「一番すぐれているものは愛です」
第一コリント13章
牧師 小林智彦

今週はコリント人への手紙から恵を分かち合いたいと思います。
コリント教会は手紙の内容から、問題を多く抱える教会だったことが分かります。
コリントの町が性的に乱れた町であり、偶像に溢れた町でした。
聖書的な価値観と根本から対立するような文化、価値観を持つのがコリントでした。

しかし主イエスは幻の中でパウロに現れて「この町には、わたしの民がたくさんいる(使徒18:10)」と宣教を励まされました。そこでパウロは一年半をコリントで過ごし、熱心に福音を伝え、教会を建て上げていったのです。

教会はもの凄い勢いで成長したようです。誰もがイエスの救いを喜び、教会での交わりを喜びました。しかしパウロが次の宣教地に出掛けしばらくすると、問題が出てきました。

自分たちが育ったギリシャ文化、それは自由と知性を誇る文化により、パウロの教えを批判する者、また教会のなかに勝手に派閥を作って、他の者を批判する者たちが現れてきました。また救われる前からの性的に乱れた関係を断ち切れないだけではなく、それを誇る者。霊的な賜物を比べ合う者など、さまざまな問題が現れてきたのです。

しかし、コリント教会だけが問題を抱えた教会とは言えません。
すべての教会は、罪人の集まりなのです。私たちは恵によって救われたのですから。
罪を犯さない完璧な人になったら救って上げよう。これは律法による救いです。
恵による救いとは、罪あるままでも、弱さを抱えたままでも、神の一方的な愛によって罪赦され、救われるのが恵による救いです。

教会は完璧な人、罪を犯さない完全な人の集まりではなく、不完全、弱さを抱えた者の集まりです。しかしイエス・キリストは「わたしの民」と呼んで下さり、神の一方的な恵によって赦され、神の子と変えられた者の集まりなのです。

主イエスの愛に触れ、恵によって救われると私たちの心には救いの喜びが訪れます!
ありのままで受け入れられる、神に愛される、神の家族に加えられる!大きな喜びです。
しかし、しばらくするとこの恵にも慣れてしまうのが私たちです。
喜びや感動が薄らいでくる。自分を見るとあまり何も変わっていない感じがしてくる。
(本当は劇的に変化しているのです!存在そのものが死からいのちへ変えられています)
相変わらず罪に負けて、惨めな気持を抱えている。自分の弱さを克服できない。
「あの救いの喜びは一体何だったのだ?」と救いそのものにも疑いを持ってしまう。

やがて教会への不満が出て来る。始めは愛をもって受け入れてくれた教会、優しく導いてくれた兄弟姉妹の愛よりも、欠点や弱さが目に着くようになる。

「私たちの教会は×××だ!」
コリント教会流に言えば「パウロ先生の説教は知的じゃない!説得力に欠ける!」
「わたしはパウロ先生より、アポロ先生の方が良い!」などなど・・・

自分を喜ばせてくれるものを要求し、自分を喜ばせてくれない人、不快な状態を批判し、拒絶し、何とかして自分の願う状態にしたいと教会と人を動かそうとする。
パウロはこのようなクリスチャンを「肉に属する人、キリストにある幼子」と呼んでいます。

誰もが始めは「肉に属する人、キリストにある幼子」です。
神の愛を受け、教会の兄弟姉妹から愛をたくさん受けて霊的・人格的に成長していく。
幼子の時に充分な愛を受けることは、とても大切なのです!

しかし、「いつまでも幼子のままでいたい!」と成長を拒否する時、その人にも教会にも問題が訪れるのではないでしょうか。

幼子と大人の違いは、自分の必要を回りに依存するか、自分で自分の必要を覚えて行動するかの違いと言えるでしょう。

霊的幼子も、霊的に成長した人も、ともに神からいのち、神の愛が必要です。
しかし霊的幼子の状態とは、神との関係も他人任せになっている状態です。
もちろん、救われてしばらくは、そして時には何年も私たちは霊的成長のために、回りのクリスチャンの助けを必要とします。助けを受けることは必要です。
牧師の私も、霊的な面、精神的な面でコーチングやカウンセリングを受けています。
成長のためには、神さまと、神の家族はともに不可欠なのです。

霊的幼子の問題とは、愛や励まし、導きを与えてくれる神の家族に対して、感謝の気持ちを忘れ、当たり前の様に思い、不平や不満の思いを当然のことと思うことです。
その時は、幼児を卒業する時です。

幼児から成人に向けた成長の歩みを、他人ではなく、自分で歩まなければならない時が来ているのです。コリントの教会の聖徒たちは成長に向けた歩みを自らが歩むことを忘れてしまった。またキリストにある成人の姿、その目標を見失っていたのだと思います。

「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」第一コリント13章11節から13節

霊的な成長を拒否して分裂状態に陥っているコリントの教会に向けて、彼らが見失っている成長の目標をパウロは明らかに示しています。

私たちも目指すべき霊的成長の目標・ゴールは愛です!
神は愛です!私たちは神の似姿に創造されたものです。神の愛に触れ、神の愛を知り、愛に生きること、これが私たちの救いの目的であり、成長の目標です。

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」第一コリント13章13節

私たちがこの世を去り、天の御国に持っていけるのは、地上の名声でも、財産や地位でもありません。人格の中に結ばれた神の御性質である信仰・希望・愛だけなのです。
これらは麗しい人格の実です。

【愛の賛歌:愛は寛容であり・・・】

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。コリント13章1節から8節

この13章は、愛の賛歌として有名な聖書の箇所です。
愛について書かれてあるこの聖句は、よく見ると肯定表現と同じように、否定表現でも書かれていることに気付きます。

否定表現とは、「人をねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反せず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪を思わず、不正を喜ばず・・・」です。

