「罪赦されたダビデ」
詩編51編から
牧師 小林智彦

【詩篇51編の背景】

詩編51編の背景については、「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」とあります。
この出来事は旧約聖書の第二サムエル記11章、12章に詳しく書かれています。

ある日、ダビデ王が王宮の屋上を歩いていると、何と美しい女性が体を洗っているのが見えました。その女性がバテ・シェバで、とても美しい女性でした。バテ・シェバはウリヤの妻でしたが、ダビデ王は誘惑に負けて彼女を王宮に呼び寄せ、姦淫の罪を犯します。
その上、その姦淫によってバテ・シェバは妊娠してしまうのです。ダビデは夫のウリヤを戦死に見せかけて殺してしまいます。そしてバテ・シェバを妻に迎えるのでした。
誰にも分からないとダビデは思っていましたが、神の目には全てが明らかでした。
神はダビデの下に預言者ナタンを遣わし、彼が暗闇で行った全ての罪を明らかにします。
ダビデは主のことばを聞いて、我に返り、罪を心から悔い改め、神も彼の罪を赦しました。
ダビデが恐ろしい罪を赦され、罪から解放された喜びを歌ったのが、この詩編です。

【人は生まれながらの罪人】

旧約聖書の第二サムエル記11章には、ダビデの犯した罪が克明に記されています。
ダビデは神に選ばれた信仰の勇士でした。心から神を愛し、神に命を捧げてイスラエルのために戦い続けてきました。彼は優れた信仰者、また神の義と愛に満ちた偉大な王です。
しかし、そんな優れた人物でも、恐ろしい罪を犯してしまうことがあるのです!

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」5節

ダビデは自分の中にある罪を嘆いています。自分は生まれながらの罪人だと。
自分の罪を強烈に嘆いているのはダビデだけではありません。パウロもそうでした。
パウロは自分のことを「本当にみじめな人間です」と嘆いています。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」ローマ人への手紙7章18から20節

パウロは「何が罪なのか分かっているが、その罪を止められない」と言っているのです。
「何が善であるのか分かるのに、それが行えない。自分は罪に支配された惨めな人間だ」と嘆いているのです!

聖書は、私たち人間は生まれながらの罪人で、自分の力では、努力や修行、道徳や宗教、教育では決して罪に勝つことは出来ないと教えています。
人間は、誰も他人の罪を裁けないのです!なぜなら罪を犯さない人はいないからです。
全ての人間は罪人で、罪に対しては無力なのです。

キリストは、私たちの罪を裁くために来たのではありません。
聖書は罪を明らかにしますが、それは私たちを裁いて、罰を与えるためではありません。私たちを罪から救い、解放し、命と自由を与えるためです!

キリストが来られたのは、自分では勝つことが出来ない罪から私たちを解放し、命と自由を与えるためです。決して罪を裁き、罰を与えるためではありません。

聖書は罪から来る報酬は死であると教えています。(ローマ6章23節)

罪は一時的には、私たちに快楽を与えるかもしれない。しかし、必ずさらにひどい惨めさで私たちを縛り、喜びや生きる目的を奪い、最後には私たちから命を奪うのです。
神は私たちが、誰ひとりとして罪で滅びて欲しくないのです!
罪から解放され、完全な自由の中を神の命で満ちあふ、喜びに溢れて生きて欲しいのです。

詩編の51編はキリストにあって、罪から解放される道を確かに私たちに示しています。
罪からの解放を、救いと喜びの道を、この詩編の中から見つけましょう。

【罪を告白すること】

罪からの解放されるための第一は、自らの罪を心から、神に告白することです。

ダビデ王は優れた王で、神の命令に従って大きな働きをして来ました。
しかし、その良い働きのために罪が赦されたのではありません。
人はどんな良い行いをしても、その功績の故に、罪から解放されることはありません。

「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。」詩編51編1節

罪が赦されるのは、神のあわれみによるものであり、一方的な神の恵みによるのです。
私たちは神にあわれみを乞い、神の恵みに信頼しなければなりません。
そして自らの罪を神に告白するのです。

「どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。」2.3節

神の霊が、私たちのうちに罪を示された時、私たちはいつも謙遜になって神に罪を告白しましょう。自分を弁護したり、罪を隠す必要はありません。
神は私たちを責めるためではなく、赦し、自由にするために、罪を示して下さるのです。

「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」4節

自分を弁護したり、罪を隠す必要はありません。
神は私たちを責めるためではなく、赦し、自由にするために、罪を示して下さるのです。

【キリストの血による罪の赦し】

「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」7節

ヒソプとは、植物の一種です。この植物に何かの霊力や魔力があるのではありません。
ヒソプは箒のような植物で、過越しの祭りの時、羊の血を柱に塗るのに用いられました。

「ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。」
出エジプト記12章22.23節

羊の血が塗られている家には、神の怒りと裁きは過ぎ超されました。
イエス・キリストの血は、神の怒りと裁き、また死の滅びから私たちを守るのです!
イエス・キリストこそ、罪のもたらす罰から私たちを救う神の子羊なのです。

