「永遠のいのちとは、イエスを知ることです!」
ヨハネによる福音書5章から8章
牧師 小林智彦

今週の聖書通読箇所はヨハネによる福音書5章から8章です。
今週もヨハネによる福音書から恵といのちを受けましょう!

ヨハネ福音書は、他の福音書とは異なる視点から書かれていることを前回話しました。
私は通読を通して、ヨハネ福音書は「イエスは誰であるのか?」、このことをハッキリと指し示すために書かれていると、さらに確信を得ました。

「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)」

ヨハネは私たちがイエスを信じて、いのちを得るために「イエスは誰であるのか?」を、福音書を通して明らかにしたのです。
ヨハネ福音書には、イエスが誰であるのかがハッキリと書かれてあります。

「わたしがいのちのパンです。(ヨハネ6:35)」
「わたしは世の光です。(ヨハネ9:5)」
「わたしは羊の門です。(ヨハネ10:7)」
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)」

いま引用した聖句は、イエスさまがご自身で、自分のことを語られた箇所ですが、ヨハネ福音書はその全体に渡って、イエスは誰であるのかを私たちに示しています!

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」

この聖句は最も分かりやすく、イエスは誰であるのか、そして私たちと、どのような関係にあるのかを教えています!

イエスが誰であるのか、そして、この方と正しい関係を持つこと、これが救いです!
イエスと個人的に出会い、人格的な関係を持ち、深めていくこと、これがいのちです!

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3)」

イエス・キリストの本当の姿を知る。イエスのことばから、イエスを知り、個人的な関係を持つこと、これが救いであり、ここにいのちがあるのです!

私たちクリスチャンの救いは、イエスを知り、受け入れることから始まり、クリスチャンとしての成長はイエスと正しい関係を持つことによってもたらされるのです!

イエスを知ること!そして正しい関係は、体験をもたらします。イエスを体験していくこと、これが私たちをキリストに似た者へと成長させるのです。

イエスを知ること!イエスを見つめること!イエスとつながることです!

【ローマ人7章24節からの発見!】

先日、ローマ人への手紙を学んでいて、大きな発見、気付かされたことがありました。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)」

発見とは、パウロはこの箇所で「どうしたら、この死の体から救い出されるのか?」と言っているのではなく、「誰が、この死の体から救い出してくれるのでしょう」と言っていることです。

パウロが救いとしたのは、「どうしたら?何をしたら?(How?)」ではなく、「誰が?(Who?)」であるのです。

パウロは、人間は手段や方法では決して救われないことを、このローマ人で教えています。手段・方法、それはパウロにとっては律法、宗教でありました。
パウロは熱心に律法を守り、宗教を守りました。
彼は宗教的な人になることで、行動を変えました。しかし、内面は変わらなかったのです。
律法によって、何が正しいか、何が悪いかはわかるようになった。
しかし、律法は正しいことを守る力、悪いことを止める力を与えることは無かったのです。

彼は手段や方法、何かをしたら救われる、こうやったら良い人になれると言った、HOWの世界には、救いも、人格的な成長もないことを悟ったのです。
だからパウロは、「WHO?誰が私を救ってくれるのか?」と、手段や行為ではなく、命ある人格の中に、神との正しい関係の中に救いを求めたのでした。

私は長いこと、このローマ7章24節を読み違えていました!
「私は、ほんとうにみじめな人間です。どうやったら?何をしたら?この死の、からだから、救われるのか?」と読み違えていました。

もちろん、救いはイエスを信じることにあることに、疑問を持ったことはありません。
しかし、私は神と出会いが成長をもたらし、神との関係によってのみクリスチャンは成長すること、このことの重要性に対して、まだ目が開かれていなかったのです!

「どうしたら?何をしたら?良いクリスチャンになれるのだろう?」と、長い間、いや、この発見をするまで、クリスチャンの成長は手段・方法にあると勘違いしていたのです。

どんな新しい知識を得たらクリスチャンとして成長するだろうか?
どんなセミナーを受講したら成長するだろうか?
一日に何時間祈れば、何時間、聖書を読めば、クリスチャンとして成長するだろうか?
どんな奉仕をしたら成長するだろう?どの神学校に行ったら成長するだろう?

