「ソロモンの雅歌」
雅歌1章
牧師 小林智彦

【雅歌は男女の愛の歌】

今週の聖書通読箇所は、雅歌です。
聖書の新改訳では「雅歌」ですが、英語の聖書ではThe song of songs となっています。
英語の訳の方が正確に訳されています。ヘブル語聖書でも歌の中の歌になっています。
歌の中の歌(複数)で、最上級を表す表現です。つまり歌の中で最も優れた歌の意味です。しかし、この歌は神を賛美する賛美歌ではなく、男女の愛の歌です。

驚くことに、雅歌の中には「神」が登場しません。「主」も出てきません!
聖書の中では、エステル記と雅歌だけが、「神」が記されていない書です。

エステル記は人知を超えた救いを通して、神がユダヤ人を愛し、守られる方であることが分かります。エステル記の中では、ユダヤ民族に救いを与える方として、「神」としては直接語られなくても、民族の救いと解放の中心に神はおられました。

それでは雅歌の中には、どこに神がおられるのでしょう。
またなぜ「神」の名が記されていない書物が、神のことばとして聖書に収められているのでしょうか。これらのことは、「雅歌」をどのように解釈するかと言う点で密接に関わる問題です。

雅歌の解釈には、様々な解釈が試みられてきました。

ユダヤ教では、神とユダヤ民族の愛を象徴的に表していると雅歌を解釈します。
キリスト教では、長い間、救い主イエスと教会への愛と解釈されてきました。
しかし、このように立場の違いによって解釈が変わってしまうのは、主観的な解釈であって、客観的な解釈ではありません。主観的な解釈は、極端な読み込みになる場合があり、聖書ではなく、自分の考えや思いを聖書の中に読み込んでいるだけになってしまいます。

まず大切なのは、客観的に解釈することです。
客観的な解釈とは、だれの目からも、そのように読めることです。

客観的に「雅歌」を見ると、それは詩歌です。それは純粋に「男女の恋愛」を歌ったラブソングです。黙示録のように、象徴的に解釈すべきではありません。

ソロモンとの出会い、愛の高まり、互いの恋愛に発展し、互いに熱烈に愛し合い、結婚、披露宴の喜び、愛の暮らしと、ソロモンとその妻のラブ・ストーリーがそのまま、歌になっているのです。

それではなぜ、ラブソングが神のことばとして聖書に収められているのでしょう。
私たちは「雅歌」を神のことばとして、信じているのです。

①神は男女の恋愛を奨励している。
神こそ人を男と女に創造し、家庭を築くことを定められたから。

男女の恋愛というと、何か神聖なものとかけ離れていると思われるかもしれません。
しかし、聖書では人間を男と女に創造されたのは、神ご自身なのです!
男性と女性が愛し合うことは神の願いであり、神の喜びでもあるのです。
男性と女性が愛し合い、結婚し家庭が始まります。
結婚も、家庭も造られたのは神ご自身です。家庭が集まり、社会が誕生します。
健全な社会、生産的で発展する社会の基礎は、決して政治ではないのです!
政治はとても大切ですが、社会、国の基礎は家庭にあります。
そして、その家庭の中心は夫と妻の愛にあるのです!

男性と女性が愛し合わなかったら、家庭は生まれません、社会は始まりません。
夫婦の愛が冷え切ってしまったら、家庭は消滅し、子どもたちは希望を失い、社会は混乱していきます。

男性と女性の愛は、本来、神聖なものであり、そしていのちの源です!

これが「雅歌」が、神のことばとして聖書の中に収められている理由の一つと確信します。

しかし、新約聖書の中では、パウロは独身の祝福について語っています。
結婚するか、独身を保つかは、それぞれが神にあって決めるべきだと教えています。
主イエスにあっては、結婚するも幸せ、独身のままでも幸せなのです!

