「教会のいのちを奪う権威主義」
牧師 小林智彦

宗教法人「小牧者訓練会」の代表であった卞在昌(ビュン・ジェーチャン)宣教師が2010年1月28日、準強姦の容疑で茨城県警捜査1課とつくば中央署に逮捕されました。

宗教法人「小牧者訓練会」による被害の回復を目的とする裁判の支援会「モルデカイの会」代表の加藤光一氏の声明文を配りますのでご覧下さい。(参照:http://www.mordecai.jp/)

エクレシア教会(登戸・船橋を含め)は「小牧者訓練会」が出版していた教材を過去使用し、また卞氏が主催するセミナーにも数回参加した経緯があるので、今回の事件を礼拝のメッセージの中で取り上げるべきだと思いました。

卞氏の事件は一度限りの過ちではなく、長年に渡り教会内で繰り返され、性的な犯罪だけでなく、権力の乱用によって多くの教会スタッフ、信徒に精神的に重大な被害を与えたものでした。

私は卞氏の事件を聞いた時、耳を疑いたくなる思いでした。
何冊も彼の本を読み、彼の指導するセミナーに私自ら進んで参加していたからです。
卞氏の日本の失われた魂のために、情熱を傾けている姿しか知りませんでした。
私の尊敬する牧師たち、福音派の指導者たちも彼の働きに賛同し、影響を受けていました。

実際、彼が勧めていた「弟子訓練」や「ディボーション」は聖書的であり、多くの良い影響を日本のキリスト教会に与えていました。

しかし、そのリーダーである卞氏が性犯罪を繰り返し、弱い立場にある教会スタッフを精神的に圧迫していたことを考えると、彼が指導していた「教え」は本当に霊的であったのか?本当にキリストの体を立て上げるのに役立つものであったのか?を検討する必要があると言えるでしょう。

もちろん、極端に走るのは危険です。
この場合の極端とは、卞氏が積極的に指導していた「弟子訓練」や「ディボーション」をすべて悪、すべて間違いとすることです。
また、もう一つの極端は、この悲劇的な事件は卞氏の個人的な問題であって、何らの反省や教訓を得ようとしない態度です。

私たちは、この卞氏の事件を、反省と悔い改めがなければ、自分たちにも起こりうる問題として受け取らなければならないと思います。

【キリストの体である教会からいのちを奪うもの=権威主義】

2005年4月6日 聖神中央教会の牧師であった金保牧師が逮捕された事件(懲役20年の判決が確定済み)と今回の卞氏の事件には、非常に似た背景があると思われます。
事件を長年隠蔽し、牧師の罪を助長させたのは「権威主義」にあったと言えます。

モルデカイの会、代表の加藤光一氏が指摘してるように、(以下、声明文の抜粋)

1.主任牧師である卞在昌宣教師が、自らを霊的指導者であるとしてその絶対的権威を説く権威主義的な教会政治にあり、このことによって、被害者らが主任牧師や上位教職者には絶対に服従しなければならない、その失敗も絶対に責めてはならないと信じ込まされたこと。

2.その絶対的権威を利用して主任牧師や上位教職者が不法行為を行ったこと。
3.主任牧師や上位教職者を責めること自体が罪であると被害者に信じ込ませ、逆に、教会内部において訴えるものを非難する風土を醸成し、これらの被害事実を隠蔽してきたこと。( 以上 モルデカイの会 加藤光一氏の声明文から抜粋 引用 
http://www.mordecai.jp/)

私たちは「権威主義」の毒を徹底的にエクレシアから、キリストの血潮によって洗い流し、その芽を徹底的に摘み取らなくてはなりません!

私たちは、この問題に取り組む時、キリストの血とキリストのみ言葉以外の答えを求めるべきではありません。人間的な解決を求めるなら、権威主義に対する反権威主義、それは無秩序と放縦を教会に持ち込むことになるでしょう。どちらも御霊の実である愛をもたらすことはありません。

それでは、「権威主義」の問題における一番の課題、教会における信徒と牧師の立場について聖書は何と教えているのでしょうか?

まず第一に、そもそも「牧師と信徒」のような、何か上下関係、また立場の違いを聖書は定めていないと言うことです!これはルターの宗教改革によって再発見された真理です。
カトリック教会は聖徒を聖職者階級と世俗階級の階層に分けていましたが、もともと新約聖書にはそのような聖徒に階層を定める教えはないのです!

私たちは、だれもが主イエス・キリストの十字架の死の贖いによって罪赦され、復活のいのちを受けて神の子どもとされたものです。天の父なる神は、自分の子どもたちに優劣を付けることは決してされないのです!

