「十字架への苦しみの道」
マルコによる福音書10章32節から45節
牧師 小林智彦

来週の日曜日はイエスさまの復活を記念する復活祭になります。
イエスさまは復活されるちょうど一週間前に、エルサレムに入城されました。
エルサレムの人々は、棕櫚(しゅろ)の葉を道に敷き詰めてイエスさまを歓迎しました。
そのため、復活祭の前の日曜日をパーム・サンデー、棕櫚の主日と呼びます。
この日から、イエスさまの復活する日曜日までが、受難週と呼ばれています。

この受難週、私たちはキリストが十字架を背負われ、苦しまれたことを覚えましょう。
神の子であるイエスさまが、なぜ十字架に付けられなければならなかったのか?
イエスさまの十字架を見上げ、十字架の意味を覚えましょう!

キリストの十字架を2千年前に起きた、昔の出来事として覚えるのではなく、キリストは私のために十字架を背負われたこと、私のための十字架として覚えましょう。
救いは、キリストの十字架と復活から始まります。

神と私たちをつなぎ合わせる接点は、キリストの十字架です!
キリストが死なれたのは、私のためだった!これが救いの原点、神との出会いの原点です。
神との関係は、十字架と復活から始まるのです!

【十字架への道を真っ直ぐに進むイエスさま】

「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。』」マルコ10章32節から34節

キリストが十字架に付けられたのは、不幸な出来事やアクシデントではありませんでした。キリストが十字架に付けられるのは、人類の祖先アダムとエバが罪を犯した時から、計画されていたことでした。

また旧約聖書、イザヤ書の53章には、キリストが苦しめられるのは、私たちの罪のためであり、キリストが代わって罰せられることにより、私たちは罪の赦しを受け、病が癒されることが明確に預言されています。

イエスさまはご自分の使命を知っておられました。
全人類を罪と死の滅びから、悪魔・サタンの支配から救い出すために、ご自分の血を十字架の上で注ぎ出さなければならないことを知っていました。
自分が苦しめられること、拷問を受け、拒絶され、裏切られること、遂には殺されることを知りながらも、イエスさまはエルサレムに向かって進んでいったのです!
弟子たちの先頭を立って歩かれました!

私たちに、救いと完全な赦しを与えるために、イエスさまは真っ直ぐに歩まれたのです。
私たちを愛するため、私たちが罪で滅びることが無いために、イエスさまは歩まれました。
このイエスさまの壮絶な覚悟を覚えましょう。

イエスさまがエルサレムに向かって真っ直ぐに歩むその姿は、弟子たちに驚きと恐れを覚えさせたと32節書いてあります。十字架の道はイエスさまにとって苦しみの道でした。
強い覚悟を持って臨まなければ、イエスさまですら誘惑に負けそうなほど辛い道でした。柔和で優しいイエスさまの顔つきが変わるほど、十字架の道は辛く激しい道のりでした。

私たちを救うために、イエスさまはこの道を妥協せずに歩みきりました。
キリストの激しく、熱い愛がここにあります。
キリストの苦難を見つめましょう。私たちのために苦しまれたイエスを見ましょう。
キリストの苦しみこそ、神の完全な愛の表れです。

【十字架が見えない弟子たち】

「さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。『先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。』イエスは彼らに言われた。『何をしてほしいのですか。』彼らは言った。『あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。』しかし、イエスは彼らに言われた。『あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。』マルコ10章35節から38節

イエスさまは弟子たちに、今回で三回、エルサレムで待ち受けている苦難と死について予告されました。しかし弟子たちは、イエスの言っている意味が分かりませんでした。
イエスさまが最も大切なこととして伝えたことが、弟子たちには伝わりませんでした。

神の栄光ではなく、自分の栄誉を求める心が、キリストのことばを見えなくさせます。
純粋にイエスを主、イエスに従っていた弟子たちも、いつの間にか欲に心を支配されていました。

