「恐れから喜びへ」
ヨハネによる福音書20章1節から10節、19節から23節
牧師 小林智彦

【恐れから喜びへ】

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」ヨハネ福音書20章19.20節

弟子たちは、大きな恐れの中にいました。
愛する師であるイエスは、ユダヤ人指導者たちとローマ人によって殺されてしまい、その遺体さえも無くなってしまったのです。マグダラのマリヤが復活のイエスに出会った証も、弟子たちには全く理解できず、ただのたわごとにしか聞こえませんでした。

いつ自分たちもユダヤ人とローマ兵によって捕まえられるか分からない。
捕まえられたら最後、イエスさまと同じように殺されてしまう。
弟子たちは恐れの故に、家の戸をしっかりと閉めて、引きこもっていたのです。
恐れが、弟子たちの心を覆い、主の復活の喜びを見え無くさせていました。

恐れは、私たちからいのちの喜びを奪います。
私たちは恐れる時、自分を守るために、周囲に頑丈な壁を築きます。
しかし、頑丈な壁を自分のために築き上げてしまうと、取り除くのが大変です。

自分を守ることが癖になると、少しでも問題や、不快な出来事があると壁の中に逃げ込んでしまうからです。

壁を築いて、問題が過ぎ去るまで、じっと我慢する。
壁を築いて、自分を守り続ける。外との交流を断絶してしまう。
いつしか、壁の中で、誰からも傷つけられることがない一人遊びで、自分を誤魔化す。
壁の中が気持ち良くなると、外に出ること自体が恐怖になってしまう。

しかし、恐れによって築かれた壁の中には、いのちはありません。
一時的には、いのちが傷つくのを守れるかもしれません、しかし、壁の中のいのちは時間とともに、本来の輝きや力をどんどん失って行く一方なのです。

先日ラジオを聞いていました。新潟県中越地震からちょうど5年になり、山古志村でボランティアをしていた人が話していました。彼は山古志村の体育館に避難している村民のお世話をしていました。狭い体育館に、何世帯もの人々が詰め込まれているので、プライバシーなどあったものではありません。彼は東京の仲間に連絡して、プライバシーが守れるように仕切になる物を送ってくれと連絡したそうです。
体育館の中を家族ごとに仕切って、プライバシーを守れたら喜ばれると思ったのです。
ところが、この提案はお年寄りから強く反対されたそうです。

「あんたは何も分かってねえ。俺たちが元気でいられるのは、お互いの顔が良く見えるからだ!壁で仕切られて、相手の顔が見えなくなったら、俺たちは直ぐに元気を失ってしまう」と言うのです。

都会に住んでいると、このようないのちに対する大切な真理が見えなくなります。
人間関係で問題が起こると、壁を直ぐに築いて自分を守ろうとする。
そして、壁を築くことが問題の解決だと考えてしまう。
しかし、壁を築くことは、本当の問題解決ではありません。

不登校、ひきこもりに関心があって、私も色々と学ばさせてもらいました。
不登校、ひきこもりの原因の一つに、いじめや人間不信があります。
人間関係での心の傷が、壁を作り、誰からも傷つけられることがない、自分だけの世界に逃げ込んでしまうのです。


対人恐怖が、不登校・ひきこもりの原因の一つなのです。

しかし、恐怖というものは、自分の力ではなかなか乗り越えることができません。
不登校・ひきこもりを長期化させてしまう一つが、周囲からの頑張れメッセージです。
「頑張って学校に行きなさい!頑張りなさい!」
本人は、学校に行きたいのです。しかし、自分の力では恐れを乗り越えることができないで苦しんでいるのです。頑張れと応援されると、かえって、頑張れない自分を責めてしまうのです。

対人恐怖は、不登校・ひきこもりの子どもたちだけでなく、私たち大人にとっても大きな問題ではないでしょうか?

大人ですから、会社に行かないと生活出来なくなります。
社会活動に何らかの形で関わらないと生きては行けません。
しかし、本当は人間関係が恐くて、イヤイヤながら、恐れながら、消極的な、最小限の関係でしか人と関わらないようにしている。このような人は少なくないようです。

何が私たちの心から恐れを取り除くのでしょうか?
心の壁を築く以外に、恐れに対して、何が本当の解決を与えるのでしょうか?

イエス・キリストの愛だけが、私たちの心を温めて、恐れを取り除くと確信します。

死の恐怖にさらされていた弟子たち。昼間なのに、窓を全部閉め、引きこもっていた弟子たち。しかしイエスさまは、弟子たちの怯えきった心の真ん中に立って下さいました。
イエスさまだけが、恐れによって築き上げた壁を乗り越えて、私たちの心の中に入って来て下さるのです。

イエスさまは弟子たちが恐れおののいている姿を、責めませんでした。
恐れている者を責めても、何の解決にもならないことを主はよくご存じです。
主イエスは弟子たちに「シャローム」と言って、祝福の挨拶をされました。
「シャローム」は、ユダヤ人のあいさつの言葉です。「平安があるように」の意味です。

そしてイエスさまは、私たちの平安の根拠を弟子たちに示されました。
それは、イエスの手とわき腹の傷でした。これは、イエスが確かに復活したことの疑うことの出来ない確かな証拠です。

イエスさまに似た人が、やって来ても、恐れの解決にはなりません。
イエスさまだからこそ、私たちが恐れを乗り越える力になるのです。
なぜならイエスさまだけが、死に打ち勝って、三日目に復活したからです!

