「イエスが示された模範」
ヨハネによる福音書13章
牧師 小林智彦

【イエスが示された模範】

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」ヨハネ福音書13章1節から5節

「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。『わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」ヨハネ福音書13章12節から17節

イエスさまは、十字架に付けられる前の晩、弟子たちと夕食をともにしました。
最後の晩餐として、多くの宗教画に描かれている場面です。
この晩餐の前に、イエスさまは驚くことを弟子たちにされました。
それは、弟子たちの足を洗うことでした。

イエスさまは、弟子たちに模範を示されたと言われました。
イエスさまが示された模範に、弟子たちが従うためでした。
イエスさまが示された模範の意味を、深く読み取って行きたいと思います。

①イエスさまは、委ねられた権威を、仕えるために、建て上げるために用いられた。

この箇所は、イエスさまが弟子たちの足を洗われたところだけに目が行きますが、その直前に大切なことが書かれています。

「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」ヨハネ福音書13章3.4節

イエスさまは、この時、天の父から万物を治める権威が委ねられたことを知りました!
天の父がイエスに万物を与えたのは、イエスがその身代わりとして罰を受け、死なれるために、全ての権威をイエスに委ねられたのでした。

この時、イエスは天地万物の支配者、全ての権威の、最も権威ある者となられました。
そのイエスが、何をされたのか?
人間の中で最も身分の低い僕、また奴隷の働きをされたのです!
イエスは与えられた権威を、人を支配するためではなく、仕えるために用いられました!

私は、これがまず初めに、イエスの示された模範であると思うのです。

私たちも、イエスの模範に従いましょう。
私たちが、心からイエスの模範に従うなら、世界は一変するはずです。
世の中の価値観は、イエスの模範の反対だからです。
世の中では、力ある者、権威ある者は、その力と権威を、人を支配するために使います。
力ある者は、その力を使って、他人を自分に仕えさせます。

しかしイエスさまは、模範を通して、力ある者は、その力を人を助けるため、建て上げ、仕えるために用いることを示されたのです。これがイエスさまの弟子の姿なのです!

一人ひとりに神さまから与えられた能力、賜物があります。これは優れた力です。
誰にも与えられています。ある人には音楽的な才能、ある人には人と仲良くする能力、ある人は会社を作り、お金を稼ぐ能力などです。

この能力をどのように使うかが大切です。この能力が、神から来ている物だと認め、人を自分に仕えさせたり、威張るために用いるのでなく、人に仕え、人を助けるために用いるなら、私たちはイエスさまの弟子です。そして世界は変わるでしょう!

人に仕えると言うのは、あまり聞きたくないと感じておられる人はいませんか?

人に仕える、僕になる、それは私たちの生まれつきの性質が最も嫌がることです。
私たちの性質は、人よりも偉くなりたい、人を自分に仕えさせたいのです。

イエスさまは、イヤイヤながら弟子たちの足を洗ったのでしょうか?
それならばイエスさまは、最も不自由な可哀想な人です。
しかし、イエスさまは進んで、喜んで弟子たちの足を洗ったのだと私は思います。
父なる神に強制され、イヤイヤながら弟子たちの足を洗ったのではないのです。
だからイエスさまは、解放された、本当の自由な人でした。

私たちは自由というのは、誰にも束縛されない、やりたいことだけをやれるのが自由だと考えます。確かに、それは自由です。しかし、完全な自由ではありません!
完全な自由とは、自分の権利をも、また自分の自由をも喜んで捨てられる人こそ、本当の自由人なのです。イエスさまは完全に自由人でした。全世界、全人類を一人残らず自分の奴隷に出来るのに、まず自分が進んで僕になり、仕える者になられたからです!

