「あなたのために生まれた救い主」
ルカによる福音書2章8節から20節
牧師 小林智彦

【福音は恐れを取り除く】

「さてこの土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた」8節

神の御子が誕生した喜ばしい知らせは、まずベツレヘム付近の羊飼いに伝えられました。聖書には羊飼いがしばしば登場します。モーセもダビデも羊を飼っていました。
しかし実際の羊飼は、聖書とは違い、社会的には見下げられた仕事でした。
寒空の下、夜通し他人の羊を見張る仕事、それが実際の羊飼いでした。

「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。」9節

「主の栄光」とは、聖書では神の臨在を現します。
モーセの幕屋に、ソロモンが建てたエルサレムの神殿に、主の栄光は現れました。
神殿には主の栄光が満ち、祭司たちは主の栄光の雲に遮られて、神殿に入ることが出来なかったと書かれています。しかし、この主の栄光はバビロン捕囚の時に神殿を去りました。
捕囚から帰ってきた民が第二神殿を建てた時、主の栄光が現れたとは書いてありません。

絶えて久しい主の栄光が、なんと神殿ではなくベツレヘムの荒野に現れたのです!
羊飼いたちは「ひどく恐れた」とあります。

モーセが荒野で礼拝をしていた時、幕屋の至聖所の中に神の栄光は輝いていました。
しかし、一般の人は誰も幕屋の中、至聖所に入ることは許されませんでした。
大祭司ですら、年に一度の祭り(大贖罪日)の時、それも犠牲の血を携えなければ入ることが許されなかったのです。

もし大祭司であっても、神の定めた律法に従わないで、勝手に至聖所にはいるなら、神の怒りに触れ、神の天使に打たれて死ななければなりませんでした。
神の戒めに従わず、犠牲の血も無しに神に近づくことは、恐ろしいことだったのです!
羊飼いたちも、ユダヤ人でしたから律法は知っていました。
彼らが突然、主の栄光に接し、そして「ひどく恐れた」のは、当然だったのです。

私たちの中にも、神を恐れる思いはありませんか?
日本の宗教の本質は、神々への恐れにあると私は思います。神は時に人を呪い、罰を与える恐ろしい存在、供え物や祭りで神の怒りをなだめなくてはならないとの思いがあります。
神は恐れなければならない、しかし、近づきたくない存在。
「触らぬ神に祟りなし」が、そのまま日本人の神観だと私は思います。

聖書は、罪を犯したアダムとエバの心に、神への恐れが生じたことを示しています。
罪を犯す前は、いつも神とともにエデンの園を歩んでいたのに、神が禁じる木の実を食べた時、彼らは神を恐れて隠れたのです。
私たちの心にも、深い部分に神への恐れがあるのだと思います。
神への恐れが、神への無関心を私たちの心に生み出し、神への恐れが、私たちを神から引き離します。神への恐れが、私たちをいのちとかけ離れた滅びへと向かわせるのです。

神への恐れは、取り除かれなければならないのです!
なぜなら、真の神の中には、いのちと平和、愛と赦しが満ちているからです。
神を離れて私たちは本当のいのちを、愛も喜びも体験することは出来ません。

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』」10節

すばらしい喜びの知らせ、これが福音です!
今までは、大祭司しか神の栄光に接することが出来なかった。
しかし、いま神の一方的な恵によって、神の栄光が現されたのです!

人から神への道を教えるのが宗教です!
罪を犯して、神から離れ去った人間が、再び神に帰るためには罪を自力で処理しなければならない。神にふさわしく自分を整え無ければならない。それが宗教です。
しかし、いくら人間が宗教によって努力しても、神の聖さに到達することは出来ません。
努力によっては、どんな人間も神に立ち返ることは出来ないのです。

しかし、福音は全く反対です。
人から神へ向かう道が宗教でしたが、神から人へ向かう道、これが福音です!
どんなに大きな罪を犯した者も、どんなに神から離れたところにいる人でも、神さま自らが来てくれるなら話は別なのです。

神は宗教による救いの道ではなく、福音による救いの道を私たちに開かれたのです!

神はこの福音を、まず羊飼いに伝えられました。
なぜ羊飼いだったのでしょう。なぜ祭司やパリサイ人などの宗教家たちに福音を伝えないで羊飼いに伝えたのでしょう。

羊飼いたちは、宗教による救いから、遠いところに暮らしている人たちでした。
彼らには宗教が要求する正しい生活も、宗教活動のためのお金も時間もありませんでした。

彼らは宗教には見捨てられた人たちでした。
しかし、神の福音には選ばれた人たちだったのです!

