「豊かな実を結ぶ人生」
ヨハネによる福音書12章20節から26節
牧師 小林智彦

【一粒の麦】

「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。(20)」

この祭りとは、ユダヤ人にとって大切な過越しの祭りです。
ヨハネによる福音書の中でも、過越しの祭りはとても重要です。
イエスさまの救い主としての働きが過越しの祭りから始まり、三度目の過越しの祭りで終わるからです。ヨハネによる福音書では、イエスさまの活動期間はちょうど二年です。

バプテスマのヨハネはイエスさまを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言いました。
イエスさまこそ、過越しの祭りの中心なのです!

過越しの祭りとは、イスラエル建国と深く関わる祭りであり、神が定めた祭りです。
エジプトで奴隷として苦しめられたイスラエル人。イスラエルを苦しめていたエジプトを裁き、イスラエルを救い出すために神が設けたものです。

神はイスラエルの家ごとに一頭の子羊を屠り、その血を家の柱に塗るように命じました。神の怒りと裁きは血が塗られた家を過越し、血が塗られていないエジプト人に臨みました。
そしてイスラエルは奴隷とされていたエジプトから解放されたのです。
この救いを記念するのが、過越しの祭りでした。
祭りの中心は、犠牲の子羊を屠ることでした。
子羊の血は、神の怒りと裁きが過越したことの確かな印でした。

イエスさまは、ご自身が過越しの子羊になることを知っておられました。
ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人にも、全てイエスを信じるものに罪の赦しと救いを与えるために、自分が血を流さなくてはならないことを知っておられたのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(24)」

イエスさまは、自分のために十字架に付けられる必要は、全くなかったのです。
イエスさまにとって十字架は、マイナスもマイナス、自分にとって益は何もありません。
イエスさまは神です!完全に満ち足りた存在であり、ましてや十字架を背負う必要も、十字架を通して得られる益も何にもありません。

なぜ、それならば、イエスさまは十字架を背負われ、罪を贖う子羊のように、自分の血を、自分のいのちを犠牲にされたのでしょうか。

イエスが十字架を背負い、血を流されたのは、あなたを愛しているからです!

あなたが、悪魔やサタンと一緒に神の裁きにあって滅ぼされないために、あなたが罪の奴隷から解放されて、神の子どもとなるために、イエスはご自身の罪のない血を流され、あなたを覆われたのです!イエスの十字架は、神のあなたへの愛を表しているのです。

神はご自身のいのちを犠牲にしても、あなたに滅んで欲しくないのです。
天の父なる神の目に、イエスさまの目に、あなたは神のいのちほどに価値のある存在です。

イエスは、十字架の死を一粒の麦が地に落ちるようなものだと喩えられました。
麦が地に落ちて、その麦の形は無くなりますが、芽を出し、茎を伸ばし、やがて多くの実を結びます。同じように、イエスの死は、決して死で終わるものではなく、復活のいのちに続き、永遠のいのちはイエスを信じる全ての人に与えられるのです。

イエスの十字架の死を通して、信じるもの全てに、永遠のいのちが与えられるのです。
これはユダヤ人だけのものではなくギリシャ人にも、信じる者、全てに与えられるのです。

イエスは、あなたが、永遠のいのちを受けるために、進んで十字架の道を歩まれました!
主イエスと、イエスを遣わした天の父なる神の愛を覚えましょう!


