「モルデカイの信仰から学ぶ」
エステル記3章1節から6節
牧師 小林智彦

【荒野は信仰を成長させる】

今週の聖書通読箇所はエステル記です。エステル記からみ言葉を学びましょう。
エステル記はバビロン捕囚後に書かれた歴史書です。
エステル記に登場する王妃エステル、モルデカイは異邦人社会で主を証した信仰者です。旧約聖書には、エズラやネヘミヤ、そしてダニエルのように異邦人社会の中にあっても信仰を守り、主を証しながらも、世の中から尊敬を集めた人物が登場します。
このような異邦人社会で活躍した信仰者は、私たち日本で信仰を守る者にとって、優れた模範です。

私たちが置かれている状況と、異邦人社会で暮らしたユダヤ人との間には共通する点が多いと思います。偶像礼拝が盛んで、聖書の価値観と大きく異なる社会の中でエズラやネヘミヤ、そして王妃エステル、モルデカイ、またダニエルはどのように信仰を守り、主を証したのか。私たちは、このような観点からも旧約聖書を読み、学びたいと思います。

イスラエルの歴史を短く振り返ると、自分の国を持ち、唯一の神を信じる信仰が保証されていた状況の中では、何とユダヤ人たちは信仰的に堕落の道を歩んだのでした。
何と皮肉なことでしょう。

その反対に、ユダヤ人の信仰が癒され、回復し、強められたのはいつも荒野の中、逆境の中でした。

ヨシュアとともにカナンの地を勇敢に占領していった勇士たちは、荒野で生まれ、荒野で育った世代でした。エジプトの繁栄を知り、神の強い御手に守られて奇跡的にエジプトの地を脱出した世代は、みな堕落して滅んだのです。

偉大な信仰者であり、偉大な王ダビデが育ったのは、王宮の中ではなく、荒野の中でした。
サウル王にいつもいのちを狙われ、荒野を彷徨い歩く中、ダビデの信仰は養われたのです。

しかし、生まれた時から王宮の中で、何一つ不自由なく育ったダビデ王の息子たちは、ことごとく堕落していきました。

これら旧約の歴史は、私たちに何を教えようとしているのでしょう。
いのちある信仰、それは逆境の中で、荒野の中で鍛えられ、成長することを教えています。
光は、暗闇の中でこそ輝くように、生きた信仰は荒野、逆境の中でこそ輝くのです。

ヘブル人への手紙の著者が書き送っているように、天の父は愛する者に訓練を与えるのです。それは決して滅ぼすためではなく、信仰のいのちが強められ、成長し、輝きを増すためなのです!

乗り越えることのできない試練、また意味のない試練は決してありません。
それらは私たちを人間的に成長し、人格を清め、イエスに似た愛の人へと私たちを高めるのです。

異文化、少数民族、異なる価値観の試練の中で鍛えられ、主を証したモルデカイから、私たちは今日学びたいと思います。試練を乗り越えるための信仰の姿勢について、彼から学びましょう。

【モルデカイの信仰姿勢】

3:1 この出来事の後、アハシュエロス王は、アガグ人ハメダタの子ハマンを重んじ、彼を昇進させて、その席を、彼とともにいるすべての首長たちの上に置いた。
3:2 それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対してひざをかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった。
3:3 王の門のところにいる王の家来たちはモルデカイに、「あなたはなぜ、王の命令にそむくのか。」と言った。

3:4 彼らは、毎日そう言ったが、モルデカイが耳を貸さなかったので、モルデカイのこの態度が続けられてよいものかどうかを見ようと、これをハマンに告げた。モルデカイは自分がユダヤ人であることを彼らに打ち明けていたからである。
3:5 ハマンはモルデカイが自分に対してひざもかがめず、ひれ伏そうともしないのを見て、憤りに満たされた。

3:6 ところが、ハマンはモルデカイひとりに手を下すことだけで満足しなかった。彼らがモルデカイの民族のことを、ハマンに知らせていたからである。それでハマンは、アハシュエロスの王国中のすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの民族を、根絶やしにしようとした。エステル記3章1節から6節

ユダヤ人モルデカイは、王に用いられ、宮廷で権力を握っているハマンに対して「膝をかがめず、ひれ伏そうともしなかった」とあります。
ハマンは、王族以外、全ての人が自分に対してひれ伏すのを見て満足していました。
彼にひれ伏さなかった一般人は、モルデカイ以外にいませんでした。
「出る杭は、打たれる」ということばがあります。まさにモルデカイは目立つ人物であり、ハマンの敵意の対象になってしまいました。

