では厳しく禁じられています。

それではパウロが勧めている預言とは何でしょうか?
パウロの勧める預言とは、キリストの愛の言葉、聖書の神の言葉を語ることです。
キリストの言葉は信仰・希望・愛に溢れた言葉です。
キリストの言葉、聖書の言葉は、人々に赦しを与え、救いを与え、希望と慰め、励ましを与えます。キリストの言葉を私たちが心に蓄え、信仰と愛を持って、人々に分かち合うことが預言です。

パウロが私たちに勧める預言とは、キリストの愛を語り、伝えることです。

イエス・キリストを救い主として信じ、救われた者には神の霊、聖霊が心に住んで下さいます。聖霊は私たちに神のことばを教え、思い出させて下さる助け主です。
聖霊に導かれて、愛の動機から人々に語る時、それが預言になるのです。
聖霊に導かれる者は誰でも神の子であり、預言者でもあるのです!

あなたは、イエス・キリストの預言者です!信仰・希望・愛の言葉を語りましょう。

(2)聖霊は私たちの言葉を換えられる。

パウロは異言よりも、預言することを勧めています。
異言については、今日は触れませんが、大切なポイントは預言も異言も、ともに聖霊による賜物であり、言葉によることです。

イエス・キリストの救いにより、私たちの言葉が変えられることが大切なのです!

救われたのか?キリストに似た者へと人格が成長しているか?愛の実を結んでいるか?
これは外見では判断できません。
しかし、明確にそれらが分かるのは、その人の語る言葉です!
言葉は人格の表れ、心の表れだからです。
イエスさまは「心に満ちていることを口が話す(マタイ12:34)」と言われています。

私たちは自分の語る言葉を通して、自分の心、神さまとの関係を考えてみましょう。

(3)否定的な思い、否定的な言葉は十字架に付けよう!

私たちの口から人の特を高める、信仰・希望・愛の言葉が溢れ流れているでしょうか?
それとも聞く者を不快にする他人の悪口、中傷、非難、怒りや憎しみ、否定的な言葉が出ているでしょうか?

偽善者のように無理に肯定的な言葉を口にしなさいと言っているのではありません!
特に否定的な思いを抑圧するなら、必ず倍になって跳ね返ってきます。
否定的な言葉を語っていることに、聖霊によって気付かされたら、我慢しないで、その否定的な思いを十字架に付けましょう!イエス・キリストの十字架こそ解決です!

イエスさまに否定的な思い、苦しく、辛い思いを分かち合うのです!
自分の辛さ、痛みをそのまま祈りの中でキリストに伝えることです。
キリストは私たちの痛み、苦しみ、罪をありのまま受けとめて下さり、十字架として背負われました。ここに癒しがあるのです!
私の罪、否定的な一切の思いをキリストは背負って下さった!これが私たちの信仰です。
信仰によって、確かに私たちはキリストの死と、復活に結び合わされているのです。

他人も自分も不快にさせる言葉が出ていることに気付いたら、自分を責めたりせず、すべてを受け入れ、受けとめて下さるイエスさまのもとに行きましょう!

スッキリするまで、祈りの中でキリストに伝えることです。
スッキリ!これが聖霊様のサインです。スッキリするまでイエスさまに伝えて下さい。

自分では祈れない方、いくら祈ってもスッキリしない方は牧師に相談して下さい。
ともに祈りましょう。自分では祈れないぐらい疲れ、否定的な思いに圧倒されることはあります。私たちには祈りの友が必要です。経験の深い兄弟姉妹に相談して下さい。

(4)キリストの愛の言葉を心に蓄えましょう。

パウロは愛の実践として私たちに預言すること、キリストの愛を語ることを勧めています。
キリストの愛を語るには、私たちの心にキリストの愛の言葉が蓄えることが必要です。

毎日、キリストの信仰・希望・愛の言葉に満たされましょう。
毎日、聖書を通して、賛美を通して、またメッセージのCDや信仰書、ゴスペルなど何でも結構です、いつもキリストの愛に満たされ続けましょう。

キリストの愛が心に満ちあふれるなら、それを人に伝えることは易しいのです。
キリストの愛が足りない時、人に分かち合うのは辛いことです。
もしキリストの愛を分かち合うのが辛い、大変だと感じるなら、先ずすべきはキリストの愛に満たされることです。私たちは日々、キリストの愛に満たされ続けることが必要です。

神は愛です。愛の源である神に私たちが結び合わされている時、私たちにも愛の実が結ばれます。イエスは葡萄の木であり、私たちはその枝です。イエスにいつもつながっていましょう。

【礼拝における、愛の具体的な実践】
最後にパウロが愛をどのように教会の中で、礼拝の中で実践すべきか教えている箇所を学びましょう。

「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
 もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。
 預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。」
第一コリント14章26節から32節

キリストの愛に満たされた私たちは、その愛をどこで表すことが出来るでしょう。
教会です!もちろん教会の中には家庭を含みます。家庭こそ第一の教会です。
教会は地上におけるキリストの体です。キリストの愛によって結び合わされ、互いに愛し、立て上げるために、私たちは聖霊によって呼び集められているのです。

この聖書箇所には、それぞれの賜物違いを通して神が讃えられ、人々が互いに愛し合う、理想的な礼拝の姿が表されています。
これが船橋エクレシアの理想的な礼拝の姿です!

教会は神を礼拝し、神の愛に満たされ、互いの徳を高め、愛を実践する場所です。
そのようにして、目には見えないキリストの姿を地上に表し、神の栄光を示すのです。

私たちはバランスの取れたクリスチャン・ライフを目指しましょう!
バランスの取れたクリスチャン・ライフとは、先ず受けること、そして与えることです。どちらか一方だけだと、バランスを壊して、不健全になります。

私たちは天に帰るまで完全な者にはなれません。地上ではいつまでも成長途中です。
私たちはいつも神から愛といのちを受ける必要がある。
また自分では祈れない時、聖書が読めない時、否定的な感情に振り回されて一歩も勧めない時があります。私たちは神とともに兄弟姉妹からも謙って、自分の弱さを分かち合い、助けをうける必要があるのです。神と人から支えられる必要がいつまでもあるのです。

しかし、どんなに弱い時でも、私たちは受ける一方で何も出来ない者ではないのです。
どんなに人生のどん底状態でも、受けるとともに与えることが出来るのです!

それは受ける以上に、与えることを通して私たちは自分の価値を確かめることが出来るからです。人に仕えることを通して、自分の使命と、目標に向かって生きることが出来るからです。これは自分に自信と確信を与えます。

私たちは受ける必要と、与える必要の二つの必要があります。
この二つの必要がバランス良く満たされると、私たちは健全に成長すると確信します。

キリストの愛を受けること。弱さを分かち合い、神の家族の助けを受けること。
賜物を用いて神を礼拝し、自分の出来ることで、神の家族を愛し、励まし、仕えること、この健全な愛のバランスの中に、私たち船橋エクレシアは進んでいきましょう!