マザーテレサも、ヨハネ・パウロ2世も、十二弟子も私たちも、みんなイエスさまによって罪を赦して頂かなければ救われない罪人であり、恵によって神の子どもとされたのです。
恵による救いの世界には、身分の違いや、上下関係は存在するはずがないのです!

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
第1ペテロ2章9節

ペテロは私たち、恵によって救われた者の立場を教えています。
私たちは一人の例外もなく、神に選ばれ、王であり、祭司なのです!

牧師は新約聖書ではポイメーン(ギ)の訳語です。ポイメーンとは、羊飼いです。
イエスさまに従う者を聖書ではよく羊に喩えています。
牧師はイエスさまの羊のお世話をする、お世話係に過ぎないのです。

卞氏は牧師の立場は神聖にして不可侵、牧師の指導には絶対服従という指導をしていたそうですが、これは神のみ言葉に全く反することが分かっていただけたと思います。
これは信仰心を利用したマインド・コントロールであり、非常に悪質な手口です。

聖書にはハッキリと牧師が罪を犯した時の扱い方について教えています。

「長老に対する訴え(告訴)は、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。
罪(犯罪)を犯している者(この箇所では、直接は牧師・長老を指す)をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行ないなさい。」第1テモテ5章19節から21節

牧師のメッセージ、説教についても、聖書的に考えなければなりません。
聖書は生ける神のことばです。これは聖書信仰に立つ私たちの信仰であります。
しかし、牧師の説教=神のことばでは、決してありません!
牧師のメッセージは、皆さん一人ひとりが聖霊とみ言葉によって吟味しなければならないのです。吟味した上で、受け入れるべき教え、勧めの場合はアーメンと信仰の応答をすべきなのです。聖霊とみ言葉による吟味が必要なのです。

「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」第1コリント14章29から31節

説教は、そもそもは預言です。預言も、占いの予言ではなく、神のことばを預かるのが本来の意味です。説教が始まったのは、旧約時代のバビロン捕囚以降と言われています。
ヘブル語が理解できなくなった会衆に対し、ヘブル語聖書をアラム語に通訳し、意味や背景を説明し、またそれに基づいて勧めのことばを語ったのが会堂礼拝における説教の始まりです。そして新約聖書時代には聖霊様の自由な働きによって、勧めがなされたようです。
しかし、それは無批判に受け入れられるべきものではなく、信仰者一人ひとりの吟味が必要とされました。

もちろん理性による批判は、信仰のいのちを消してしまうことがあります。
大切なのは、それぞれの信仰に応じた吟味であり、信仰の応答です。
分からない場合は、分からない!受け入れられない場合は、受け入れられないで良いのです。決して自分を不信仰などと責めるべきではありません。
パウロも第1コリント14章で教えているように、メッセージの目的は26節の後半、「そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。」にあります。

説教の目的は、神の子どもたちが、霊と魂にみ言葉の糧をたくさん受けることにあります。
神のことばによって豊かに養われ、愛と赦しを確信することにあるのです。
説教は決して、牧師や宗教団体の利益のために、信徒に圧力をかけるためのものでは決してありません。そんな嘘の説教は、断固として拒絶して下さい!
皆さんの説教を吟味する力が祝福され、悪いものを拒絶し、良いものは徹底的に受け入れるようになりますように祈ります。

また、皆さんの中からメッセンジャー、賛美リーダー、優れた祈り手、伝道者、神学者、聖書教師が起こされることを期待します!
エクレシアはまだ若い教会なので、私がメインに説教し、ティム・ヒューバー牧師が月に一度説教して下さり、また聖霊によって起こされるゲストにメッセージをお願いしていますが、皆さんの中からも説教や教えを分かち合ってくれることを期待します。
皆が神の子どもであり、皆がキリストの祭司だからです。私たちには、賜物の違いはあっても身分の違いはありません。

【恐い人のいない教会を目指そう!】

私たちエクレシアは、「恐い人」のいない教会を目指したいと思います。
短い牧会人生ではありますが、多くの牧師、霊的指導者たちに出会ってきました。
私が個人的にも、また教会同士でも交わりを持っている牧師に共通することは「ありのまま」です。それに対して挨拶も出来ない、付き合いたくもないと思わせる牧師たちもいます。(かなり本音トークでご免なさい!)それは話していて、妙な緊張感、肩が凝る、見下されている、教会の規模にこだわる人たちとはお付き合いしません。
ひと言で言うと「恐い人」とは、付き合いません。

