「キリストによってすべての人が生かされる」
第一コリント15章20節から26節
牧師 小林智彦

【もし私たちがキリストに単なる希望を置いているだけなら・・・】

「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」
第一コリント15章19節から22節

「もし私たちがキリストに単なる希望を置いているだけなら・・・(19節)」

これは直接的には、キリストの復活を否定する人たちのことをパウロは指しています。
キリストの復活は、信仰の土台であり中心です!
復活の無いキリスト教ほど、意味のないものは無いとパウロは言っているのです。

復活は私たちの信仰の土台です!福音の中心です!
しかしこの復活が、ただ単にクリスチャンは死んだ後に復活すると言う理解であるのなら、これはもったいない信仰だ、と言わせていただきます。

復活はもちろん死後の復活をも含みます。しかし復活は遠い遠い未来に起こる出来事ではなく、キリストを信じる者が日々体験するものであることを知らなければなりません!

「死後に復活があるんだって」と言うレベルでは、キリストに単なる希望を置いているのと同じだと思います。これは、この信仰理解が無い人を責めているのではありません!
ただ「もったいない!」のです。もの凄く「もったいない!」のです。

キリストの復活は、死後の保証を与えるだけのものではなく、今のあなたを助け、支え、活かす力なのです!

神の栄光を表し、永遠に実を結ぶ信仰生活を可能にさせるのは、私たちの頑張りや努力ではなく、キリストの復活の力が私たちのうちに働いて可能にするのです。

だから、キリストの復活は、私たちクリスチャンの日々受けるべき力なのです!
この力を受けなかったら、私たちは自力でクリスチャン生活を送らなければならない。
それはとても疲れるし、もったいないのです!

スーパー・スポーツカーを持っていても、エンジンを掛けないで、自力で押しているようなものです。エンジンさえ掛ければ、後はアクセルを踏むだけで走り出すのです。
復活が死後だけに関係する、それはもったいのです!
「死んだ後が心配だから、とりあえずキリスト様を信じておくか」、これはもったいないのです。それはキリストの復活の力がどれほど凄いのかを知らないのです。

【キリストによってすべての人が生かされるからです】

「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」第一コリント15章22節

「アダムにあってすべての人が死んでいる・・・」。
聖書は人類共通の祖先であるアダムが罪を犯したため、その子孫すべてが罪の罰である死を負うことになったと教えています。
死は現実です。死ぬことを忘れる時もありますが、死を疑う人は誰もいないでしょう。
そして、死というものを考える時、それは完全に心臓が止まるある日のことだけでなく、死というものは、日々私たちの人生から命を奪い去るものです。

26節には「最後の敵である死」とパウロは表現しているように、死は私たちの敵です。私たちの中には、いつも命と死の戦いが繰り広げられています。
そして、キリストの復活のいのちが注がれないならば、死が日々、勝ち続けるのです。
死は私たちから命を奪い去り、死の支配を日々強め、最後には死に飲まれてしまいます。

私たちの中に働いている死の、現実的な力に気付いて下さい!
キリストに単なる希望を置いているだけなら、この死の圧倒的な力に飲まれるのです!

死とは、聖書的には分離を意味しています。
アダムとエバは神が禁じていた善悪の知識の実を盗み食いしました。
その罰が死でした。彼らは、その実をとって食べるなら死ぬと警告されていたのです。
アダムとエバが善悪の知識の実を食べた瞬間、死は破壊的な結果をもたらしました。
神との関係が壊れてしまったのです!
神を遠ざけ、神から逃げるようになり、神を恐ろしいと思うようになった。これが死です。

神が分からない、神の愛が分からない、神を恐ろしいと思う!これが死です。
神さまとの関係が壊れている、これが霊の死なのです。
キリストに出会う前の私たちは、肉体は生きていても、霊は死んでいたのです。

しかし、キリストによって私たちの罪は赦されました。
神の罰を恐れ、神から逃げる必要はありません!
罪の赦しを受けた私たちは、神と和解し、神を天の父と呼べるようになったのです。
これが救いであり、私たちの霊が、キリストの復活のいのちを受けたのです。
キリストの復活のいのちが、死んでいた私たちの霊を活かし、神と関係を結ばせたのです。

死が関係の破壊なら、命は関係の回復であり、和解なのです!