【豊かな実を結ぶ人生】

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。(25)わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。(26)」

イエスは自分が一粒の麦となり、死んで、多くの命の実を結ばれたように、私たちも同じように生きることを願っています。なぜなら、それが豊かな実を結ぶ生き方だからです。

自分の命を愛する者、それは、一粒の麦のままだというのです。
一粒を愛して、肥やしても、それは一粒。命の連鎖が途絶えている。
命を守ろうとすればするほど、たった一粒のままであり、やがては無くなるのです。

しかし、イエスが十字架で自分の命を捧げたように、私たちも神と隣人のために命を捧げるのなら、決して一粒のままで終わることがない、豊かな実を結ぶ人生になると主は言われるのです。これが満ちあふれた、豊かな人生なのです。

この朝、皆さんに「実を結ぶ生き方を真剣に求めましょう!」と勧めをしたいと思います。

そして、まず皆さんを祝福します!あなたの人生はイエスにあって豊かに実を結びます!
お隣に座っている人を祝福して下さい。「あなたの人生はイエスにあって豊かに実を結びます」と。

実を結ぶ生き方とは、イエスの生き方です。十字架に命を捨てた生き方です。
一粒の麦のように、それは失われたように見えて、新たな命に満ち、豊かに実を結ぶ人生です。

イエスは自分のいのちを愛するな、この世で自分のいのちを憎めと勧めています。(25)
しかし、イエスは私たちに禁欲主義、ひたすら自分を苦しめる難行・苦行の道を説いているのでしょうか?

多くのクリスチャンが、そのように誤解しているのではないでしょうか。
それは宗教的、仏教的な解釈が入り込んでいるからだと思います。

多くの真面目なクリスチャンは、「自分のいのちを憎め」の言葉の故に、人生を楽しむことは罪のように考えています。本当に、そうなのでしょうか?
また、ひたすら禁欲主義に生きる生き方が、豊かな実を結ばせるのでしょうか?

先々週のメッセージで分かち合ったように、ひたすら禁欲主義に生き、律法を熱心に守っていたパウロが、このような生き方では何も解決がないのだと気付いた話しをしました。
宗教的な生き方、方法論では、いのちの実は結べないのです。

イエスさまは十字架を背負われました。イエスの生涯は十字架の生涯でした。
しかし、イエスの内面は絶えず父の愛で満ちていました。イエスはいつも喜んでいました。
希望と感謝に満ちあふれた、いのちに溢れる歩みをされました。

決して宗教的な禁欲主義、好きなことを我慢する、楽しいことを否定する生き方、イヤなこと、やりたくないことを無理にする生き方が、実を結ぶ人生と勘違いしないようにしましょう。

宗教的、仏教的な眼鏡を通して、イエスのみ言葉を理解するのではなく、神の恵みを通して、み言葉を受け取りましょう!

私たちは、ただ信じるだけで救われたのです。恵による救いです。
恵によって救われた者は、自分の努力や頑張りで成長するのではなく、成長もやはり恵によるのです!

この例を、同じヨハネ福音書の12章にあるマリヤの香油注ぎに見ることが出来ます。

マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。(12:3)

ナルドの香油は、非常に高価でした。マリヤが注いだ三百グラムの香油は、お金に換えれば約10ヶ月分の生活に相当する額になります。今なら200万円ぐらいでしょうか?
なぜマリヤがこのような高価な香油を持っていたのか?
これは当時のユダヤ人女性が嫁入り道具の一つとして用意していたものだそうです。
結婚して、花婿と新しい生活を始める時に、花婿に注ぐための香油でした。
その大切な香油を、マリヤはイエスに全て注いだのでした。

なぜマリヤはこの時に、イエスに自分にとっては大切な香油を注いだのでしょうか?
マリヤは知っていたのです!イエスがエルサレムで死ぬことを知っていたのです。
マリヤはイエスのみ言葉に、ひたすら耳を傾ける女性でした。
イエスは、何度もエルサレムでご自分を待ち受けている迫害と死について語られました。
マリヤは、そのことが、この過越しの祭りの時に起きることを知っていたのです。
彼女は自分に出来る最善のことを、心を込めてしました。自発的に、自然にです!

イエスさまは、マリヤから受けた香油をとても喜びました。大きな励ましだったのです。
マルタとマリヤの姉妹、そして兄弟ラザロは特にイエスさまから愛されていました。
この家族はイエスさまと、個人的な関係を持っていたからです。
彼らは、イエスさまからありのまま愛されていることを知っていました。
彼らはイエスさまと家族のような関係にあったのです。
これがイエスさまとの、理想的な関係です。
イエスさまは、私たちと、このような関係を持ちたいと願っているのです!

