「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」
ローマ3章20節から26節
牧師 小林智彦

【すべての人は、罪を犯した】

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(23節)」

パウロはここで神を知らない前の私たちの姿を、ハッキリと示しています。
「罪を犯した」とは、何かの犯罪を犯したと言うよりも状態を表しています。
罪の状態とは、神さまから切り離されている状態です。神と無関係にある状態です。

聖書は始めから、唯一の神が天と地とそれに満ちる一切のものを創造され、人間も神によって造られた存在であることを教えています。
そして人間は他の動物とは違い、神の似姿に造られた霊的な存在だと教えています。

私たち人間は、神の似姿に造られています。そして神と関係を持つ部分、霊の部分は神さまと正しい、いのちある関係を持つことによって成長するのです。

しかし私たち人類の最初の夫婦、私たちの一番の御先祖さまであるアダムとエバが罪を犯してしまった。神の言葉を守らず、また神を意識的に遠ざけるようになってしまった。
これが罪ある状態です。そして私たちは皆、アダムとエバの罪に留まっているのです。

神に背を向けている状態、これが罪です。神と無関係な状態、これが罪です。

私たちは本来、神さまといのちある正しい関係を持つ時、霊に神のいのちを受け、人間本来の満ち足りた生き方が出来るのです。そのように神は人間を造られたのです。

神との正しい関係がいのちであるなら、神との関係が無い状態、罪の状態は死です。
私たちはどちらかの方向にしか進めないのです。立ち止まることは出来ません。
神との正しい関係を始めるなら、いのちからいのちへ進みます。
しかし、神との関係を持っていないなら、死から死へと進みます。

しかし残念なことに、罪の状態にある私たちは、自分の生き方が間違っていることに気付いても、それを自分の力で直すことが出来ません!

だれでも自分の心に正直になれば、自分が完璧ではないことを認めているはずです。
自分が不完全であることを、だれもが知っています。

私たちは、神を知らない前は、本当の生きる目的を知りませんでした。

何のために生きるのか、人生には生きる意味や目的があるのか?
そもそも人類は、何処から来て、何処に行くのだろう?
だれもが死ぬ。死んだ後、人間はどうなるのだろうか?
これらは、人間にとって根本的な問いだと思います。

哲学や宗教が生まれたのも、この根本的な問いに答えるためです。

「なぜ自分は生きているのか?人生の目的は何か?」

満足して生きるには、避けては通れない疑問であり、これに答えることがある意味、その人の人生を方向付けるのではないだろうかと思うのです。

人類はこの根本的な問いかけに答えるために、三つの取り組みをしていると思います。
一つは宗教です。神との関係に、人生の意味を見いだす道です。
もう一つは哲学です。日本では哲学は人気がありませんが、学問の始まりはギリシャ哲学にあります。もちろん哲学の中には文学、科学も含まれます。
そしてもう一つは、快楽です。人生の意味や目的など、問うことを止めて、今を楽しく、面白く生きよう。快楽による解決です。

これらは一時的には、私たちの心を満たすことは出来ても、私たちの霊の部分、深いいのちの部分を満たすことは出来ない。

宗教も科学も、人間の努力や頑張りでは、滅びに向かって進む死の状態、罪の状態からは誰ひとりとして抜け出すことは出来ないのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(23節)」

「神からの栄養を受けることが出来ず」は新改訳聖書の欄外には「神の栄光に達しない」とあります。

つまり、人間がそれぞれ宗教や科学によって人間性を向上しようと努力しても、神が創造した本来の人間の姿には達しないのです。

罪があるからです!つまり、神との関係が断絶しているからです!

神との断絶した関係を、人間の努力や頑張りでは誰ひとり乗り越えることはできません。
なぜなら、どんな偉大な人間も、歴史上、死ななかった人が一人もいないからです。
世界を征服した偉大な王たちも、政治家たちも、科学者、宗教家も皆死にました。
だれも、神のいのちに、神の栄光に、自らの力で到達し、死を克服した者はいないのです。

「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(20節)」

人間の側からの救いの可能性はありません。
人間が造った宗教、道徳、善行、科学も教育も、人間に本当の救い、永遠のいのちを与えることは出来ないのです!

【イエス・キリストを信じる信仰による神の義】

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。(21節)」

義とは罪の反対です。義とは、神とのいのちある関係、神のいのちある状態です。
「律法とは別に」とは、人間の宗教的な努力や頑張りによらないでということです。
つまり、人間の側からではなく、神の側から差し出された救いの道ということです。

人間の側からは救いがないので、神さまの側から救いの道を提供して下さったのです。

「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(22節)」

イエス・キリストは神が遣わした救い主です。イエス・キリストは神から離れた私たちと神をもう一度つなぐいのちの道なのです!

神が救い主として送られた一人子イエスを、救い主として信じ、心に受け入れる時、神のいのちは再び私たちに注がれ、私たちは本来の姿へと回復する人生が始まるのです。

イエスは神があなたに遣わした救いの道です。
イエスは神があなたに遣わした永遠のいのちです。
イエスは神の真理です。神の真理は、あなたを自由にします。
イエスの愛と赦しは、罪責感、孤独、不安、からあなたを解放します。

イエスを信じましょう!信仰によってのみ、私たちは神と関係を保つことが出来ます。
また信仰とは、神の恵みに対して心を開くことです。
私たちは弱い時があります。積極的に信じる気力も湧かない時があります。
心を開くことです。神の霊が自由にあなたの中で働けるように、信頼して心を開くことです。神があなたを救って下さいます。神さまに委ねることです。

「それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(22節後半)」

救いを人と比較する必要はありません!何の差別もないと聖書が約束しているからです。
クリスチャンの中には、何の優劣はありません!
神が特別、ある人に優れた救いを与え、ある人には劣った救いを提供するようなことは決してありません!神の目には、皆さんは一人ひとり特別な存在なのです。
あなたには、あなたの特別な救いの計画があり、他人と比較するものではありません。

神はあなたを、イエスさまと同じく価値ある者と認めて下さっているのです!
だから、あなたにイエスさまを遣わしました。神はあなたの人生が滅びから、永遠のいのちへと方向転換できるように、イエスさまを遣わされたのです!

あなたの人生を変え、あなたに永遠のいのちを与え、あなたの人生を回復するのは、あなたではなく、あなたの努力でもなく、イエスであることを信じましょう!
私たちがすることは、イエスさまがそのことをなして下さると信じること、心をイエスに開くことです。

イエスによって与えられた神とのいのちある関係の中に留まりましょう!
神は私たちの天の父となられました。私たちはイエスによって神の子どもです。
必要を何でも、天の父に願いましょう。父が必要を必ず満たして下さることを覚えましょう。心の痛み、苦しみ、辛い状況、すべて父に伝えましょう。乗り越える力、確信を神からいただきましょう。

神とのいのちある関係が回復されたのですから、これを楽しみ、喜びましょう!