私たちも、イエスさまの完全な自由を模範にしましょう!
ただこの自由は決して私たちの努力では手に入りません。このことは後半分かち合います。

イエスさまが、まず始めに示された模範、それは与えられた権威、力を仕えるために用いられたことです。

私たちも、自らの能力、才能、力を、まず愛する兄弟姉妹に仕え、建て上げるために用いましょう。決して自慢したり、教会内で威張るためではありません。主イエスの教会ならば、人を支配したり、強制する権威は存在しないはずです。自発的に仕えましょう。

②「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」ヨハネ福音書13章5節

イエスさまは、12弟子の足を一人ひとり洗われました。その中にはイエスさまを裏切るイスカリオテのユダも含まれていました。

イエスさまは弟子の足を洗われ、互いに足を洗いあうべきことを教えられました。
足を洗うとは、何を意味しているのでしょうか?どのように実践すべきでしょうか?

足を洗うとは第一に、赦しを意味しています。

教会は互いの罪を裁き、責め、罰する場所ではありません!
しかし、実際はこのような、イエスさまの模範とまったくちがう場所になりがちです。
だから、今日は教会の認識を改めましょう!教会は互いの罪を赦し、罪を覆う場所です。

イエスさまは、弟子の足を洗われました。水浴びした者は全身が浄いと言われました。
水浴びするとは、イエスさまは洗礼のことを覚えて喩えられたのだと思います。
これは明確な救いの印です。イエスを信じ、その証として洗礼を受けたものは、確かに神の御前に罪赦された神の子です。しかし、足を洗われたのは、そんな神の子でも、地上にいる間はどうしても足が汚れるのです。

イエスを信じ救われ、神の子どもとされても、私たちは世の中の罪に巻き込まれてしまうこともあれば、肉の性質が強くて、罪に負けてしまうこともあるのです。
イエスさまは、ご自身が地上を歩まれた故に、よくご存じなのです。
それで、足を洗いなさい。それも互いに洗い合いなさいと模範を示されたのです。

教会はキリストの体であり、これを構成するのは私たち神を信じる一人ひとりです。
イエスさまの十二弟子を見ても分かりますが、その育った背景や、持っている思想もバラバラです。取税人もいれば、取税人を憎む熱心党、右翼でヤクザのような弟子もいました。
漁師もいます。みんなバラバラです。考え方、話し方、生き方、みんな違う。
これが集まって神の体である教会を形成するのです!人間的には不可能です。
しかし、それを可能にするのは神への愛と互いを赦し合うことだけです。

赦し合うことです!赦し合うことが、キリストの体、教会を健全に生かすのです。

互いの違いを受け入れ、認め、弱さを負い合うことが出来るなら、キリストの満ち満ちた栄光が教会の中から輝き出すのです!

人の欠点をあげつらい、裁くだけなら、世の中でも出来ます!それはイジメです。
教会がイジメの場所になったら大変です!赦し合うことが教会の命です。

明らかに聖書で言う罪深い生活を送っている人が教会にいても、決してその人の罪を指摘しないで下さい。指摘しなくても、本人が一番、良く気付いているのです。
罪だと分かっても、罪から抜け出せないで苦しんでいるから教会に来て、神さまの力と助けを求めているのです。後ろから石を投げるようなことは止めましょう。

「良く来てくれた!」と、心からハグして歓迎しましょう。それが赦すこと、愛することです。何度も同じ過ちを繰り返している兄弟を、裁くのではなく、とりなして祈りましょう。イエスさまは無限に赦せ!と教えられています。
教会がリバイバルだ!リバイバルだ!と叫ぶよりも、まず隣りにいる兄弟・姉妹への批判や裁き、陰口を止めるなら、日本の教会は爆発的に成長します。

「あの人はクリスチャンらしくない!」、このような聖書の何処にもない新しくて、恐ろしい律法を造るのは止めましょう。

エクレシアは、イエスさまが足を洗われたように、互いに足を洗い合う教会を目指しましょう。そうです!自分で自分の足を洗ってから、やっと入れる教会ではなく、汚いままでも、隣の人が愛で覆う教会、赦し、洗ってあげる教会を目指しましょう。

【互いに赦し合うには・・・】

・・・とは、言うものの、これは決して私たちの努力や頑張りでは出来ません!
赦し合い、仕え合う教会、進んで僕になる最高の自由人が集まる教会、これを目指すことは素晴らしいのですが、決して努力して出来るものではありません。
なぜなら、私たちの生まれながらの性質とは、まったく反対だからです。

これは努力で出来るものではなく、新しい性質が与えられなくては決して出来ません。
キリストにある本当の自由が与えられなくては出来ないのです。

私たちが、互いに赦し合い、進んで仕え合う真の自由を得るにはどうすれば良いのでしょうか? 答えは、手段や方法にはありません。ただイエスに出会うことです!