心から愛する人のために、また心から愛する家族のためには自分のいのちすら与えたいと思うのが人間です。マリヤはイエスのためには自分を喜んで捧げたいと思っていました。
そして、その表れが、大切なナルドの香油をすべてイエスに捧げきることでした。
これは、義務でも、宗教的な務めでも何でもありませんでした。
イエスの愛を個人的に受けとめ、イエスを愛していたから自発的に、自然に出たことです。

しかし、残念なことに、この愛と恵をまったく知らない、理解しない人が出てきます。
イスカリオテのユダです。

12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。 12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

ユダの発言は、マリヤの美しい献身的な愛を踏みにじり、台無しにするものです。
そしてユダは、表面上は正しいことを言って、マリヤの行為を責めているのです。
「なぜ、貧しい人々に施さなかったのか?」

私は、人間的な努力や我慢による自己犠牲、また献身はイスカリオテのユダを生み出すのではないかと思うのです。人間はとことこん罪深いもので、努力すればするほど、捧げれば捧げるほど、認められたい、それ相応の報いを求めるものです。
イスカリオテのユダは裏切り者で有名ですが、彼はなぜイエスを裏切ったのでしょう。
私は、ユダの方が先に、イエスに裏切られたと思ったからだと思うのです。
ユダも他の弟子たちと同じように、家を捨て、仕事を捨ててまる二年間、イエスに従ってきました。それは大変な努力だったのでしょう。しかし、彼はその努力を惜しまなかった。なぜなら、イエスがイスラエルの王になって、自分を大臣にしてくれるからと期待があったのです。しかし、エルサレムを前にして、イエスは政治的なメシアではないことがハッキリしてきた時、彼は裏切られた!と思ったのです。

ユダとしては、ここまで自分を無にしてイエスに仕えてきたのに、裏切られたと思ったのです。

我慢すればするほど、無理すれば無理するほど、それはイエスに対する失望という形で自分に帰ってくるのです!


クリスチャンとして相応しく歩むために、私は、あれも我慢してきた!これも無理して止めた!・・・ 。こう言うのが続くと、いつかイエスに対する不満や失望になって表れるのです。 イエスは私たちに、信仰以外何も求めてはいません!

イエスは私たちを宗教という縛りから、解放するためにも来られたのです。
私たちは宗教、行いによる救いで救われたのではなく、恵によって救われたのです。
恵とは、まず受けることです!受けるに値しないのに、受けることです!
何の努力も要らず、何の行いが無いにも関わらず、私たちは救われたのです。

マリヤは自分をありのままで受け入れ、愛し、救って下さったイエスを自発的に愛しました。イエスの愛を思うと、イエスを愛さずにはいられなかったのです。
イスカリオテのユダは、イエスの愛と恵を知りませんでした。
本当のイエスを、彼はとうとう最後の時まで見ていなかったのです。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。(25)わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。(26)」

イエスの十字架の愛をいつも見続けることです。イエスを遣わした父の愛を見続けることです。イエスの恵を覚えることです。どれほど自分が愛され、赦されているか。
神が私たちに与えられたもの、これから与えようと用意しているものを覚えて下さい。
神の恵みを知り、神の愛を知るならば、必ず聖霊があなたの中にいのちの川を湧き上がらせて下さいます。これが神と隣人に仕える力です!これが湧き上がるまで、何もしないで下さい。聖霊によらなければ、私たちは神に仕えることは出来ません。

聖霊は神の恵の中に、豊かに私たちの心を満たして下さるのです。

「わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです(26)」

あなたがイエスを見いだす場所に、イエスはあなたとともにおられます。
あなたが置かれている場所に、イエスを見いだすなら、そこはキリストのいのちの実を豊かに結ぶ場所になります。