死は霊の次ぎに、魂にも訪れました。霊は神との関係ですが、魂は人と関係する部分です。
アダムとエバは罪を犯して直ぐに、目が開かれて、自分が裸であることに気付いたとあります。裸とは、自分が何も持たない惨めな存在であることに気付いたと言うことです。
イチジクの葉っぱでも隠さなければならないほど、恥ずかしい存在であると感じたのです。

死の力は、魂を破壊しました。人間は自分の価値を見失ってしまったのです!

しかし、私たちはキリストの中に自分の価値を見いだすのです。

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節

天の父は、キリストを犠牲にしてまでも私たちを愛しておられます!
この父の愛を受け入れることが救いであり、自分の価値の再発見なのです。

私たちは、アダムとエバのように、自分を恥じる必要はありません!
自分を価値がない、惨めな存在と思う必要はありません!
なぜなら全能の父なる神が、あなたを高価で貴いと、愛しておられるからです。

自分の価値を再確認すること、これが自分を愛することです!
それは自分との関係を回復することであり、和解することです。
自分をキリストの愛によって愛するなら、私たちは回りの人をも愛せるようになります。回りの人の価値を認めることが出来るようになるからです。

キリストの十字架の愛は、私たちの魂に自分の価値を伝え、復活のいのちは愛に生きる力を与えるのです!

キリストの復活のいのちは、私たちの死んでいた霊と魂を復活させ、キリストの復活の力は、私たちを神と人を愛する者にさせるのです。

【最後の敵である死も滅ぼされます】

しかし、残念なことに私たちの肉体は、まだキリストの復活のいのちを受けていません。
肉体はまだ死んでいないからです。この肉体の中には、罪と死の力が根強く働くのです。

この地上にいるあいだ、私たちクリスチャンは不完全な存在です。
霊と魂は救われましたが、肉体には完全な救いは訪れていない。
私たちの肉体が救いに与るのは、キリストの再臨の時、栄光の体が与えられる時です。
この時、完全な救いが実現します!死と滅びからの完全な勝利、完全な癒しの時です。

しかし、キリストが再臨される前の今の時、私たちが地上に留まっている間は、罪と死の力が働いている不完全な肉体を抱えているのです。

私たちは地上にいる間は、いつも戦いの中に置かれているのです。
救われた霊と魂が、キリストの復活の力によって自分の肉体を支配するか、それとも、肉の力が勝って、私たちを死の支配、霊的に敗北した人生を歩ませるのかのどちらかです。

私は神を賛美し、祈り、礼拝することが何よりの喜びです!
いつまでも賛美したい、いつまでも祈りたいと思います。これは救われた霊が思わせるのです。しかし、祈りたくないと思う日もありますし、祈っていて眠くなる時もあります。
祈りは大切であり、喜びなのに、なぜ祈りたくないのか、眠くなるのか?
賛美も同じです。自分でギターを弾きながら賛美します。しばらくすると喉が痛くなる。
肉体は疲れてくるのです。

教会に行きたい!祈祷会に行きたい!でも日曜日の朝になると、起きあがるのが辛い。
そんな経験はないですか?

神が喜ばれることをしたいのに、出来ない!正しいことをしたいのに、出来ない!
心の中に別々の思いが戦っているのです。霊と肉が、自分の体の中で戦うのです。
神が喜ばれることを行うのか、それとも罪深い行いを選ぶのか、絶えず戦いがあります。
この戦いは、肉体が死んで、栄光の体を受ける時、再臨の時まで続くのです。

私たちはどうしたら、肉体に依然として支配力を振るっている死の力に勝利できるのでしょうか?もちろん完全な勝利はキリストの再臨の時に訪れますが、それまで指をくわえてただ待っているだけなのでしょうか?霊的な勝利は、気まぐれなのでしょうか?

