「イザヤを通して語られた福音」
イザヤ書1章から
牧師 小林智彦

【しかし、シオンの娘は残された】

「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。』」
イザヤ書1章2節から3節

親子関係が上手く行っていないどこかの家庭のようですね。
愛情を注ぎ込んだ息子、娘が反抗して家を出て行ってしまった。
不良グループの溜まり場に入り浸っている。未成年なのに、たばこを吸い、酒を飲み、頭は茶髪、最近では派手なタトゥーまで入れている。

「うちの息子、うちの娘は大丈夫だろうか?これ以上、良くない道に進んで欲しくない!家に帰ってきて欲しい!傷つく前に早く帰っておいで!」

偶像礼拝に真っ直ぐ進み、滅びの方向に真っ直ぐ進むイスラエルを心から心配する天の父なる神の親心が、イザヤによって代弁(預言)されています。

「子らはわたしが大きくし、育てた。」

そうです!天の父なる神は、エジプトで奴隷であったユダヤ人を自分の養子として迎え入れ、世界で一番良い土地をお与えになりました。そして素晴らしい教育も施しました。
律法という教科書を用いて。モーセを初めとして、世界で最高の教師によって子どもたちを教育しました。親も最高、教育も最高、育てた環境も最高でした!

「しかし彼らはわたしに逆らった。」

天のお父さんのいったい何が気に入らなかったのでしょうか?
これほど素晴らしい父なる神を捨てて、木や石で作った出来損ないの偶像を「お父さん、お母さん」と手を合わせて拝んでいるのです。

「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

天の父なる神さまに欠点などあるはずがありません。ここは神さまのユーモアです。
偶像礼拝に走るイスラエルを牛やロバよりも、物分かりが悪いと嘆いているのです。

私はここで一つの疑問が心に浮かびました。
神は何故ここまで物分かりの悪いイスラエルを、ご自分の子に選ばれたのでしょうか?
もっと物分かりが良く、忠実な民族を選べば、神さまの心も痛まずに済んだのではないだろうかと思うのです。

かたくなな心をもち、反発する民族、真の神を知りながらも、他の神々に直ぐに浮気をするイスラエル。神がイスラエルを選ばれたのは、それは私たちの為だと確信します!
神がイスラエル民族の性質を知りながら、敢えてご自分の子どもとされたのは、天の父がどれほど赦しに富み、情け深いお方であるかを私たちに示すためでした!

もし神が優秀で、忠実で、律法を守り、偶像礼拝をしない民族、欠点のない人を選んでいたら、私たちは決して神さまの救いに与ることは出来なかったでしょう。
また、神さまの一番大切な御性質である愛や赦しについて知ることは無かったでしょう。

天のお父さんは、一番最初に、一番手の掛かる問題児を自分の子どもにされたのです。
こんな問題児でも、天の父は決して見捨てないのです。
「だからあなたも大丈夫だよ!安心して、わたしの子どもになりなさい」と招いておられるのです。神は怒りの神ではありません。神は愛と赦しの神です。

神さまは罪を憎み、怒ります。しかし罪人は憐れまれるのです!
神が罪に対して怒られるのは、大切な私たちが罪で滅びることがないように、私たちの救いのために怒られるのです。神の怒りは、神の愛の表現の一つなのです!

自ら進んで偶像を礼拝し、神を捨てたイスラエル。彼らは当然、自分の選んだ行為に対する結果を刈り取らなければなりませんでした。アハズ王は主を捨てて、偶像礼拝を積極的に取り入れた王でした。彼の時代、アッシリア、北イスラエル、アラム、エドム、ペリシテと様々な国が南ユダを襲いました。国は壊滅の危機にありました。
本当は滅ぼされても、全く不思議でないぐらいの攻撃を受けたのです。
そして、神がイスラエルに与えた愛の大きさと、イスラエルが神に対してなした裏切り行為を考えるなら、神さまから滅ぼされても不思議ではありませんでした。
ところが・・・

「しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。」
イザヤ1章8.9節

「シオンの娘」とは、エルサレムを指しています。「ぶどう畑の小屋のように」というのは、エルサレムは山の上にあり、また回りの町々が外国の軍隊によって壊滅的な被害を受けていたので、ユダ国の中でエルサレムだけがポツンと取り残された状況を表しています。

神は決してイスラエルを、エルサレムを捨てません!
彼らがどんなに神に逆らい、神に反逆したとしても、神はイスラエルを愛し続けるのです。
悔い改め、神に立ち返り、新しくやり直せる可能性を必ず残されるのです!

神はエルサレムを守られました。アッシリアが十八万五千の軍隊でエルサレムを包囲しても、神はエルサレムを守られました。神は決して選んだ者を捨てられないお方であることを示しておられるのです!