かなり主観的で、私自身の問題も反映されているようなので、これは小林の勝手な思いだと思って聞いて下さい。


しかし、どんな大教会の牧師で、凄い肩書きを持っている牧師でも、とてもフレンドリーで、全く緊張感を持たないで接することが出来る牧師もたくさんいます。
サドルバック教会のリック・ウォーレン牧師に会った時がそうでした。
オバマ大統領の就任式に祝福の祈りをしたのがリック・ウォーレン牧師です。
アメリカの福音派のリーダーとされている人物です。

ちょうど10年前になりますが、私たち夫婦はサドルバック教会の礼拝に参加しました。
礼拝には数千人の会衆が集い、その日はちょうど洗礼式も持たれていました。
礼拝が終わり、教会堂を出ると、今メッセージを終えたばかりのリック師が信徒とリラックスして挨拶し、話していました。まるで世間話をするかのようでした。
私たち夫婦とも気軽に挨拶して下さり、歓迎してくれました。喜んで話しを聞いてくれたのには驚きました。まるで親しい友だちを迎えてくれるかのようでした。

私は「恐い牧師」と「ありのまま牧師」の違いを考えました。何が違うのか?
「恐い牧師」は権威主義的な牧会をしている牧師たちです。
卞氏のような犯罪を犯さないまでも、権威主義的な教会は残念なことにかなり存在します。

教会が権威主義的になる一つの大きな理由は、いつの間にか「自分」が教会を導こう、教会を成長させよう、指導しようとするところにあると思います。
教会成長論というのがあります。これはアメリカで流行した考えです。
アメリカにはメガ・チャーチと呼ばれる教会が存在します。
メガ・チャーチと呼ばれる教会の牧師たちが、何冊も、「こうすればあなたの教会も成長する!」のようなノウハウを伝授する本やセミナーを主催しました。
そこに、日本の小さな教会の牧師たちがこぞって参加し、自分たちの教会を大きくしようとしたのです。「こうすれば、ああすれば、○○すれば教会は成長する!」、そのことばに踊らされて、アメリカ教会の真似をし始めました。ある教会は成長し、ある教会は分裂しました。教会成長論、そこにはテクニックはあっても聖霊のいのちある導きはなかったのです!

しかし、自分は自分の努力や方法によって教会を大きくしたと自負する牧師は、当然、自負心が生まれます。自分を見習え!と。このようにして、いつの間にか自分を拝ませる偶像礼拝が誕生します。

最近、ある方が霊的示唆に富む発言をしておられました。
バビロンのネブカデネザル王は自分の像を人々に拝ませたと。自分の帝国を造り上げた指導者は、自分を偶像として人々に拝ませたくなるものだと指摘していました。

自分の姿、自分の成功を偶像、つまり神格化し、誰かに拝ませたい。
これが偶像礼拝であり、また権威主義でもあるのだと思います。

決して教会に導入してはならない考えです。
教会はキリストの体です。キリストの体は頭なるキリストが導かれるのであって、どんな優れた牧会者もキリストに勝って自分を誇ることは出来ないのです。

自分を誇ると、自分を拝ませたくなる!これが人間の弱さです。
神の御霊に導かれる神の子どもの姿ではありません。

イエスさまはどのような人物だったのでしょうか?
イエスさまのもとには、子どもたちが喜んで集まってきたと聖書に書いてあります。
子どもは決して「恐い人」に近寄りません。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」第1ヨハネ4章18節

私たちがもし、キリストに導かれ、ありのままを受け入れられ、聖霊が自由に私たちのうちに御業をなしているなら、人々は私たちのもとに寄ってきます。恐れがないからです。
しかし人々を遠ざけ、近寄りがたいものを発しているのなら、自分自身を吟味すべきです。
自分はキリストの愛に活かされているだろうか?それとも自分の力だけで生きているだろうかと?

エクレシアからは「恐い人」がいなくなるようにしましょう!
もちろん、「恐い人」を追い出すのではありません。自分の頑張りや努力で偽物の実を結ぶのではなく、御霊に導かれ(キリストの愛に押し出されて)ありのまま、リラックスして歩みましょう。教会を成長させるのはイエスさまです!それぞれの教会にはそれぞれの役割があると私は信じます。それを決められるのはイエスさまです。

メガ・チャーチにはメガ・チャーチの良さがあるでしょう。小さい教会には小さい教会の良さがあるのでしょう。教会がキリストの体であるなら、サイズによって優劣が決められるでしょうか?

教会成長論は、この世の成長神話が混ぜ込まれた偽りの神学です。
大切なものを見失わないようにしましょう。

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けない(表面的なこと)は大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」ガラテヤ人への手紙5章6節