皆さん、Doing(行為・行い)には、救いも、成長も、いのちもありません!
大切なのはBeing(存在・関係・いのち)です。

私たちのBeing(存在・関係・いのち)を救うのはDoing(行為・行い)ではなく、キリストのBeingなのです!イエス・キリストとの人格的な出会い、交わりのみが私たちに救いを与え、いのちと成長を与えるのです。

キリストとの出会い、交わりによって生かされ、励まされる時に、初めていのちある行動が生み出されていくのです!私たちのBeingがキリストに出会わず、いのちを受けていない時に、いくら行動だけを変えようとしても無駄なのです。

行動を変える力、成長する力も、行いにあるのではなく、キリストとの生きた出会いによって、いのちが励まされ、内面から行動が変わるのです。

私たちは何をしたら救われるのだろう?何をしたら成長するだろう?と言った、HOW?ではなく、誰が私を救われるのだろうと、日々、イエス・キリストとの人格的な出会い、交わりを求めていきましょう!

【私たちには馴染みにくい考え方・・・、でも!】

修行や努力によって救われ、成長する。このような宗教的、律法的な考え方の方が私たちには馴染みやすいと思います。クリスチャンですら、私も含めてですが、救いはイエスによることは認めながらも、クリスチャンとしての成長も努力ではないとは、なかなか認められないのではないかと思います。

価値観の一大転換が必要になります。もちろん、これも聖霊さまの助けが必要です。

人格による救い、人格による成長。これが本当の救いと成長の道です。
なぜなら、人格と人格、関係の中にこそ、いのちは生まれるからです!

私たち日本人は優れた製品を作り出すことによって経済発展してきました。
良い製品を作るためには、努力しなければなりません。日々、改良です。
日々新しい知識や技術を導入して、新製品を生み出す。これが日本の力でした。
しかし、これは製品を生み出すための方法です。
生み出された製品は、どんなに優れた物でもいのちはありません。

いのちは、人間の努力や頑張りによって造り出すことは出来ないのです。
いのちは、関係の中に生まれます。私は誰かの努力によってではなく、父と母とが愛し合って生まれたのです。父一人、もしくは母一人の努力で造られたのではありません。
いのちは関係の中に生まれるのです。

私たちが永遠のいのちを受けて、神の子として誕生するのも、人格のある神と私たちとの関係の中に生まれるのです。人間の努力でも、神の努力だけでもありません。
信仰によって、神と人とが結ばれる時、救いが起きるのです!

クリスチャンの成長も同じ、いのちの法則に従っています。
努力や頑張りは、いのちの成長を妨げてしまう方が大きいのです。
私は植物を育てるのが好きです。最近、アセロラを買ってきて育てています。
アセロラの実が出来たら、ジュースにして飲みたいのです。
ようやく、アセロラに小さい花の芽が出てきました。これが咲いて、実を結ぶのが楽しみです。しかし、私に出来ることは水をやって、肥料をやって見守るだけです。
早くアセロラの実が欲しいからと言って、花の芽を無理矢理に引っ張ってみても、花を台無しにするだけです。水も肥料もやりすぎれば、直ぐに根が腐ってしまいます。
水や肥料をやると言っても、アセロラが本来植わっていた状態に近づけるだけなのです。
実を結ばせるのはアセロラの木が持っている生命力なのです。

クリスチャンの成長も、人間的な努力や頑張りによって成長させよう、良いクリスチャンにさせようとすると、変わるのは外面だけです。イエスさまは人間的な努力だけで、「自分は成長した、自分は完璧な人間だ」と言っていたパリサイ人を偽善者、俳優と呼びました。いのちが伴わない行動の変化は、演技でしかないのです。

キリストとの個人的な出会い、正しい関係を通してのみ、私たちの内面はいのちを受けます。励ましを受け、力が与えられます。自然と内面から思いが変えられ、思いが変わると行動が変わるのです。行動が変わると、回りの人からも成長したことが分かるのです。
これがいのちの御霊の法則です。

キリストに出会うこと!私たちにいのちを与えるイエスを見つめることです。
イエスが誰であるのか?イエスを知ること、これが、私たちにいのちを与えるのです!