13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
ヨハネによる福音書13章6節から10節

私たちがイエスさまのような、本当の自由の中を生きるには、心から喜んで人に仕え、互いに赦し合う、赦しと愛に生きるには、イエスさまに洗っていただくしかないのです!

「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです(10)」と、イエスは弟子たちに言われました。

イエスを神が遣わしたものとして信じ、受け入れるなら、私たちは全ての罪が赦されて、神の子どもにされます!イエスの十字架で流された血潮が、私たちの罪を覆い、罪が赦されたからです。キリストの復活のいのちが注がれ、私たちの霊と魂に神の子どもとしての新しい性質、新しい命が注がれます。これがキリストにある自由に私たちを生かすのです。

いくら説明しても、分かりません。信じて、受け入れることです。そうするならば必ず、聖霊が確信を与えて下さいます。この変化は突然来る人もあれば、徐々に来る人もいます。
しかし、あなたがイエスを神として信じ受け入れ、イエスの約束を待ち望んでいるなら、必ず変化と成長が訪れます。

イエスさまは、「足以外は洗う必要がありません」と言われました。なぜでしょう。

霊と魂の救いはイエスを受け入れたその瞬間に訪れます。
しかし、足は肉体、また地上の生活の喩えとして用いられています。
この地上生活、また肉体は完全にきよめられることは無いのです。
地上にいる間は、私たちは不完全です。自ら罪を犯すことも、他人の罪に巻き込まれることもあります。だから絶えず、キリストの赦しを覚え、また互いに赦し合うことが必要になります。

クリスチャン・ライフが成長すれば、成長するほど、本来は自分の罪深さにさらに気付きます!パウロがそうでした。彼は自分が罪人の頭であると言っています。
またローマ人7章では、自分の罪深い性質に絶望し、嘆いています。
彼が特別、罪深い人だったのではありません。神に近づけば近づくほど、自分の内にある罪に気付くのです。しかし、それとともにパウロは、神の赦しと恵の大きさにも気付きました。

私たちが、兄弟姉妹の罪を見ても、裁いたり、非難せずに、赦し、愛を持って覆うには、自らの罪がキリストによって赦され、その血によって覆われている体験によって、初めて可能になります。

赦されたことが無い人は、決して人を赦すことは出来ません!
「多く赦された人は、多く愛するようになる。」これが原則です。
愛と赦しは同じ意味です。私たちはキリストによって赦されているから、人を赦せるのです。これは理屈ではなく、体験から来るものです。

13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

イエスは、私たちの罪を全て洗い清め、その負債をご自分の血潮で支払われました。
私たちは、決して思い出したくない過去の失敗、人に言えないような悪習慣、心の中の怒りや憎しみ、また嫉妬や妬みなどがあります。

イエスは、それを全部ご存じで、あなたを愛しておられます。
あなたの弱さも、あなたの失敗も、罪も、悪習慣も、全部知ったうえで、あなたを愛し、あなたを赦し、あなたを受け入れていると言われるのです。
自分ではどうしようも出来ない汚れた部分を、イエスは「わたしが背負い、わたしが自分の血をもって洗おう」と、あなたの前に僕としてご自身を差し出して下さっているのです。

イエスに洗ってもらいましょう!

その喜びが、互いに赦し合う原動力になります!
イエスに洗ってもらった感動が、人に仕える力になります!
あなたの前に跪かれ、僕になられたイエスを見上げましょう。