「心を注ぎ出す祈り」
第一サムエル記1章から
牧師 小林智彦

今週の聖書通読箇所は第一サムエル記の1章から10章になります。
サムエルは祭司であり預言者、またイスラエルを裁く最後の士師でした。
本日は、サムエルの母ハンナから、神の恵と信仰を学びましょう。

【ハンナとペニンナの争い】

「エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。
この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。また、ハンナに、ひとりの人の受ける分を与えていた。彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである。
彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。」第一サムエル記1章1節から7節

エルカナには二人の妻がいました。ハンナとペニンナです。
当時は一夫多妻の悪習慣がありました。一夫多妻は家庭を幸せにはしません。
ハンナとペニンナは夫の愛情を一心に得ようと、愛情の争奪戦をしていました。
ハンナとペニンナはライバルでした。

エルカナはハンナを愛していたようですが、ペニンナには強力な武器がありました。
それは子どもたちです。ハンナには子どもがなかったとあります。
ペニンナは子どもを武器に、自分こそ夫の愛情を得るに相応しいと自分を誇っていました。

特に、年に一度、彼らが会見の幕屋が置かれていたシロで、家族揃って礼拝するとき、祭司が家族一人ひとりの祝福します。
ペニンナが夫とハンナに対して自分の存在を強烈にアピールする時でした。
ペニンナは自分が祝福された女であると、夫とハンナの前で誇らしげに感謝しました!

ハンナにとっては自分を一番惨めに思うときでした。
食事も喉を通らない。きっとハンナはペニンナが憎くて堪らなかったことでしょう。
そしてペニンナの子どもたちにさえ、憎しみを覚えていたかもしれません。
ハンナは自分の健康を呪い、そして子どもを産ませないようにしていた神に対しても、怒りを覚えていたのではないでしょうか。

「主が彼女の胎を閉じておられたからである(5節)」とあります。
主はなぜハンナが願うように、子どもを授けられなかったのでしょうか?

【祈りが聞かれない時・・・神が私たちを整える時】

ハンナは主の宮に上るたびに、今年こそはと子どものことを祈願していたはずです。
しかし、主は彼女の胎を閉じておられたのです。

祈っても、祈りが聞かれないときがあります。
正しい計画を建てても、まるで主が反対しているかのように、不思議に道が閉ざされることがあります。祈りが聞かれない時は、信仰者にとって辛い時です。試練の時です。

「祈りが聞かれない!神はなぜ答えて下さらないのか?」
そのような辛く、苦しい、悩みの時を過ごしておられる方はいないでしょうか。

祈りが聞かれない時、それは神が私たちを整えられる時なのです!

私たちの信仰が実を結ばないものにならないため、永遠の実を結ぶための整えの時です。
イエスさまは、天の父が私たちを真に実を結ぶものになるために、実を結ばない枝を刈り込んで下さると教えています。

神は私たち一人ひとりに計画を持っておられます。
ハンナには、イスラエルを導く偉大な指導者の母になることを計画していました。
神はご自身の働きの為に、人を選び、選んだ者をさらに相応しく整えられるのです。

神が先ず取り扱われるのは、心の高慢です。

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」箴言18章12節

神は愛する者が心の高慢によって滅びることを願いません。
神は愛する者から高慢の芽を摘み取って下さり、謙遜な心を養われるのです。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩編51編17節

神がハンナの心に残る高慢を砕くために、用いられたのはペニンナでした。
ペニンナはハンナを憎み、ハンナが苛立つようなことをわざとしました。
ペニンナはハンナを苦しませ、悩ませたのです。
ハンナもペニンナを憎み、ペニンナを消し去って下さいと祈ったと思います。

あなたの回りに、ペニンナはいませんか?
理由もなくあなたを憎み、苛立たせ、あなたの陰口を言う人はいませんか?
その人のために、あなたの心は悩まされ、眠れぬ夜を過ごすほどに疲れさせる人。