【あなたがたのために、救い主がお生まれになりました】

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」ルカ福音書2章11.12節

宗教ではない救いの道、福音の道、その道こそ主イエス・キリストです!
私たちを救うのは主イエス・キリストです。神が私たちに伸ばされた救いの道です。
この方を、神が私のために使わした救い主として、心に信じ、口で告白するだけで、あなたの罪は完全に赦され、あなたは神と和解するのです!あなたは神の子とされるのです!

そんなに簡単なんですか?キリスト教を勉強しなければならないんじゃないんですか?
聖書をぜんぶ読まなければならないんじゃ?清く正しく美しく生きなければならないんでは?それらの行いは出来たら良いでしょうが、救いのために必要ではありません!

神が救い主として遣わされた、神のひとり子イエス・キリストを自分の救い主と信じるだけで、アーメンと告白するだけで、あなたは救われるのです!これが福音の道なのです。

宗教は救われるための全ての努力を私たちがしなければなりません。
しかし福音は、救いに必要なことは全てイエスさまが成し遂げて下さったのです。
私たちがすべきことは、ただ受け取りに自分のサインをするだけなのです。
だから、イエスさまの救いは良い知らせ、グッド・ニュース、福音なのです!

イエスは神の救いの道です!この方を救い主として信じる時、あなたは唯一真の神といのちのつながりを持ちます。最初は感じなくても、実感が無くても、神を信頼し続け、神の恵みに留まり続けるなら、つまりイエスとのつながりを保ち続けるなら、神のいのちがあなたの霊に、魂に、体に流れてきます!キリストに留まるだけです。
神があなたを導きます。神があなたをご自分の子どもとして訓練し、成長させます。

まだイエスさまを受け入れていない人は、このクリスマスの良い時にイエスさまを受け入れましょう!その人のために今、祈りましょう。

〈イエスさまを受け入れる祈り〉

神さま、私の救いのためにイエスさまを遣わして下さり、ありがとうございます。
イエスさまを信じるだけで救われることを聞きました。
イエスさまが私の罪の身代わりに十字架で死に、復活されたからです。
イエスさまを、神さまが遣わした救い主として信じ、受け入れます。アーメン!

あなたは、救われました。過去・現在・未来の全ての罪が赦され、あなたは神の子どもになりました。あなたは永遠のいのちを受ける者にされ、あなたの救いは無くなりません!

【飼葉おけに寝ておられるみどりご】

御使いは救い主を「主キリスト」と羊飼いたちに紹介しました。
「主キリスト」、羊飼いたちがその称号を聞いた時、驚き、そして跪いたのではないかと想像します。それほど「主キリスト」は、畏れ多い称号なのです。
「主」とは、ギリシャ語でキュリオスです。当時、キュリオスは人間にはローマ皇帝にしか許されない称号であり、ユダヤ人には全能の神を指すことばでした。
「主」と、日本語では簡単に口に出せますが、当時の世界ではうかつには口に出せないことばでした。戦時中の日本で「天皇」を軽々しく口に出せなかったのと同じです。

そして「キリスト」は救い主として、当時のユダヤ人に熱望されていた存在でした。
ローマからイスラエルを解放する解放者として、そしてダビデ王がイスラエルの繁栄を築き、強いイスラエルを建て上げる王として人々から熱望されていた存在がダビデの子、とも呼ばれるキリストだったのです。

「主」であり「キリスト」である方、旧約聖書の全能の神が、なんとキリスト、救い主として登場された!ビックリする知らせです。ユダヤ人なら誰でも跪いた礼拝したでしょう。

そして羊飼いたちは想像したと思います。ことばで宇宙と全ての生き物を作られた方、シナイ山でモーセに顕れた神、天と地を振るわせる声を持つ方、どんなに力強く、大きく、恐ろしい姿をしているんだろうか?と。

しかし、御使いは直ぐに続けて言いました。

「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」ルカ2章12節

生まれたばかりの赤ん坊!それもヘロデ王の宮殿でも、豪邸の一室でもなく、家畜小屋の牛やロバの飼い葉桶に布にくるまれて寝ている赤ん坊!これが聖書の神、主であるのです。
ローマ皇帝よりも、はるかに優れた権威を持つ方なのです!