それならば、私たちは「キリストに単なる希望を置いているだけ」の信仰と同じです。

霊的な勝利は、キリストの復活の力を日々、一瞬一瞬、受け続けるところにあります!

【キリストに結び合わせられる】

パウロはキリストの復活の力を受け続ける秘訣を教えています!

「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」ローマ6章5節

キリストの復活に与る秘訣は、キリストに継ぎ合わされることです!
日々、キリストに継ぎ合わされていくなら、キリストの死は罪の力を滅ぼし、復活のいのちと力を私たちの霊に注ぎ続けるのです。私たちの霊がキリストの命に満たされる時、私たちは肉の欲、また死の力に勝利するのです。

キリストに継ぎ合わされることです!
頑張ること、無理することではありません!

神が喜ばれることを、努力や頑張りでは出来ません。一時的には出来たとしても、必ず反動が来ます。リバウンド状態になります。

「○○しなければならない!」、この「~ねばならない」を律法主義と言います。
クリスチャンだったら、毎週日曜日に礼拝に行かなくてはならない。
クリスチャンは、酒、たばこをやめなくてはならない。献金しなければならない。奉仕しなければならない。清く、貧しく、美しく生きなければならない!などです。
律法主義でクリスチャン・ライフを送ると、直ぐに疲れ果てます。
怒りや、偽善に、心は疲れ果ててしまうのです。やりたくないことは、やらないことです!
人に見せるためのクリスチャン・ライフほどばからしいことはありません。
ありのままで良いのです。

しかし、復活のいのちを受けるクリスチャン・ライフは律法主義とは違います!
心からキリストに従いたくなるのです。心から神と人に仕えたくなるのです。
キリストの復活のいのちが、力となり、原動力となるからです。

キリストに継ぎ合わされること!キリストにつながっているなら、自然に出来るのです。
キリストにつながっていても出来ないことがあるなら、やらなくて良いのです。

キリストにつながることも、律法にすべきではないでしょう。
キリストにつながらなければならない、キリストに継ぎ合わされるべきだ!と。
そんなことを言わなくても、私たちがキリストを見上げるなら、自然にこの方といつまでも一緒にいたいと思います。自発的に、キリストとともにいたい!と思えるのです。

キリストには、大きな赦しがあるからです!
キリストは私たちの弱さ、過ち、過去の罪、現在の罪、やがて犯してしまう罪を知っていながら、私たちを責めることはされません。ありのままのあなたを受け入れて下さる。

私たちが自分も人をも苦しませる罪に歩まないように、力と命を注いで下さる。
いつも私たちの側に立って下さり、サタンの訴えを退け、私たちを弁護して下さる。
私たちにいつも目を留めて下さり、私たちの必要を備え、私たちのために天の父にとりなし、祈って下さるのがイエスさまです。

イエスの赦し、イエスの愛を知るなら、自然につながっていたいと思うのです。
イエスの赦しと愛を覚えることこそ、キリストに繋がることです。
イエスの赦しと愛に、純粋に感動する時、私たちの心にはキリストの復活のいのちが注がれています。キリストに感動し、その時、自発的に神と人のためにしたいと思ったことをするのです!これが本当の奉仕の精神です。

やりたくないことは、やらなくて良いのです!
やるべきだと分かっていながらも、やりたくないなら、無理しなくて良いのです。
正しいことがやりたくなるまで、キリストの愛に留まることです。
キリストと十分に交わりの時を持ち、その愛に心が感動するまで、義務や頑張りで何かをしなくても良いのです。


キリストの復活の力が、皆さんの上に豊かに注がれるように祈ります!
一人ひとりがキリストの愛の深さ、高さ、広さを知って、進んでキリストに留まり続け、愛と赦しを知るように祈ります。心がキリストの愛によって感動し、神が喜ばれることを進んで出来るように、神の愛のために疲れや無理を知らない者となるように祈ります!