「わたしはまことのぶどうの木」
ヨハネによる福音書15章
牧師 小林智彦

【わたしはまことのぶどうの木】

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」ヨハネ福音書15章1.2節

農夫に喩えられている天の父なる神も、ぶどうの木として自分を喩えておられるイエスさまも、その願いは一つです。それは、枝が実を結ぶことです。
枝は、私たち一人ひとりです。私たちが、豊かに実を結ぶこと、これが神の願いです。

そして、神が私たちに結ぶことを願われている実とは、ただ一つ、愛です!
愛の実を結ぶこと、これが神の願いです。
愛の実を、別の言葉にするならば、キリストの人格、キリストの心とも言えるでしょう。

ぶどうの木につながっている枝は、決して梨や、柿の実を結ぶことはありません。
ぶどうにつながっていたら、結ぶ実はぶどうです。
イエスにつながっていながら、結ぶ実が怒りや憎しみ、敵対心になることはありません。

神が願われているのは、私たちが、キリストと同じ愛の心を持ち、愛に生きることを願われているのです。そのために父なる神もキリストも働かれるのです。

自分が、キリストのような愛の人になれるか?悩んだり、心配しなくて大丈夫です。
愛の実を結ぶための、全ての栄養分は木であるキリストから来ます。
また実を良く結ぶための環境を整えて下さるのは、天の父だからです。

しかし、私たちがすべき、ただ一つのことがあります。
それはキリストにとどまることです。

キリストにとどまるなら、必ず、キリストの愛の実を結びます。
キリストにとどまる、それはイエス・キリストと人格的な結びつきを保つことです。
イエスの心と、私たちの心が結び付いているなら、私たちの心にはキリストの愛が豊かに流れてきます。キリストの死に打ち勝った復活のいのちが豊かに流れてきます。
私たちは、自然に花を咲かせ、実を豊かに結ぶようになるのです。

実を結ぶために、私たちがすべき、ただ一つのこと、キリストにとどまることです!

【イエスにとどまる】

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」ヨハネ福音書15章4節

イエスさまは、何度もご自身にとどまること、人格的につながることを強調されています。

私たちは、どうしたらキリストのうちにとどまることが出来るのでしょう。
どうしたら、キリストと人格的なつながりを持ち、また保ち続けられるのでしょうか。

イエスさまは、大切な二つのことを喩えの中で教えています。

一つは、イエスのことばにとどまること。
二つ目は、イエスの愛にとどまることです。

【イエスのことばにとどまる】

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
ヨハネ福音書15章3節
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」ヨハネ福音書15章7節

私たちは、イエスさまが語られたことばによって、イエスにとどまります。
個人的にイエスと、心と心の結びつきを持つのです。

イエスの語られたことばは、私たちをきよめます。

このような話しを聞いたことがあります。
ある小学生の男の子がいました。彼の家の前には大きな池があり、彼の通う小学校は、ちょうど池の反対側にありました。彼はいつも池の回りを回って学校に通っていました。
この池は冬になると、氷が張ります。男の子の父親は決して、氷の上に乗らないように厳しく注意していました。そんなある日の冬の朝です。少年は学校に遅刻しそうになりました。少年は焦りました。ふと池に目をやると、人が渡っても問題なさそうな氷が張っています。二、三日前に子どもが氷の上を歩いているのを、少年は思い出しました。
もちろん父親に厳しく注意されているので、少年は氷の上を歩きませんでしたが、今は違いました。この氷の上を歩いて、真っ直ぐに学校に行けば遅刻しなくて済む!
そう思った少年は、思い切って、池に張った氷の上を走り出しました。
少し走ったところで、父親が注意していた通り、氷が割れ、少年は池の中に沈みました。冷たい、氷が張った池の中です。もがいても、もがいても、手にする氷は割れていきました。しかし、少年が池で溺れているのを目撃していた人がいました。
郵便の配達をしているおじさんです。おじさんは池に飛び込み、少年を助け出しました。少年は病院に入院することになりました。そして少年は無事、退院することになりました。
迎えに来たのは父親です。少年はいつ怒られるビクビクしながら、車で病院を後にしました。しかし、車がまず向かった先は少年の家出はなく、墓地でした。
父親はある一つの、新しい墓の前に少年を連れて行ったのでした。
そこで少年は、自分を助けてくれた郵便局のおじさんが、肺炎に罹り、命を落としたことを知ったのでした。

少年はこの事故の後、自分のいのちに対して、考え方が一変しました。
自分のいのちは、自分だけのものではないことを、自分のいのちは人の犠牲の上に成り立っていることを知ったのです。少年は自分のいのちの大切さに初めて気付かされたのです。

イエス・キリストも私たちのために、貴いいのちを投げ出して下さいました。
人がその友のためにいのちを捨てる、これほど大きな愛はありません。
キリストは最大の愛で、私たち一人ひとりを愛して下さいました。

私たちを捉え、私たちを死と滅びに向かわせる罪の重荷を、私たちの代わりに十字架として背負い、私たちが受ける罰を代わりに受けて下さったのです。
キリストの身代わりの死によって、私たちは罪と死と滅びから解放されました。

キリストのことばは、私たちがどれほど愛され、神の前に価値あるものなのかを自覚させます。キリストのことばによって、私たちは自分の本当の価値を知るのです!

