「神の子どもとされる特権」
ヨハネによる福音書1章
牧師 小林智彦

【初めに、ことばがあった】

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」ヨハネ福音書1章1節から3節

今週の聖書通読はヨハネによる福音書の1章から4章です。
ヨハネ福音書から、私たちの救い主イエス・キリストの愛と恵に満たされましょう!

福音書と名前が付けられた書物が新約聖書には四つあります。
マタイとマルコ、ルカとヨハネの四つです。マタイとマルコ、ルカはイエスさまの教え、働きが同じような見方から書かれています。書かれている内容が似ているのです。
そのため、この三つの福音書は共観福音書と呼ばれています。
この共観福音書と比べると、ヨハネによる福音書は独自の観点から書かれています。
ある人は、ヨハネによる福音書は霊的な視点から書かれていると言います。
霊的視点とは、人間には知り得ない、深い真理、深い洞察によって書かれているからです。

共観福音書はイエスさまの出生、成長についての記述がありました。
処女マリヤから生まれたこと。ダビデ王の子孫として生まれことなどです。
それらはイエスが、旧約聖書の約束していた救い主であることを証明することでした。

しかし、ヨハネによる福音書は「初めに」から始まります。
この「初め」とは、3節から分かるように、世界が創造される以前のことです。
当然、人間は存在しませんでした。ヨハネはどうして、この真理を知ったのでしょうか?
神の霊が、ヨハネに直接、啓示を与えた!これ以外に知り得る方法はありません。
ヨハネは神の霊、聖霊に示されて、人間的な理解を超えたイエスの姿を知らされたのです。
だからヨハネ福音書は霊的な福音書なのです。

人間的な理解を超えた方法で書かれている。つまり人間の理性を越えている内容です。
だから人間の理性で理解することは出来ません。疑問しか出てこないでしょう。
神の霊によって啓示された書物は、神の霊の助けを受ける以外、その内容を理解することは出来ないのです。

もちろん、理性を捨てろ!と言うことではありません。
限界のある私たちの理性を、神の霊に助けて頂いて、理解できるように祈り求めることが大切なのです。ですから、ぜひ聖書を読む時は祈って下さい。
自分の頭、自分の良い頭を誇って、自分の理性で読み解いてやろうなどと高ぶらないことです。神の霊に謙って、理解力を求めることです。

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
詩編119編130節

みことばの戸を開かれるのは聖霊様です。決して人間の知性ではありません。
聖霊様が聖書を解き明かされる時、光が私たちの心に差し込みます。
この光が、神の愛と恵、そして天の父の愛に満ちた姿を私たちの心に示されるのです。

今、祈りの時を持ちましょう!聖霊様が一人ひとりに助けを与えて、私たちの救い主であるイエスさまのお姿がハッキリと見えるように、その心に示されるに祈りましょう。

【神のことばであるイエスさま】
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」ヨハネ福音書1章1節から3節

この「初めに、ことばがあった」と書かれてある「ことば」こそ、私たちの救い主であるイエス・キリストを表しています。
そして、3節には「すべてのものは、この方によって造られた」とあります。

旧約聖書のいちばん始めの書物である創世記、その始めにも神がことばによって天と地とそれに満ちる物をお造りになったことが書かれています。

この創造の神、天の父が語られたことばである神、このことばである方が何と!人となられた。それがイエス・キリストなのです。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1章14節

私は、この聖書箇所を知る前は大きな誤解をしていました。
イエスさまは、努力をして神になられたのだと誤解をしていたのです。
仏教的な考えです。仏教は難行苦行によって、悟りを開き、そして仏になる。
しかし、聖書の世界は全くの逆です。

人が難行苦行して、善行を積み重ねて救われる、神になるのではありません。
神が人間を救うために、人となられた!
人間イエスが神になったのではなく、神が、人間イエスになられたのです。

人間はどんなに努力しても、神にはなれません!
しかし、神は全能です。神が人になることは出来るのです。

しかし、何のため?何のために神が、はるかに劣った人間になる必要があるのでしょうか?

これこそが!この書物が福音書と呼ばれる理由です。福音とは良い知らせのことです。
私たちにとって、最も嬉しい、喜ばしい知らせなのです!

神がわざわざ人となられたのは、私たち人間ではどうやっても出来ないことをするためでした。神が人となって助けて下さらなければ絶対に出来ないこと!

【神の子どもとされる特権をお与えになった】

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ヨハネ福音書1章12.13節

人となられた神、イエス・キリストのお名前を信じる者に、神の子どもとされる特権を与えるためでした。

神の子どもです!神を父と呼び、神に養われ、守られ、神の家族の一員にされるのです。
神が父ならば、いつでも父と話し、助けを受け、慰め、励ましていただけるのです。
神が永遠で、決して死ぬことがないように、私たちも神の子どもにされるなら永遠の命を受けるのです。これが救いです!