結婚すれば、自動的に幸せになる、それは絶対にあり得ません!
ティム牧師がよく教えているように、「幸せになろうとして、結婚する人は、結婚によってさらに不幸になる」のです。
独身でも幸せな人同士が結婚することによって、さらに幸せになるのです。

雅歌は残念ながら、独身者の幸せについては教えていません。
雅歌は結婚を選んだ男女が、幸せな恋愛、幸せな結婚、幸せな夫婦関係の秘訣を教えていると確信します。

【相手の良いところを見つけ、誉める】

雅歌が教える、幸せな恋愛、幸せな夫婦関係の秘訣、それは相手の良いところを見つけ、それを誉めることです。そしてこれは夫婦関係だけではなく、すべての人間関係を幸せにする秘訣でもあります。

「私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。(妻)」

「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。(ソロモン)」

「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。
 私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。(妻)」
雅歌2章1節から3節

互いの人格を高めるように、歌で互いを誉め合っています。

相手の良いところを見つけること、そして、それを伝えることが大切です。
思っていても、表現しないと相手には伝わりません。
特に、家庭で家族の良いところを探し、それを伝えることが大切です。

わたしも、その大切さを覚えながらも、なかなか実践していない自分に気付きます。
反省です!これは、意識していないと出来ません。
聖書はとてもバランス良くできています。旧新約聖書を通読することは、バランスの取れた信仰生活を送るうえで欠かせません。

雅歌は妻を、夫を誉めること、家族を誉めることの大切さに気付かせてくれます。
肯定的なことば掛け、これが人間関係の絆を強め、深めていきます。

「愛しているなら、何を言わなくても伝わる」と言う日本人男性に特有の思いこみがありますが、私はこれは間違いだと確信します。愛しているなら、表現すべきです!
愛の表現を恥ずかしいと思うのも、間違いだと私は思います。

なぜなら、聖書の神は、唯一真の神は積極的に私たちに、その愛を示しておられるからです。もし神が、「愛しているならことばは要らない」と考えたら、聖書は存在しなかったでしょう。そして、私たちの救い主であるイエスさまも、地上に来ることはありませんでした。イエスさまが地上に来られた目的の一つは、父なる神の愛を私たちに示すことでした。ハッキリと伝えることでした。その最大の表現が十字架です!
父なる神の、いのちを懸けた愛、真剣な愛を、イエスは十字架で示されたのです。

神の愛によって救われた私たちは、互いに愛を表現する者になりましょう。
ソロモンのように饒舌に妻を誉められなくても、自分のことばで感謝と愛情を常に伝えようとすることが大切です。


そして、子どもが与えられているなら、その子どもたちも沢山の祝福のことばを掛けましょう。自分の子どもに限らずです。教会に来ている子どもたちに祝福のことばを掛けましょう。良いところをたくさん見つけて誉めて上げましょう。

愛の中に、神はおられます!なぜなら神は愛だからです。
雅歌の中には「神」としては、登場されませんが、より本質的な「愛」として神はご自身を示されているのです。


【健全なセルフ・イメージ】

さて、成熟した人格を考えると、まさに雅歌のソロモン、そしてその妻は人格的に成熟していると言えます。成熟した人格の特徴の一つは、相手の否定的な面ではなく、肯定的な面に目が行くこと、それをことばにして伝えられること。また相手の肯定的なことばをしっかりと受けとめることが出来ることだと思います。

また別の言い方をするならば、ソロモンとその妻は、健全なセルフ・イメージを持っていると言えるでしょう。

セルフ・イメージとは、本音の部分で、自分をどのように思っているか?それがセルフ・イメージです。自分を価値ある人間と心から思える人は、高いセルフ・イメージを持っています。しかし、自分は価値のない人間、生きていても意味がないと思っているなら、セルフ・イメージは低いと言えるでしょう。

このセルフ・イメージが健全であるか、不健全であるか?は直ぐに分かります。
隣の人を見て、直ぐに良いところに目が行くなら、健全で高いセルフ・イメージを持っています。その反対に、相手のイヤなところ、気にくわないところがたくさん目に着くなら、その人のセルフ・イメージは不健全か、低いものでしょう。