キリストが私のために何をされたのか。
みことばを通して、神の愛を知る時、イエスの心と私たちの心は結び合わされるのです。

【イエスの愛にとどまる】

イエスにとどまる二つ目は、イエスの愛にとどまることです。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」ヨハネ福音書15章9から12節

イエスの愛、それは私たちを赦すための、命懸けの愛でした。
十字架で示された愛は、私たちの全ての罪を赦し、私たちを受け入れるためです。

天の父なる神は、イエス・キリストにあって私たちを赦し、受け入れ、神の子どもにして下さいました!

父なる神は、私たちが罪から離れ、神に喜ばれる生き方をしたからイエスさまを送って下さったのではありません!

私たちが、頑なに神を拒み、神の存在さえも否定し、神に敵対していた時、愛する一人子の神を私たちの救いのために送られたのです!

イエス・キリストによって、明らかにされた父なる神の心は赦しでした!
父なる神は、あなたを赦されていることを、十字架を通して明らかにされたのです!
キリストの十字架は、あなたが愛され、赦されていることの間違いない印なのです。

私たちは、キリストを神の一人子、救い主として信じ、心に受け入れるだけで救われます。ただ天の父が送られた救い主イエスを受け入れるだけで、何の良い行いがなくても救われるのです。その救いを受け入れるために、何もしなくても良いのです。
私たちは神の一方的な恵と愛によって救われたのです。

救いは、無料です!と言うと、何か安っぽい感じがしますが、それは全くちがいます。
キリストの救いは、もし値段を付けるとしたら、あまりにも高額で、誰も支払うことが出来ないために、値段を付けなかったのです。

罪の赦しは、天の父が気前よく、罪を見逃し、罪に対して寛容になったのではありません。
イエス・キリストが私たちの罪の罰を代わりに十字架で受けて下さり、罪の呪いと、罪かる来る滅びを受けて死んで下さったから、私たちは赦されたのです。
天の父の裁きは、キリストの血によって覆われたのです!
キリストの血が私たちを覆い、私たちの罪を覆っているのです。
キリストの血のあるところ、神の怒りと裁きは、過越していくのです。
イエスを信じ受け入れるとは、キリストの十字架で流された血を受け取ることです。

キリストが私たちを赦すために支払われた、代価の大きさを覚えましょう。
キリストが私たちを神の子どもとするために、罪赦すために、どれほどの苦しみを背負われたかを覚えましょう。これがキリストの愛にとどまることです。

イエスは言われました。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさいと。

私たちは、キリストがどのように私たちを愛したかを知らなくてはなりません!
キリストが私たちを愛し、赦すために十字架を背負い、苦しまれ、血を注ぎ出された愛を知らなければならないのです。

父なる神も、イエスも、私たちに願うことはただ一つです。それは実を結ぶことでした。愛の実、キリストの人格である愛は、どうしたら私たちの内に実を結ぶのでしょう。

キリストの愛を知ることです。キリストの赦しを知ることです。
キリストが私たちを愛するために苦しまれた、その苦しみを見ること、その支払われた代価の大きさに気付くことです。

イエスは言われました。「少ししか赦されない者は、少ししか愛しません(ルカ7:47)」と。つまり、多く赦された者は、多く愛するようになると言うことです。

互いに愛し合うことは、人間の生まれつきの性質から考えると、一番難しいことです。
今はストレス時代とか、ストレス社会と言われますが、一番のストレスは人間関係です。
互いの違いを受け入れることが出来ない。相手を赦せない。互いに愛せないのです。

なぜ相手が赦せないのでしょうか?なぜ人間関係のトラブルが起きるのでしょうか?
相手が間違っていて、自分がいつも正しいと思うから、相手が赦せないのです。
自分が間違いのない裁判官、そしていつも自分に正しい判決を下し、相手を裁くので、相手に対する怒りや不満が増大するのです。

つまらないこだわりから、人を裁く、自分と違うという理由だけで、相手を裁く。
愛を阻んでいるのは、自分の中にある裁く心なのです。

キリストの赦しを受け入れるとは、自分の中にある裁きを放棄することです。
なぜなら赦しを受け入れる者は、自分が罪人であることを認めることだからです。
キリストが自分のために死んだという現実、それは、自分が神の子を犠牲にしなければ赦されないほどの、それほど罪深い人間であることを認めることなのです。

自分を赦すために、御子イエスがどれほど苦しまなければならなかったのか、その苦しみを見る時、私たちは人を裁き、人の罪、過ちを責める、裁きの座に座り続けることは出来なくなります。

人を裁く時、私たちはキリストの十字架から目が離れています。
人を責める時、批判する時、私たちはキリストの愛と赦しを拒絶しています。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」ヨハネ福音書15章9節

キリストの愛にとどまり続けましょう!キリストの愛の大きさ、深さ、高さを知ることが、私たちを愛と赦しの人に変えるのです。

キリストの愛の苦しみを一つ知る時、私たちは一つ人を愛し、赦せるのです。
キリストの愛を求めて、キリストの愛をいつも見上げること、それがキリストにとどまることです。

私たちがキリストにとどまる時、イエスは二つのことを約束されました。
一つは、私たちの祈りが聞かれることです。
二つ目は、神の霊、聖霊が私たちをあらゆる面で、助けて下さることです。

聖霊が、私たちに神の愛を悟らせ、愛に生きる力を豊かに与えて下さいます。
祈りましょう。祈りの中にキリストの十字架を見上げましょう。