そして、この救いは「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれた」のです。私たちの努力や頑張りではありません!
神の一方的な愛、恵によって私たちに与えられたものなのです。

ただイエスを受け入れること、その名を信じることによって、私たちは救われるのです!

なぜなら神が人となって、私たちを神から遠ざけていた罪を身代わりに背負って下さったからです。私たちが救われるのには、何の努力も苦労も必要がありません。
なぜなら、私たちの代わりに、神が救いに必要な全てのことをして下さったからです。

私たちは神によって生まれたのです。
いのちあるものは、全て生み出されました。

生まれ出てくるものは、何の努力も要りません。
私たちが生まれてくる時、努力して下さったのは母です。母が苦しんで、努力してくれたのです。私たちは、父母の一方的な努力によって生み出されたのです。

神の子どもとして生まれるのも同じです。神が一方的に私たちを産んで下さったのです。
産みの努力は神であるキリストが人となり、罪の負債をご自身の血で支払い、私たちを復活の命によって生かして下さったのです。

御子イエスは神のことばです!このことばは世界を創造したことばです。
神のことばは必ず実現します。

聖書が、そしてイエスさまが、あなたの罪は赦されたと仰るなら、あなたがどんなに大きな罪を犯していても、あなたの罪は赦されたのです!

自分を見て、どう考えても神の子どもに相応しくないと思えても、主イエスが、「あなたは、信仰によってかみのこどもだ!」と仰るなら、あなたは神の子どもなのです。

そうです!誰でもイエス・キリストを神からの救い主として信じ、心の中に神として受け入れるなら、あなたは神の子どもなのです!

産み出して下さったのは神であり、あなたがこれから、神の子どもとして相応しく成長する力も、神から来るのです!

神のことばである、ことばである神は、私たちを罪と死と滅びから救い出し、私たちを神の子どもとするために、人となられ、私たちの身代わりに罪の十字架を背負われたのです。しかし、主は三日目に復活し、私たちを義とし、私たちに復活の命を与えられました!

私たちに救いと命、赦しと愛を一方的に与えて下さった神を誉めたたえましょう。

【イエスは神を説き明かされた】

神のことばであるキリストが人となられたのは、私たちに真の神を示すためでした。

「(14)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(18)いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」ヨハネ福音書1章14節.18節

ヨハネはハッキリと、「いまだかつて神を見た者はいない」と言っています。
罪を犯す前のアダムとエバは神を見たのでは?と疑問が出て来るのですが。
確かに、アダムとエバは神を見たのでしょう。しかし、彼らは残念ながら、本当の神の姿、恵とまことに満ちておられる姿を見ることは無かったのでしょう。
もし、正しく神を見ていたなら、神の前から逃げることは無いからです。

アダムとエバは神の「まこと」の部分だけを見ていたのかもしれません。
神の真理です。罪を徹底的に罰する、罪とは相容れない正しさです。
神の義の前には、確かに私たちは怯えます。

しかしイエスさまは「まこと」だけでなく、「恵」にも満ちておられました!
だから私たちは、イエスさまに近づくことが出来るのです。

旧約聖書が読み辛いのは、この「まこと」の部分が中心になっているからです。
新約聖書が親しみやすいのは「恵」が明らかにされたからです!

「恵」とは神からの一方的な愛、赦し、命です。私たちの行いに依らず、神が一方的に与えて下さる物、これが「恵」なのです。

宗教の世界は救いがありません。なぜなら「恵」が無いからです。
仏教の場合、救いがゴールです。救われるために、難行苦行、そして良い行いが必要です。救われるために、努力する必要があるのです。

しかし、福音は違います。救いが何とスタートなのです。始まりなのです。
キリスト教の信仰生活は、救われてから始まるのです。
神が、あなたをありのままで受け入れて下さいました!
あなたを、「ありのままで良いんだよ!」と受け入れて下さったのです。
これが恵の世界です。

皆さん、これが神の姿です。この神の姿を見失わないようにしましょう!

もう、すでにあなたを良いと仰って下さる父なる神の姿を覚えましょう。
あなたをイエスにあって「我が子」と読んで下さる父なる神、この神こそ、真の神です!

私たちは恵によって、信仰生活を始めました。信仰生活の成長も恵によるのです!
私たちをイエスにあって一方的に「我が子」と読んで下さる神に頼り続けるのです。
聖書を読み、理解する力も父にお願いするのです。イエスが私たちを愛して下さったように、私たちが神と隣人を愛する力も、神から来ます。愛する力も、父にお願いするのです。

そして、決して自分を誰かと比較しないことです。
神は決して自分の子どもに優劣を付けないからです。命あるものに優劣はありません!
神が御子イエスの死と復活によって子として下さった私たちを、優劣を付けて比べるようなことがあるでしょうか?私たちの存在そのものを神は喜んでおられるのです。

私たちを恵によって救って下さった神は、私たちを恵によって成長させて下さるのです!