羊飼いたちは、混乱したと思います。御使いたちに騙されているのか?
悪い冗談なのではないか?なぜ、神が赤ん坊なのか?なぜ、家畜小屋で?
考えれば考えるほど、訳が分からなくなり、混乱してくる。

一方御使いたちは、自分たちの告げた知らせに、赤ん坊の誕生に喜び、多くの天使の軍勢とともに賛美を歌い出しました。

御使いたちは、賛美せずにはいられなかったのです!彼らは、全能の神が人となられたこと、それも最も弱々しい赤ん坊になられたこと、最も貧しい家畜小屋で人生を始められたことの深い意味を知っていたのです。

皆さん、イエスさまの生涯を考えてみましょう。人生の始まりは家畜小屋でした。
それではイエスさまの人生の終わりはどこでしたか?カルバリの丘、十字架の死でした。

家畜小屋で生まれたイエスさま。家畜小屋での出産と言うのは、何と可哀想な!と思いますが、当時ある人たちには一般的なお産の場所でした。それは奴隷です。
奴隷は主人にとっては牛や馬と同じく家畜でした。イエスさまは奴隷と同じ場所で生まれたのです。奴隷は、当時最も身分が低い人でした。身分どころか人間として扱われていませんでした。私は神は、計画を持って、イエスさまが家畜小屋で生まれるようにされたのだと思います。

イエスさまの最後はカルバリの十字架でした。十字架刑は最も残酷な処刑方法でした。
ローマ人はどんなに極悪非道な犯罪人でも、同じローマ人にはお情けで十字架刑で処刑しなかったそうです。十字架で処刑されたのは外国人、それも人を殺した極悪人だけが十字架で処刑されたのです。ローマ人から見れば、最も憎まれる存在、ユダヤ人から見れば木に架けられる者は呪われた者なのです。そして葬られた墓は、他人の墓でした。

イエスさまの人生を敢えて言わせて頂くなら、それは人間としてはこれ以上に下がない生き方をされたと言えるでしょう。敢えて人の下を選ばれたように思えるのです。

私は、祈りの中でその意味を問いました。
「なぜイエスさま、あなたは臭い家畜小屋を選ばれたのですか?ヘロデの宮殿や、金持ちの家で生まれることも、あなたなら出来たはずです。なぜ家畜小屋を、なぜ奴隷と同じ人生のスタートをお選びになったのですか?」と。

私の心には「人の下に立つため」と言う答えが、心の中に伝わってきたのです。
「人の下に立つ」、英語で言うならアンダー・スタンド、つまり理解するためです。
イエスさまは、人間として認められない、家畜として扱われる奴隷の苦しみを理解するためにわざわざご自身が家畜小屋で生まれのではないでしょうか。

罪深い生き方をして、その結果、人々に呪われながら人生を終える死刑囚、そのような人をも見放さず、理解するため、キリストはご自身も呪われた者になられたのではないでしょうか。キリストの人としての歩みは、全て苦しむ者、悩む者の痛み、苦しみを知るための歩みでした。

旧約はある意味、上から人を救おうとする試みでした。これは全ての宗教も同じです。
正しい生き方、完璧な生き方、それを指し示し、後は頑張れよ!これが宗教です。
しかし、宗教では人は救われないのです。
私たちは、何が悪いか分かっていても止められず、すべき正しいことが分かっていても、出来ない弱さがあるからです。上から正しいことをいくら押しつけられ、頑張れ頑張れ言われても、出来ないのです!どうしても変われない部分があるのです。

イエスさまの救いの道は、福音の道、恵の道です。これは上から正しいことを押しつけるのでは全くちがいます。私たちの一番下に立って下さり、「大丈夫だ!」と声を掛けて下さるのです。「私が一番下になった、もうあなたはこれ以上沈むことはない」と私たちを支えて下さるのがイエスさまです。

イエスさまは、私たちの苦しみ、痛み、辛さを全部知っています。同じ所を通ってこられたからです。イエスは私たちの弱さを責めません。理解し、支えて下さるのです。
私たちが、まだ誰も言ったことがない死と黄泉にまで下られて、この力を滅ぼされました。
イエスを受け入れる者は、死と黄泉に縛られることは無くなったのです!
そして復活の力を持って、私たちを支え、上へ上へと私たちを押し上げて下さるのです。

イエスは、あなたを愛し、あなたを理解するために、生まれて、生きて、死んで、復活されました!すべて、あなたを救うためです。福音の意味が、イエスの深い愛が、あなたにさらに明らかにされますように!

この福音を知るならば、天使が喜びに溢れて賛美したように、私たちの心にも喜びの賛美が溢れ出すのです!