肯定表現は、「愛は寛容、愛は親切、真理を喜び、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」です。
そして、肯定表現のなかに「忍耐」が言葉を換えて繰り返されています。

「さあ皆さん、これが愛です。愛を目指して頑張りましょう!」、これは意味の無い勧めです。やがては疲れ果て、愛に失望することになります。

パウロは愛は聖霊の結ばせて下さる人格の実であることをガラテヤ人への手紙5章22節で教えています。聖霊とは神のご人格(心)のことです。
愛は、神との人格的な結びつきによって初めて私たちの心に結ばれるものです。
神を離れて、私たちがいくら努力しても、愛の実は育たないのです。

イエスさまは、ご自身をぶどうの木に、私たちをその枝に喩えられました。
私たちはイエスを離れては、神の御性質である愛の実を結ぶことは出来ません。
しかしイエスにしっかりと信仰によって結ばれているなら、枝である私たちには豊かに実が結ばれるのです。

そしてパウロは、私たちはキリストの十字架の死と復活に信仰によって結び合わされるべきであると教えています。


キリストの十字架の死は私たちの肉の性質を滅ぼす神の力です!
私たちの生まれながらの性質は、人をねたみ、自慢し、高慢になり、自分勝手になり、怒り、人からの悪を忘れず、不正さえも喜ぶものです。
これらの性質を自分では止められないのが私たちの限界なのです!
キリストの十字架の死だけが、私たちの生まれながらの性質を滅ぼす神の力なのです。

ある牧師が十字架の死を自分に適用する祈りを紹介しています。わたしも実践しています。
その祈りとは、単純に心の否定的な思いを十字架に付けることです。
腹を立てて誰かに怒りを覚える時、「主よ、私は怒っています。私をあなたの十字架に付けて下さい。あなたが来て、赦しを成し遂げて下さい」と単純に心の中で祈るのです。
この祈りは単純で正直です。自分の力で怒りを押しとどめるのではありません。
自分の中にある否定的な性質、罪はいくら我慢しても、必ず表に現れてきます。
我慢すればするほど、吹き出す時の圧力は凄いものになるのです。

「人をねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反せず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪を思わず、不正を喜ばず・・・」これらの愛は、我慢や努力では結ばれません。
ただ信仰と祈りによって、キリストの十字架と結び付くことによって結ばれるのです。

心にある否定的な思いに聖霊様が気付かせて下さったら、キリストの十字架に付ける祈りを実践して下さい。否定的な思いを、イエスが十字架に背負って下さいます。

【父の愛で愛情のタンクを満たしてもらう】

それでは、肯定表現の愛はどのようにして、私たちの中に実を結ぶのでしょうか。
肯定表現の愛とは「寛容、親切、真理を喜び、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」でした。

これらの愛は、受けて初めて知る性質のものではないでしょうか。
また満たされて初めて、分かち合い、行える愛だと思います。

愛の源は神です。私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活に信仰によって結びつけられることを通して救われました。そして、神の子どもとされたのです!
私たちは、神を父とお呼びすることが許されました。
そして父は、私たちのあらゆる必要、先ず愛の必要を満たして下さるのです。

私たちの心には、愛情のタンクと言えるものがあります。
誰もが愛情タンクを持っていて、愛で満たして欲しいのです。
両親から愛されて育つと、その体験が愛情タンクを満たす源になります。
しかし両親から愛された体験が不足していると、私たちは何か別のもので愛情タンクを満たそうとします。誰かに褒められたい、誰かから受け入れてもらいたい、愛情の渇きを誤魔化したいと。この状態では、誰かに愛を分かち合うことは苦痛になります。

人を愛するのが良いことだと分かっていても、それが出来ないのは、私たちの心の愛情タンクが満たされていないからなのです。

この愛情タンクを、完全に満たす源、それは天の父なる神です!
私たちの両親は精一杯、私たちを愛してくれたことを確信します。しかし、完璧な愛を持った親は残念ながら存在しません。誰もが愛に飢え乾いている。
愛の源である神と和解し、神が私たちの親になるなら、私たちの愛情タンクは満たされるのです。それも神との交わりを通してです。

イエスを救い主として受け入れるなら、神を父と呼ぶ特権が与えられます。
祈りの中で、天の父なる神、お父さん!と神をお呼びする時、愛情のバルブが開かれるのです。神をお父さんとお呼びする度に、水道の蛇口のように愛情バルブが開かれて、神の愛、キリストの復活のいのちが私たちの心の中に注がれるのです!

聖書を天のお父さんからのラブレターとして読むことも、私たちの心を満たす、神の愛です。天の父は私たちを神の子どもとするために、最も大切な自分の長男であるイエスを十字架に付けて、神の子どもの権利を私たちに分かち合って下さったのです。
神の愛がどれ程深く大きいのか、聖書を通して私たちは明確に知ることが出来るのです。

天の父なる神は、ありのままで私たちを受け入れて下さいました!これこそ寛容の愛です。自分が罪あるまま、弱さを抱えたまま神に受け入れてもらったなら、どうして私たちが、他人の弱さに対して厳しくなれるでしょう?他人の罪を裁けるでしょう?

父の愛を受けること、父の私たちに対する愛を知ることです。
父の愛は、イエス・キリストを通して豊かに流れてきます!
アバ父よ!お父ちゃんと、いつもあなたを愛して下さっている父なる神と交わりを持ちましょう。神を離れては決して愛を結ぶことは出来ません。神とのいのちある交わりだけが私たちの内に愛を結ばせるのです。