「聖霊のバプテスマ」
使徒の働き1章3節から9節
牧師 小林智彦

【使徒の働き:変えられた弟子たちの歴史】

聖書通読箇所は、今週から「使徒の働き」になります。
「使徒の働き」は、ルカによる福音書の著者であるルカによって書かれました。
ルカによる福音書の続編になります。福音書の中心はイエスさまです。もちろん聖書全体の中心はイエスさまですが、「使徒の働き」はイエスさまの昇天後、聖霊に満たされた弟子たちの働きが、歴史として書き記されています。
初代教会がどのように建て上げられていったのかが、良く分かります。

使徒の働きには、力強く活躍する使徒たちの活動が記されています。
聖霊さまの力に満たされ、驚くような奇跡が、弟子たちによって行われていきます。
福音が驚く早さで、当時の地中海世界に広まっていく!
読んでいて、その内容に引き込まれていきます。

イエスさまと一緒に行動していた時の弟子たちは、弱々しく、自己中心で、絶えず他の弟子と自分を比較していました。イエスさまが十字架に付けられる時は、何とイエスさまを見捨てて逃げ出してしまうほどの臆病でした。

しかし、使徒の働きで活躍する弟子たちには、弱々しさはありません。むち打ちの刑ですら喜び、イエスさまを十字架に付けた大祭司や宗教家に向かって、堂々とイエスを殺した罪を責め、イエスが神の一人子キリストであり、復活されたことを臆すること無く証したのです。まるで別人です。

以前は互いにどちらが優れた弟子であるかを、いつも議論していたのに、使徒の働きでは持ち物をみな売り払い、一致を熱心に求めました。

「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」使徒の働き2章44節から47節

弟子たちに何が起きたのでしょう。
あの弱く、自己中心の弟子たちを、強く逞しい信仰の勇者に変え、キリストに似た愛の実践者に変えたものはいったい誰でしょう。

【聖霊のバプテスマと聖霊の満たし】

「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」使徒の働き1章4.5節

弟子たちを、全くの別人のように変えたのは「聖霊のバプテスマ」です!
「聖霊のバプテスマ」を受けた弟子たちは、全くの新しい人に変えられたのです。

さて、「使徒の働き」を読むと、私たちの信仰は燃え上がります。
しかし、燃え上がった信仰を冷ますようで申し訳ないのですが、この記述をそのまま自分に適用することには注意が必要です。

イエスさまは弟子たちに、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。マタイ10:16」と教えられました。私たちは、素直にみ言葉を信じ受け入れることと、それを適用、つまり自分や他人に当てはめる時には、客観性が求められることを覚えましょう。

「使徒の働き」は優れた信仰書であります。それは神の言葉である聖書ですから当然です。
しかし一方、純粋に歴史書であることも忘れてはなりません。これが客観性です。

歴史が好きな方は多いと思います。NHKの大河ドラマは面白いですね。
「天地人」の直江兼嗣の人生を見て、感動する人はたくさんいると思います。
しかし、直江兼嗣の人生を、そのままを現代の私たちが、そのまま真似ることは不可能です。大河ドラマは既に現代人に理解できるように、分かり易く脚色されています。それでも、容易に彼らが生きていた時代は戦国時代であり、現代とは違うことを理解できます。

しかし聖書の場合、素直にみ言葉を受け入れることは大切なのですが、あまりにも単純に同じことが起きることを期待すると、大変な誤解や、片寄った信仰になることがあります。

使徒の働きでも、神のことば、いのちのことばとして単純に、素直に受け入れる信仰と、それをどう理解し、2千年の歴史を越えて、どう適用するかを客観的に捉える、きよめられた理性が必要です。

説明が長くなりましたが、使徒が受けた「聖霊のバプテスマ」と、私たちが受ける「聖霊のバプテスマ」は、その受ける時や、それに伴う現象は異なることをまず覚えて下さい!

「使徒の働き」2章には、使徒と、百二十人の弟子たちに一度に、そして集まっていたもの全てに聖霊が臨み、不思議な現象が伴いました。これと同じことが自分に起きないからと言って、自分は聖霊がいないのか?自分はイエスを受け入れて、救われているのに、聖霊のバプテスマを受けられないのか?と考えないで欲しいのです!