死に勝利した復活のイエスさまが、私たちのところに来て、復活のいのちを注いで下さるからこそ、私たちは恐れを乗り越えることができるのです!
イエスさまが、私たちの心の真ん中来て下さり、私たちの怯えきった心、弱り切った心を復活のいのちで温めて下さるから、私たちは壁を取り除き、問題に向き合う力が与えられるのです。

復活の主に出会った弟子たちの心には恐れがありませんでした!
恐れの代わりに、喜びが訪れたのです。

あの山古志村のお年寄りの元気の源が、昔からの仲間の顔を見ることであったように、私たちクリスチャンの元気の源、いのちの源はイエスさまを仰ぎ見ることです!
死に勝利した、復活のイエスを見続けることです。

人生には様々な問題が起こります。しかし一番の難問は死です。
どんな偉大な人物も、天才も死には勝てませんでした。死こそ、一番の問題です。
しかし、イエスさまは、その死に勝利されたのです!
主がともにおられるなら、どんな問題も、必ず乗り越えることができます!
キリストの復活のいのちは、聖霊によって私たちに与えられているのです。

今、ご一緒に祈りましょう。
特に、深刻な人間関係の問題を抱えておられる方、経済的な不安を抱えておられる方、健康や将来に関して不安を覚えておられる方、心を静めて、イエスさまを心にお招きしましょう。

心の中で、自分のことばで、イエスさまを招いて下さい。
「死に勝利したイエスさま、私の問題の真ん中に立って下さい」と祈りましょう。
「私を苦しめ、不安にさせる全ての問題に、打ち勝つ力を与えて下さい。」
「否定的で、悪意あることばを跳ね返すいのちの力を私に与えて下さい。」
「すでに私の罪と死を背負って死んで下さり、復活して下さったイエスさま、あなたの勝利をいつも覚えさせて下さい」と、祈りましょう。

【あなたがたを遣わします】

「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』」ヨハネ福音書20章21節から23節

イエスさまは、再度、「シャローム」と平安の祝福をされました。
なぜなら、弟子たちに大切な使命を与えるからであり、またその使命は弟子たちを再び恐れさせるであろうことを知っていたからです。

その使命とは、イエスさまを十字架に付けたユダヤ人のもとに派遣されることでした。
イエスさまを憎み、迫害した者たちのもとに行けと、イエスさまは弟子たち使命を与えたのです。人間的には、とても出来ないことです。

イエスは次ぎに大切なことを言われました。「聖霊を受けなさい」と。
イエスさまは「彼らに息を吹きかけて言われた」とあります。これはとても大切です。

人間は土地のチリから形作られたと創世記にあります。
そして、鼻に命の息を吹き込んだ時、人は生きる者になったとあります。
私たちは既に生きていますが、神の子どもとして生きるには、神の命の息である聖霊を受けなければ、新しい神の子の性質に生きられないことを覚えなければなりません。

私たちが神の子どもとされたのは、天の父なる神との和解を喜び、復活のいのちに包まれ、永遠のいのちを生きる希望が与えられただけでなく、使命をも受けていることを覚えましょう。救いの恵と特権だけでなく、地上の残された時を神の使命に生きるために使わされていることを覚えなければなりません。

弟子たちが委ねられた大切な使命の一つ目は、和解の努めです。
罪が赦されたことを伝えることです。                                                     
神はその一人子をお与えになるほどに、この世を愛された!だれでも神が送られた救い主イエス・キリストを信じ、受け入れるなら救われる、罪の赦しを受けて、神の子どもとなり、父なる神と和解する。この救いと赦しを伝えることが私たちの使命なのです。

しかし、皆さん注意して下さい!
イエスさまは、ここで、キリスト教を宣教しろ、伝道しろとは言っていないのです。
イエスさまが言っているのは「罪を赦しなさい、罪の赦しを伝えなさい」と言っています。
ぜったい勘違いして欲しくないのです!

イエスさまは宗教を宣伝しろと命じていません。
キリスト教を伝えろと言っていません。赦しを伝えなさいと言われるのです。
赦しとは、神との和解です。赦しとは、慰めであり、希望です。ありのままで、愛され、受け入れられていることを伝えることです。

私は確信します!全ての人は神との和解を求めている。罪の赦しを求めているのです。
私たちには、この大切な働きが委ねられているのです!

しかし、ほとんど全ての人は、宗教は嫌いなのです。キリスト教を教えられたくは無いのです。一方的に、罪人扱いされて、反省を求められ、イヤなら地獄行きだと脅される。
このような伝道、このようなキリスト教の伝道は誰も聞きたくありません。
そうです!イエスさまも、そんな片寄ったことを伝えるために私たちを使わしてはいません。

私たちはいのちのない宗教ではなく、生ける真の神との、暖かいいのちの交わり、天の父との確かな和解を伝えるのです!

この本当の福音、良い知らせを伝えるには、聖霊によらなければならないのです!
聖霊によって、私たちはイエスの復活を確信します!それが生きた喜びになります。
聖霊によって、私たちは父なる神との和解を喜ぶ者に変えられます。
聖霊は神の霊であり、私たちを神の子どもとして生かし、成長することを助ける方です。聖霊に満たされ、聖霊に押し出されて、神のいのちを分かち合うのです。

さあ、いま祈りましょう!聖霊を心に歓迎し、イエスの復活を確信させて下さいと祈りましょう。復活の喜びに満たして下さいと祈りましょう。まず自分が神との和解を喜び、いのちに溢れる者になるように求めて下さい。心の中がキリストの愛で一杯になって、誰かにこの喜びを伝えないではいられないようになるまで満たして下さいと祈りましょう。

クリスチャンの心が空っぽで、どうして隣人に救いを伝えられるでしょうか?
私たちの心が父の愛で満たされ、溢れ流れ、その溢れた者が回りの人に伝わるのです。
イエスさまを信じる者は既に聖霊様が心の中に住んでおられるのですから、聖霊様に愛で満たして下さいと願いましょう。