なぜモルデカイは、ハマンにひれ伏さなかったのでしょう。
誰に対しても頭を下げたくない、頑固で、常識知らず、傲慢な人間だったのでしょうか。

私はモルデカイの態度は、彼の信仰から生まれているのだと思います。3章4節に、「モルデカイは自分がユダヤ人であることを彼らに打ち明けていた」とあります。
モルデカイは、神の選民であるユダヤ人の生き方を口でも態度でも証していたのです。

王宮の中では、権力争いが繰り返し起きていました。昨日まで権力の座を占めていた者が、王様のご機嫌一つで処刑されてしまうこともあったでしょう。王妃ですら、直ぐに交替させられてしまうのですから。

権力に媚び、権力者にはペコペコする。そして権力を得たら、威張り散らす、そんな中身のない人間に、神の選びの民が膝をかがめて良いのだろうか?モルデカイはこのように思ったのではないかと、私は思うのです。モルデカイも、真に優れた人は異邦人でも尊敬し、礼を尽くしたと思います。しかし、日々変わる権力者に、形だけの礼を尽くすのは、真の神を知るものとしては相応しくないと、ハマンに対しては膝をかがめなかったのではないでしょうか。

モルデカイの上辺だけの権力者を恐れない姿勢は、エステル記を通して貫かれています。
モルデカイは、神が自分とユダヤ民族を必ず守られるとの強い確信がありました。
ユダヤ人として、神に選ばれていることを誇る生き方、人ではなく、唯一の神のみを恐れ敬う生き方、この生き方を貫くことで生じる問題は、必ず神が解決して下さる。
これがモルデカイの信仰でした。

神の民として相応しく生きる。異文化、異民族の下でも堂々と自分の信念に生きること。当然、摩擦や衝突は起きる。しかし、その問題は必ず神が解決して下さることを信じ、神を信頼し続け生きる。モルデカイは人よりも、神を喜ばせることを第一に生きたのです。

同じユダヤ人でも、モルデカイの生き方とは対照的に生きたユダヤ人たちがいました。

8:17 王の命令とその法令が届いたどの州、どの町でも、ユダヤ人は喜び、楽しみ、祝宴を張って、祝日とした。この国の民のうちで、自分がユダヤ人であることを宣言する者が大ぜいいた。それは彼らがユダヤ人を恐れるようになったからである。

モルデカイが、王に次ぐ権力者になって、ユダヤ人の人権と信仰が保証されてから、「自分がユダヤ人であることを宣言する者が大ぜいいた」とあります。
つまり、その前は迫害や困難を恐れて、自分がユダヤ人であることを隠していたのです。

今のイスラエルでは、ユダヤ人はこんなことでは悩みません。
イスラエルはユダヤ人の国だからです。しかし、異民族の支配下だから悩むのです。
同じように、日本でクリスチャンとして生きる私たちも悩むのです。

主イエスを救い主として信じ受け入れる時、私たちの心は喜びに満ちあふれます!
神の子とされた喜び、罪赦された喜び、永遠のいのちが与えられた喜び!
思わず喜びの声が口から溢れ出します!ハレルヤ!
しかし、その瞬間、ハット我に返り、辺りを見回すと冷たい視線が。
「いま、何て言った?ハ・ハレルヤ?!」、職場で思わず主を誉めたたえてしまった私でした。

日本で信仰生活を送ると様々な問題が起こります。様々な衝突が起こります。
仏式で執り行われる葬儀に、どのように参加するのか?
未信者との結婚。お墓の問題。仏壇はどうするのか?親せきとどう付き合うのか?
様々なことで、摩擦や衝突が予想されるのです。

どうしたら良いんだろう?当然、悩むでしょう。
モルデカイのように生きるべきなのか?いやいや、そんなことをしたら生きていけなくなる。状況が変わるまでは、その他大勢のユダヤ人のようにクリスチャンであることを隠しておこうか?いやいや、それも何か主の前に心が苦しい。

ある牧師が日本宣教の姿勢について、このように言っていました。
「純粋な孤立か、妥協の埋没か、孤立でも、妥協でもなく、純粋な埋没で進みたい」と。

純粋な孤立とは、妥協を一切しない生き方です。モルデカイをそのまま真似る生き方です。
「偶像礼拝、とんでもない!神社やお寺の前では、たとえ1万円落ちていても身を屈めて拾わない」。そんな生き方です。いつでも主を証しする。
私の神学校の友人に、自分の手で造った木製の十字架に「キリストいのち」と書いて、首からいつもぶら下げていた人がいます。私も神学生の時は、新宿のアルタ前の路傍伝道や、十字架を担いで路傍伝道したこともあります。下総中山の駅前でも、一年近く、毎週、トラクトを配り続けたこともあります。純粋でした!しかし確かに、孤立していました。