弟子たちがイエスの十字架の死と復活を本当に理解するのは、かなり後のことです。
死から復活した主が、弟子たちの不信仰を責めずに憐れみ、赦した時に、弟子たちの心は欲望から解放されて、ありのままのキリストを受け入れることが出来たのです。

ここに本当の解放と信仰の成長があります。

良い弟子になろうと、ひたすら努力するうちに、弟子たちの目はキリストから離れて、他の弟子と自分を比べ合うようになった。何かを為そうと焦れば焦るほど、イエスさまの言葉が分からなくなった。

罪から解放されるのは、恵であって、努力ではない!
信仰が成長するのも、赦しと恵を受けることであって、努力ではない!
主に仕える動機は、「○○しなければならない」ではなく、「そうせずにはいられない!」
自発的な意志によるのです。

【仕えて下さるイエスさまを知る】

「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ10章43節から45節

イエスさまは、私たちに仕えるために来たと言われました。
ここが、とても大切な点です。私たちは真面目なので、イエスさまに十分に仕えてもらう前に、神と人に仕えようとします。その結果、疲れ果ててしまうのではないでしょうか?

良いクリスチャンになろうと、努力すればするほど、自分は窮屈になり、回りの人も窮屈にしてしまう時があります。

クリスチャンは酒・たばこはやらない!ギャンブルやらない!そのようなイメージがあります。しかし、これは単なるイメージであって、本当の姿ではありません。
神を信じることは、クリスチャンらしく生きることとは全然違います。

イエスは人に仕えなさい、進んで僕になりなさいと教えられました。
しかし、これも自分の努力で行おうとすると律法になるのです。縛られるのです。
信仰の世界は、人間の頑張りや努力では生み出せないのです。

弟子たちが変えられたのは、自分の努力には限界があることを心から認めた時です。
ペテロも心からキリストに仕えたいと願っていました。
しかしイエスが裁判に掛けられた時は、自分も捕らえられる恐れから、「こんな人は知らない!」と嘘を付きました。それがペテロの限界だったのです。私たちの限界でもあります。私たちは自分の努力では、キリストに従いきれないのです。

しかし、「それでも良いよ!」と赦して下さるのがイエスさまです。
この赦しを受け取って下さい。不完全でも、裏切り者でも、赦し受け入れるキリストの愛を受けることです。こんな不完全で、我が儘で、自分の欲に振り回される私のために、十字架を背負い、涙して祈って下さるイエスを知ることです。

このキリストの赦しを知る時、私たちは、自分のまわりの人も赦せるようになります!
そこに平和と癒しが流れるのです。
しかし、努力して立派な弟子になったら、そこには赦しがありません。
努力して、自分の力で立派な弟子になったら、聖霊の助けも、祈りも、不必要です。

私たちがキリストの赦しに触れる時、そこに愛が生まれます!
「キリストが私を罪から救うために、これほど私に仕えてくれた」、これがキリストに仕える原動力になるのです!「こんなダメな自分を本当に赦し、受け入れ、祝福して下さる!」、これを知る時、回りの人を赦し、祝福する原動力になるのです。

だから、神に祈りたくないと思っている人は、祈らなくて良いのです。
奉仕したくない人も、奉仕しなくて良いのです。献金したく無い人も、献金しなくて良いのです!やりたく無い人は、やらなくて良いのです。無理しなくて良いのです!

そして、そのあなたを「心から愛している」イエスを知ってください。
「あなたは疲れている。あなたの疲れを、わたしが癒そう」と言って下さる主を知ってください。主の愛の中に留まり続け、自分の力で頑張らないでください。
キリストの愛が、あなたを支え、キリストの愛が、あなたの原動力になります。

この受難週、静まって、ただあなたを愛し、あなたを救うために、真っ直ぐに苦難の道を歩み、痛くて重いあなたの十字架を背負って下さったイエスを見つめましょう。
私たちの払いきれない罪の借金を、身代わりに支払って下さったイエスさまを見つめましょう。