いきなり結論になりますが、今日の「聖霊のバプテスマ」は、イエスを受け入れた時と同時に起こります!これが今日の「聖霊のバプテスマ」です。

12弟子たちの「聖霊のバプテスマ」は、弟子たちがイエスをキリストと信じた後に来ました。これは、今日と比較するなら特殊な状況でした。
なぜなら12弟子がイエスを主と信じ、救われたのは、キリストの昇天前だったからです。

聖書はハッキリと、イエスが地上におられる間は、聖霊が与えられなかったとあります。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。ヨハネ福音書7章37節から39節

イエスが栄光を受けられる前は、「御霊はまだ注がれていなかった」とあります。
イエスが栄光を受けるとは、十字架の受難と死、復活、昇天を指しています。

12弟子の状況は、今日と比べると特殊だったのです。イエスさまの昇天前にイエスを受け入れた弟子たちには聖霊が注がれていませんでした。つまり、救いと聖霊のバプテスマに時間差があったのです。聖霊様が注がれていないのに、どうして弟子たちは信仰を持つことが出来たのでしょう。それはイエスさまがともにいたから可能でした!

今ここにいるすべての人は、イエスさまの昇天前に信仰を持った人はいません。
だから私たちは、イエスを救い主として信じ受け入れた瞬間に「聖霊のバプテスマ」を受けるのです。イエスを信じるその瞬間に「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」のです!

イエスを唯一の神の一人子、神が遣わした救い主キリストであることを信じ、受け入れ、キリストが自分の罪のために十字架に付けられ、死んで、三日目によみがえり、キリストの犠牲によって罪赦されたことを心から信じ、受け入れ、自分の口で告白するなら、あなたは救われているのです!そして、聖霊のバプテスマを受けたのです!

ここまで長く説明したのは、「使徒の働き」が歴史書である面を見失い、使徒たちのように、「救い」と「聖霊のバプテスマ」が別であると考える人たち、その教理が存在します。

それは「救い」の喜びや、「救い」の驚くべき価値を見失わせます。
「聖霊のバプテスマ」を、受けなければ本当のクリスチャンではないとする極端に勘違いしている人々もいます。もちろん「聖霊のバプテスマ」を受けなければ、新生したクリスチャンではありません。しかし、「救い」を受けたものは誰でも、今日、「聖霊のバプテスマ」を受けているのです。

「聖霊のバプテスマ」を受けたかどうか、体験や印を強調する人たちがいます。
それは「異言」を強調するグループです。「異言」で祈ることが出来ないなら、「聖霊のバプテスマ」を受けていないとまで言い切ります。

使徒の働き2章を読むと、聖霊のバプテスマを受けた弟子たちは他国のことばで話し出します。驚くべき奇跡が起きたのです!しかし、これも信じるもの全てに起きることではなく、使徒たちに起きた特殊な奇跡であることを覚えなければなりません。

使徒たちが他国のことばで話し出したのは、徴としての異言です。
信じるもの全てに約束されたものではありません!
そして、今日あるグループたちが異言と呼んでいるものと、使徒たちが徴として語り出した他国のことば、異言は全く異なるものなのです。

ですから、自分は異言で祈ることが出来ない、異言が出てこないから聖霊のバプテスマを受けていない、救われていない、本当のクリスチャンでは無いかもしれないと不安に思っている人がいるなら、それは大きな誤解だと理解して下さい。
救われているのなら、聖霊のバプテスマも同時に受けています!

また、色々な集会に参加されて、異言や聖霊のバプテスマを強調するグループの教えを聞いても、自分の救いを疑ったり、動揺しないで下さい。

ただし、異言で祈れるように祈ってもらったり、聖霊に満たされるように祈ってもらうことは良いことです。また、聖霊のバプテスマを強調し、救いと分ける教理を持っているグループも、聖書の読み方が違うだけで、同じキリストの体であるので、異端視しないようにして下さい。これらのグループはペンテコステ・カリスマと呼ばれています。
私自身はこのペンテコステ・カリスマの人たちが大好きです。大きな影響を受けました。
しかし、「救い」と「聖霊のバプテスマ」を分けるのは、彼らが聖書の大きな解釈ミスを犯していると確信する立場を私は取っています。

ただ、矛盾するようですが、例外もあるので、ペンテコステ・カリスマグループの解釈が完全に間違っているとは言いません。例外もあるのです。
例えば、クリスチャンホームで育って、幼児洗礼を受け、自分はキリスト教徒であると認めながらも、個人的にイエスを主と受け入れたことが無い人たちもいるのです。
この人たちは、宗教としてキリスト教徒なので、本当の新生を体験していない人です。こういう人は、形式的な救いと、聖霊のバプテスマ体験は異なってしまうのです。
欧米では、こういう形式的なクリスチャン、宗教としてのキリスト教徒が多いので、後になってから聖霊のバプテスマを体験として受ける人が沢山います。
だからペンテコステ・カリスマの運動はアメリカやイギリスで誕生しました。
しかし、これらは例外です。

救われているのなら、聖霊のバプテスマを受けています!
聖霊のバプテスマを受けていないかのように、求める必要はありません!