路傍伝道と言うと、体験の無い人は、とても恐ろしいと思うでしょう。
ところが、これは日本だけの話しだと思いますが、いままで迫害されたり、嫌がらせされたことは一度もありません。いままで主を証して、恐い思いをしたことは無いのです。
これが、何か日本の特殊性なのかもしれませんが。その代わりに人々は無反応です。
全くの無視です。迫害されたり、何か否定的でも反応があったら、もう少し路傍伝道というのは楽しいのかなと思うのですが、何の反応もないので、空しくなるのです。
純粋な孤立なのです。

モルデカイをそのまま真似て、人間的に頑張り、努力しても得られるものは多分、純粋な孤立です。変わった人、空気読めない人で、片付けられてしまうのです。

それならば、何もしないのが良いのか?これももちろん論外です。
聖書の価値観と、聖書を知らない頃の価値観は違います。
唯一真の神を知りながら、その神を知らなかった時と同じようには生きられません。
霊的ないのち、聖霊の熱さを失い、やがて霊的な仮死状態になってしまいます。
これが妥協の埋没です。

純粋な孤立でもなく、妥協の埋没でもなく、純粋な埋没?!
純粋な埋没とは、信仰のいのち、純粋さを保ちながらも、孤立することなく、まわりの人にとけ込み、良い影響力を与え続けることです。

どうすれば良いのでしょう。私たちは、とても迷うのです!
しかし、私は迷うことも悪くないと思います。
迷い続けるのは、確かに気持の良いものではない。しかし迷っていること、どうすれば良いのか自分の中に答えを持っていないことを、天の父なる神に伝えることは良いことです。

どうしたら、神の栄光を表す生き方が出来るのか?それに決まった答えはありません!
いつも毎回、違うのです。モルデカイの方法で上手く行く時もあれば、同じことをしても何の実も得られない時もあります。つまりAかBか、と言う方法論には答えはないのです。

毎回、モルデカイがやったように人に接しよう、答えよう。それは、ある意味、霊的に死んでしまっているのです。マニュアルに従うようには、主とともには歩めません。

「主よ!私には答えがありません。私は迷っています。答えを持っているのはあなたですから、道を示して下さい!」と、主にその都度聞き従うことが大切だと思います。

モルデカイも、自分の態度を主に伺って決めたのだと私は思います。
異民族支配の下、権力者がコロコロ変わる状況の中で、自分はどのように主を証して生きられるのか?モルデカイにはモルデカイの能力、強さがある。自分はどう生きるべきなのかを真剣に聞いたのでしょう。その時主に示された態度、彼が祈りの中に確信をもった歩みが、ハマンのような者には一切屈服しないという生き方ではなかったのかと思うのです。

しかし、これはモルデカイに示された生き方であって、私たちも同じ生き方をすべきだという、新しい律法にしてはならないのです。

主の知恵と導きを求めて、祈りましょう!
誰かが書いたマニュアルではなく、まず主に自分の状況を打ち明け、導きを求めることです。聖書から、確かな歩みの原則を示していただくように、求めましょう。

モルデカイの生き方から、私はパウロの祈りを思い出しました。

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」エペソ3章16節

モルデカイの歩みから、伝わってくるのは、力強い確信です。
私たちに必要なのは確信です。内なる強さです。そして、この強さは人間的な強さではありません。聖霊による愛と励まし、天の父がともにいて下さる確信から生まれる強さです。

人からどう思われるか?ひと目を気にするのではなく、ただ純粋に父を愛し、まだ主を知らない隣人の救いのために、隣人への愛のために行動する。愛の動機から生まれた行動は、必ず主が益として下さると信じて歩み続ける。
愛に生きる強さを与えて下さいと、私たちは祈り続けたいと思います。

信仰生活に訪れる様々な問題を解決するマニュアルはありません。
その都度、天のお父さんに祈ることです。父が必ず全てを益として下さる。
天の父がともにいて下さるなら、大丈夫だ!この安心感が、私たちの内なる人を強めます。

天のお父さんが下さる安心感、この安心感が私たちの不安を取り除きます。
「失敗したらどうしよう。人からどう思われるだろう。孤立するんじゃないか?」
私たちには、幾つもの不安があります。
父の愛を覚えましょう!父がともにいて下さることを覚える時、どんな不安も消えます。そして、不安から守りに逃げ込むのではなく、まわりの人を純粋に思いやる愛へと私たちを少しずつ動かしていきます。

天の父なる神は、一人子イエスを与えるほどに、私たちを愛しておられます。
神がこれほどまでに私たちを愛しておられるなら、私たちが直面する様々な問題にも、必ず助けを与え、知恵と力を与えて下さいます。天のお父さんの、大きな愛を覚えましょう。