キリストの十字架は、私の罪が赦されるため、キリストは私の罪を身代わりに十字架で背負って下さったと信じることが、罪からの解放、罪の赦しの道です。

誰でもキリストの流された血は、私のためだと信じるなら、その人は赦されるのです!
キリストは既に、あなたの罪の罰を身代わりに受けられました。
あなたの過去も、現在も、また未来も、キリストによって赦されているのです。

「私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」7節

キリストの血は、私たちの、罪で汚染された心を浄めます。

「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」ヘブル人への手紙9章14節

私たちは聖書が指摘する罪を、罪として受け入れられない時があります。
なぜこれが罪なのか?誰でもやっているじゃないか?厳しすぎる!少しぐらいなら!
私たちの心が罪に汚染され、罪を罪として認識できないのです。

中毒症状も同じでしょう。ある人はアルコールを一滴でも飲んではならない人がいます。アルコールが深刻な中毒症状を引き起こし、体も精神も、その人の人間関係もボロボロにしてしまうからです。その人自身もアルコールが悪いと分かっている。しかし、心から憎めないのです。少しぐらいなら良いじゃないか!一週間飲まなかったから今日は!
悪いと分かっているのですが、心の底からダメだと思えない。

他の中毒も一緒です。ただこれは中毒の話しであって一般のレベルではありません。
ゲーム中毒、インターネット中毒、仕事中毒、セックス中毒、買い物中毒。
何でも中毒になるのです。自分をダメにしてしまうものを愛してしまう。
この罪に汚染されている心は、努力によっても、誰かの説教によっても治らない。
指摘されれば、指摘されるほど、中毒へと逃げたくなる。

そうです、罪に勝てる人は一人もいないのです!
キリストの血を受け続けるしかないのです。キリストの血は赦しを与えます。
キリストの血は、私たちが受け入れられていることを保証します。
キリストの血の中で、裁きや責めから守られて、私たちは初めて自分の罪でボロボロになった自分を認めることが出来るのです。罪の本当の恐ろしさを知るのです。
キリストの血が、私たちを正常にします。

【赦しの宣言を受け取る】

「私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。」8節


私たちの一番の楽しみ、喜びは、天の父なる神との関係が和解することです!
天の父なる神から「あなたは赦された!」、「あなたはわたしのこどもだ!」と言って頂くことです。天の父なる神から愛され、赦され、受け入れられていること、これが喜びです。命の回復です!

預言者ナタンは、罪を告白し、悔い改めたダビデに赦しの宣言をしています。
私たちクリスチャンは、キリストにあって王、預言者、祭司です。
私たちはみ言葉に基づいて、自分にも、また兄弟姉妹に対して、罪の赦しを宣言できるのです。もちろん信仰に基づいて語って下さい。私たちはキリストの赦し中にいるのです!

罪を認め、天の父に告白したのなら、喜びの源である罪の赦しを受け取って下さい!
どうしても赦しの確信を受けられないなら、信頼できる兄弟姉妹に、宣言してもらって下さい。しかし、すでにキリストによって赦されている!その信仰に立つことが大切です。

いま、キリストの十字架による赦しを信仰によって受け取りましょう。
赦しから、神の命はあなたの心に注がれ、神の命はあなたに喜びと回復をもたらします。

【聖霊様に満たされ続ける】

「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」12節

罪からの解放、それは努力や頑張りで、罪を我慢することではありません!
罪を犯したいと思わなくなる!今まで楽しんでいた罪深い行いが、心から嫌いになることです。それは内面を変えて頂かなければ無理なのです。

残念ながら、私たちはこの肉体に留まっている間は、罪の誘惑は無くなりません。
罪を愛する性質は肉体に留まり続けるのです。

しかしクリスチャンをコップに喩えると分かり易いと思います。
このコップに、救われる前は泥水しか入り込む流れしかなかった。
しかし、イエスさまによって神さまとの関係が和解してからは、濁りの無い美しい水が注がれるようになった。私たちクリスチャンは二つの流れが心に注がれているのです。
濁り水を留めようとしても、やがて圧力が増して、もとの流れになってしまいます。

罪を我慢しても無駄なのです!必ずリバウンドが来ます。

そうではなく、美しい水の流れを広げればよいのです!
それが聖霊に満たされることなのです!
悪習慣を我慢して止めるのではなく、良い習慣に置き換えるのです。

聖霊様は助け主です。私たちの心の中にキリストの偉大な愛の業を絶えず思い起こさせ、キリストの愛に感動させて下さる方です。
キリストの赦し、キリストの愛、キリストの恵、約束を思い起こさせ、信仰に立つ力を与え続ける方です。キリストの聖霊をいつも、心に歓迎しましょう!
聖霊様、私の心を絶えず満たし、神の喜ばれることを進んで行う力を下さい!と願って下さい。私たちが聖霊様に満たされることを願えば、聖霊様は助けて下さるのです。
聖霊様に心を開くことです!謙って助けを求めることです!