神はイスラエルを愛しておられます!その愛は永遠に変わりません。
そして同じ永遠に変わらない愛を持って、天の父はあなたを愛しておられるのです。
イエス・キリストを通して示されたあなたへの愛は、さらに大きく深いのです!

あなたが今、押しつぶされそうな困難の中に置かれていても、アッシリヤからエルサレムを守り通した神は、あなたを守ってくださいます。

あなたが今、過去の過ちを刈り取るような辛い状況に置かれていても、必ず新しい人生を始めることが出来ます。神はあなたに新しい始まりを用意しておられます。

エルサレムを守り続けた神の愛を、イスラエルを捨てなかった神の真実を覚えましょう。
それは、変わらぬ愛と真実さを持って、あなたを愛してくださる神の約束なのです!

【さあ、来たれ。論じ合おう】

「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」イザヤ書1章18節

神に逆らい続けたイスラエル。しかし天の父は「もう二度とわたしのところに来るな!」とは言いません。反対に「さあ、来なさい、話し合おう」と親しく招いて下さるのです。

悪ガキだった経験を持つ私にとっては、「さあ、来なさい、話し合おう」と親や先生から言われると「呼び出しだ!」と恐れたものです。たっぷりと説教されるからです。(笑)
さんざん叱られ怒られます。子供心には「次はバレないようにやろう」と誓ったものです。

しかし、天のお父さんは違います!
「さあ、来なさい、話し合おう」とは、私たちの罪を責め、叱りつけるためではなく、私たちを慰め、私たちの罪を赦す為なのです!

まず始めに赦しがあるから、私たちは神に近づくことが出来るのです!
無条件の赦しだから、私たちは神の前に立てるのです!

神に近づく時、いのちと愛に近づく時、私たちの心にも、いのちと本当の愛が分かり、罪を罪として自覚することが出来るのです。

罪への責めと裁きは、却って心に恐れを植え付けます。
恐れを抱かせる相手には、私たちは心を開きません。心を開かない時、そこにはいのちの交流は生まれないのです。


私たちが罪を犯し、悪習慣に流されるのは、私たちの心にいのちが足りないからです。
本当の愛が分からないからです。

だれもが清い水を飲みたいと思う。だれがどぶ川の水を飲みたいと思うでしょうか?
しかし、清い水がないから、仕方がなく汚い水を飲んでしまう。飲まざるを得ないのです。

私たちの心を本当に満たす、清い水は神から流れてきます!
しかし、神への恐れが、罪への罰が恐れを抱かせ、神に近づけさせないのです。

だから天のお父さんはイスラエルに、そして私たちに呼びかけられているのです。
「さあ、来なさい! わたしはあなたの罪を赦す!決して責めることはしない!」と。

「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」

このイザヤを通して語られた赦しの言葉は、イエス・キリストの十字架によって、より確かなものになりました。イエスの十字架、それは私たちの罪を赦すためです!
キリストの流された血潮が、信じる私たちを包む時、神は私たちの全ての罪を二度と見ることはないのです!罪無いもの、御子イエスの義を通して私たちを見て下さるのです!

神の目には、あなたは純白の雪のように、真っ白な羊毛のように、罪の染みのない者として受け入れられているのです。

神は愛であると聖書は教えます。そして愛には恐れがないのです!
私たちの全ての問題の解決は、神のいのちの中にあります。神から遠ざかるところには、問題を誤魔化し、さらに問題を複雑にする闇しかありません。
恐れは取り除かれているのですから、神に近づきましょう!

天の父の大きな赦しを覚え、いつも父の愛を覚えましょう。父の赦しに包まれて、聖書から希望の約束、慰めと励ましの言葉を心に蓄えましょう。

「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。」イザヤ1章19節

今年のエクレシア目標聖句は「信仰をもって聞く」ですね。
イザヤも私たちに勧めています。「喜んで聞きなさい」と。
恐れや、「○○しなければ!」、そのような不信仰な態度で聖書を読むのは止めましょう。
また、聖書を読んで心に恐れや罰や義務感だけが残るのなら、それは御霊によって聖書を読んでいるのではありません。心に刺さっている恐れを通して神を見上げています。

先ずキリストの十字架を見上げ、心に刺さっている恐れを、キリストの血潮と愛によって溶かしていただきましょう!

イザヤの活躍していたのは神殿礼拝が行われていた時代です。その当時ですら、神はイザヤを通して罪の赦しは恵によることを明らかにされているのです!

御霊に導かれ、み言葉の中から神の愛と赦し、希望と慰めを見つけましょう。
それがあなたの心の糧になり、あなたを神の子どもとして成長させます。