皆さん、聖書を、キリスト教の知識を増やすためには読まないで下さい。
良いクリスチャンになるための手段として、聖書を読まないで下さい。
聖書の中にご自身を顕しておられるイエスさまに、人格的に出会って欲しいのです。
人格的な交わりだけが、私たちにいのちを与え、成長をもたらすのです。

イエスとの人格的な交わりは、私たちに喜びと励ましを与えてくれます。
私たちのために十字架に架かって下さったイエス、私たちをありのまま愛し、受け入れて下さるイエス、私たちに癒しの御手を伸ばして下さるイエス、このイエスに日々出会う時、私たちの心は喜びと、暖かい愛で満たされます。
それで、良いんです!

植物を育てる時、私たちに出来ることは、日当たりが良く、風通しの良いところに置いてあげることだけです。それだけで良いんです。植物は内にあるいのちと、その持っている性質に従って、すくすくと成長し、花を咲かせ、実を結ぶのです。

私たちもイエスとの生きた人格的な交わりの中に留まっていたら、心が励まされ、自然と愛に生き、愛の実を結ぶ人に変えられているのです!
イエスを見つめ、イエスの愛の中に留まり、イエスを喜び、楽しみましょう!


【わたしはいのちのパンです】

「わたしがいのちのパンです。(ヨハネ6:35)」

ヨハネ福音書6章には、イエスさまが五千人の人々にパンを分かち合った奇跡が記されています。イエスさまは、ご自分の教えを聞きに集まった群衆に、喜んで神の国の教えを分かち合いました。やがてイエスさまは群衆が空腹であることに気が付きました。
お腹を空かせたままで帰らせたくない!そう思われたのか、弟子のピリポに相談を持ちかけました。もちろん、ピリポには答えられない。五千人の胃袋を満たすなんて!とても考えられない相談です。

でも、これがイエスさまの弟子を育てる方法でした。

「もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。(ヨハネ6:6)」

イエスさまはピリポを始め、弟子たち、群衆も愛していました。
イエスさまは、彼らにとって最も大切なものを与えようとされたのです。
それは、イエスさまご自身であり、イエスさまが誰であるかを明らかにすることでした。

イエスさまはピリポが持ってきた少年の五つのパンと二匹の魚を持って、五千人の空腹を満たしました。それは空腹を満たすことが目的だったのではなく、イエスさまこそ、私たちのいのちのを満たす「いのちのパン」であることを示すためでした。

全ての答えはイエスにあるのです!

愛を持ってピリポを試されたように、主は私たちを、自分の力では解決できないような辛い状況に導かれる時があります。それは私たちを苦しめて、惨めにさせるためではありません。私たちを愛し、私たちのためにいのちを投げ出された救い主が、どれほど偉大であるか、真の救い主、いのちの主であることを示すためです。

ピリポが五つのパンと二匹の魚を、自分で群衆に配らず、まず主に委ねたことを覚えましょう。解決は主にあります!

自分の持っている力、能力、可能性を先ず、主に捧げ、委ねることです!

ピリポは主が、そのパンと魚をどのようにされるのかをじっと見つめていたことでしょう。私たちも、問題を主に捧げ、その中に働かれる主をじっと見つめるのです!
「主よ!この問題の中に、ご自身を顕して下さい!」と。

主は必ず、あなたの問題の中に、ご自身の栄光を現して下さると確信します!

なぜなら、主は言われるからです「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
(ヨハネ6:35)」と。

あなたは「いのちのパン」である主を知っていますか?体験しましたか?
主イエスを知ることが、永遠のいのちです。
どんな危機的な状況に置いても、イエスは変わらず「いのちのパン」です!

もし私たちが、このことを本当に知り、体験したら、どんな状況でも恐れは過ぎ去ります。
人間的には絶望的な状況に置かれても、主がともにおられるなら希望があります!

もし、いま自分が置かれている状況に不安を感じているのなら、主を知る時です!
自分自身の可能性、力を先ず主に捧げ、自分の出来る範囲を主に示して下さい。
自分がどれだけ小さく、直面する問題に無力であるのかを主に示して下さい。
自分ではどうしようも出来ないところに、主を招きましょう!
「主よ、栄光を現して下さい!みことばの約束を実現して下さい!」と主に祈りましょう。

主は、昨日も今日も、そして明日も変わることがありません。約束のみことばを必ず実現し、あなたに主の姿を示されるでしょう。これが個人的にイエスと関係を持つことなのです。あなたの人生に主を招いて下さい!

主を知ることが、私たちの永遠のいのちです。