私たち救われた、新生(神の子どもとされたこと)した、クリスチャンが求めるものは、聖霊のバプテスマではなく、聖霊の満たしです!
私たちは日々聖霊に満たされ、聖霊とともに親しく歩むことが求められているのです。

【聖霊のバプテスマと水のバプテスマ】

「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」使徒の働き1章5節

バプテスマには二つの種類があるとイエスさまは仰っています。
水のバプテスマと、聖霊のバプテスマです。
バプテスマとは、ギリシャ語で、浸す、漬けるを意味するバプテゾーから来ています。
水のバプテスマは、文字通り水に漬けるのです。それは死を象徴的に示しています。
神を知らない生き方、自分の罪深い性質に死ぬことです。
ヨハネのバプテスマは罪の赦しを強調するバプテスマでした。
ヨハネは死んで、復活しなかったので、水のバプテスマには過去を洗い流す、罪の赦しの面しか強調できなかったのでしょう。

しかし、聖霊のバプテスマはイエスを通して与えられます!
イエスは十字架で死んで、三日目に復活したのです。
罪深い生き方に死んで、完全に新しい者として生きるための復活の力が注がれるのです。
イエスを信じ、受け入れる時、私たちはキリストの十字架の死と復活に結びつけられます。
聖霊様が、信仰によって、イエスさまと私たちを結び合わせるのです!
キリストの死と結びつけられることにより、私たちの罪深い性質は日々死んでいきます。
キリストの復活と結びつけられることにより、私たちには復活のいのち、キリストの性質が日々増し加えられていきます。これが聖霊に満たされることです!
聖霊により、キリストの十字架の死と復活に結びつけられ、私たちの性質が日々新しくされ、キリストに似た者に変えられていくこと、これが聖霊に満たされることです!

毎朝、聖霊に満たされることを願いましょう!それは気分が良くなるとか、元気が出るとか、不思議な宗教体験をすることではありません。キリストに結び合わされることです。
私たちを内面から変える力は、私たちの頑張りや努力だけでは限界があります。
聖霊が私たちを変えます!聖霊は私たちの中にご自身の業をなさりたいのです。
聖霊に心を開き、古い性質が死ぬことを求めましょう。復活のいのちが注がれ、キリストに似た者になることを願いましょう!それが聖霊に満たされることです。

私たちは、水のバプテスマを受けるように、イエスさまがバプテスマを定められました。バプテスマは恵の儀式です。洗礼(水のバプテスマ)と聖餐式だけが聖書に定められている儀式(礼典)です。

水のバプテスマを受けるから、救われるのではありません!
救われたから、目に見えない聖霊のバプテスマをすでに受けているから、目に見えない物を目に見える形にして、自らの確信にするため、また既に起きた霊的世界の出来事を見える形にすることにより、人々に救いを証しするために水のバプテスマはあります。

水のバプテスマでは、信仰の告白に続き、水に足から頭まで浸かります。
古い性質に死んだことを、目に見える形で表すのです。
そして自ら上がります。それはキリストが復活したように、自分もキリストともに復活したことを目に見える形として、また体験するのです。

水のバプテスマを受けなくても、イエスを信じ、告白しているなら救われています。
救われた人で、まだ水のバプテスマを受けていない人は、ぜひ水のバプテスマを受けましょう。水のバプテスマはイエスさまが定めたものであり、キリストが為された救いの体験であり、証の時だからです。

【聖霊の力】

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
使徒の働き1章8節

聖霊の力についても、多くの誤解があります。旧約聖書ではサムソンのように聖霊に満たされることで怪力のスーパーマンになる者もいましたが、そうです!これも時代と状況が今とは違うのです。聖霊様に、サムソンのような怪力を求めないで下さい。

弟子たちは聖霊のバプテスマを受け、聖霊の力を受けました!
ギリシャ語ではドュナミス、力、奇跡を受けると約束された通り、弟子たちには驚異的な力が注がれました。しかし、その力は「わたしの証人とな(る)」力なのです。
キリストの救い、福音を伝える力、また自らの生き方を通しても主を証しする力なのです。

この力は、クリスチャンの賜物と人格に力を与えます。
賜物は、神のご計画により、それぞれに異なる賜物が与えられています。
賜物は行動によって主を証しすることです。

人格は、私たちの人格がキリストに似た者に変えられることです。
愛の人格に変えられていくための力です。私たちは語ることば、態度、考え方、それらすべてを通してイエスを証しすることを主は求めておられます。
しかし、それを可能にする力は、聖霊様から来るのです。

聖霊が私たちに力を与えるのは、私たちを通して主が証され、主が栄光を受けられるためです。聖霊の力を決して自分が讃えられるため、自分の栄光を表すために用いてはなりません。

聖霊に満たされること、聖霊の力を心から求めましょう!
聖霊の助けを受けて、私たちはそれぞれの置かれている状況や立場、また賜物を通して、人格を通して主を証し、主の御国を建て上げていきましょう!

聖霊の満たしを求めて祈りましょう。