また、自分に対して語られる肯定的なことばを聞いて嬉しく思えるなら、ありがとうと感謝できるなら、その人のセルフ・イメージは健全です。
しかし、せっかく肯定的なことばを頂いても、「何か裏があるんじゃないか?」と勘ぐったり、受けとめられないなら、セルフ・イメージが不健全かもしれません。
否定的なことばだけが心に残る、否定的な出来事だけが思い出される場合、私たちの心は疲れ、正しい自分の価値を見失っている場合があります。

自分の正しい価値、セルフ・イメージを健全に保つことが、幸せな家庭を築き、幸せな人間関係を築く上では欠かせないことなのです。

健全なセルフ・イメージを持っているなら、自然に自分の良いところを認め、相手の良いところにも目が行くのです。素直な気持ちで、良いものを良いと表現できるのです。
否定的な面さえも、これからの課題として、受けとめることが出来るのです。

健全なセルフ・イメージ、これを形作るのはことばです!
子どもの頃に、親から、また学校の先生、親せき、兄弟から語られたことばが、私たちの価値の土台を作っています。これは私の考えです。
セルフ・イメージは権威ある人のことば掛けによって形作られると私は思います。

権威あるとは、この世の権威ではなくて、自分が価値を認める人です。自分が大切だと思える人、尊敬できる人です。自分にとって大切な人、自分にとって尊敬できる人から掛けられることばが、私たちのセルフ・イメージ、自己価値を形成します。

残念ながら、子どもの頃に親から誉められたことがない場合、いつも怒られ、責められ、良い点を何一つ見てもらえなかった場合、その人のセルフ・イメージはとても低くなってしまうでしょう。

私が、そうでした。

私の両親は自営業だったので、いつも忙しく、なかなか子どものために時間を割くことはしませんでした。親が子どものために動くのは、いつも最低限の必要を満たすため、または近所や学校で問題を起こした時の処理の時だけでした。

だから、両親とは、どうしても否定的な面での関わりのみになり、いつも否定的なことば、自分のマイナス面だけを監視されていました。

自然と自分の中には、何をやっても上手くできない、親を患わせるどうしようもない子どものセルフ・イメージが形作られていました。

否定的、消極的、自分の良いところも分からない、当然、他人の良いところは妬みや、嫉妬になり、誉めたいとは決して思えない。何とか引き下げてやりたいと思っていました。

主イエスに出会う前の私は、本当にどうしようもない、希望のない人間でした。

しかし、聖書を読み始めても、初めのうちは何の喜びもありませんでした。
聖書を読めば読むほど、心が辛くなりました。イエスの愛を受けとめる部分が育っていなかったのです。律法や罰の部分に目が行き、聖書を否定的に読んでいたのです。

ある人には慰めであり、励ましである聖書箇所が、自分にとっては否定的に、恐ろしく思える。自分は聖書に自分の否定的な心を読み込んでしまっていたのです。

しかし、どんなに私たちの心が育った環境によって否定的になっていても、イエスの背負った十字架、神の愛の完全な表れを否定することは出来ませんでした。

天と地を創造された、唯一真の神が、ご自分の御子をお与えになるほど、私を愛して下さっている!神の目には、この私が、何と御子イエスと同じように価値があること、これが私の価値であると聖霊によって受け入れることが出来たのです。

私は神にあって、価値がある!私は、神に愛されている!十字架こそ、私の価値なのです。
神の愛にとどまる時、私は平安です。人を妬みません。
神が与えた価値、十字架の愛以上に優れたものは無いからです。

私たちは愛されて、初めて人を愛せるようになります。
認められて、初めて人を認めることができます。受け入れられて、初めて人を受け入れられるのです。すべての愛の始まりは神です!

キリストの十字架を見上げましょう!そこに神のあなたへの愛が示されています。
この愛にとどまり続けましょう。あなたは完全に赦されています。
あなたはキリストによって、神の息子、娘です。神の自慢はあなたなのです!
この価値にとどまりましょう。ここにとどまることが、すべての祝福された人間関係の始まりだからです。