神は私たちの高慢を砕き、私たちの心を練り浄めるために私たちの周りの人を用います。
しかし、本当の敵はペニンナではなく、自分でも気が付かない心の高慢なのです。

【心を注ぎだして祈るハンナ】

「毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」
第一サムエル記1章7.8節

ハンナの心の苦しみは頂点に達していました。美味しいご馳走も食べたくない。夫の愛も慰めにならない。自分で気が付かないうちに涙がこぼれ出る。
怒りと苦しみと憎しみで心がかき乱される。神が与えた試練は一体いつまで続くのか?
ハンナはいつになったら、この苦しみから解放されるのでしょうか?

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。(10節)」
「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。(15節後半)」

ハンナの救い、癒し、解放は祈りから始まりました!
もちろんハンナは今までも祈っていました。しかし、その祈りは口先だけの祈り、形式的な祈り、上辺だけの祈りでした。

しかし、苦しみの絶頂に追いつめられたハンナは、始めて主の前で激しく泣きました!
ハンナは始めて心を注ぎだし、ありのままの姿で神に向き合ったのです!

神が求めていたのはハンナの心からの祈りでした!
神はハンナの本音の祈り、ありのままの心を求めていました。
神は上辺だけ、形だけの祈り、神と取引をするような祈り、自慢する祈りは聞かれません。
神が求めているのは、心を注ぎだす祈り、ありのままの祈りなのです。

神が祈りを通して出会いたいのは、良い子を演じている、あなたではありません!
宗教深い人間を演じている、あなたではありません。
ペニンナが憎くてしょうがない、ペニンナを殺したいほど、恨みでボロボロになっている、ありのままのハンナと出会いを神は求めていたのです!

滅びに先立つ心の高慢とは、いったいなんでしょうか?
神の御前にさえ、自分の本音を隠す心の態度です。

本音で、ありのままの心で神と向き合ったハンナは、心の重荷を下ろすことが出来ました。
神は私たちが抱えている、抱えきれない心の重荷を背負って下さるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ福音書11章28節

大切なのは、本音で祈ることです。
心を注ぎ出す祈りから、私たちの癒し、解放は始まります。

【マイナス感情の圧力が抜かれる時、束縛から解放される】

ハンナの一番の重荷は、子どもの問題でした。
彼女は毎年、シロの主の宮に上るたびに子どもが与えられるように祈願したことでしょう。
しかし、神はハンナの祈りに答えられませんでした。

ハンナはまだ「ペニンナと子どものことで負けたくない!」との肉的な競争、比較の束縛から解放されていなかったからです。

「早く子どもを下さい!今すぐに!もっと下さい!」。
心が焦る時、誰かを憎んでいる時、不安や心配の時、正しい願いを持つことは困難です。神さまの御心よりも、自分の解決を優先させたい時は、特に正しく祈れません。

心の圧力を抜くことが大切です!

ハンナは心を注ぎだし、感情の圧力を祈りの中で解放して頂きました。
その時、始めて自分の問題を正しく認識し、また願うことが出来たのです。

ハンナは自分のエゴのために、ペニンナと比較して勝つために子どもを求めていました。
しかし、やっと主の栄光のために子どもを求めることが出来たのです。

「そして誓願を立てて言った。『万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。(11節)』」

心を注ぎだし、本音を神さまに祈る時、焦りや心配から解放されていきます。
赦せない思い、憎しみも、そのまま神さまに正直に伝えるのです。
わざと感情的になる必要はありません。演技する必要も、感情的になる必要もありません。
ただ自分の気持ちを神さまに分かちあうのです。

「私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。(16節後半)」

ハンナはつのる憂いといらだちをそのまま神に伝えました。長い時間、祈ったようです。
ハンナを束縛していたマイナスの感情から、ハンナは解放されたのです!

私たちは正しいと分かっていながら、なかなか出来ないことがあります。
マイナスの感情に束縛されているのです。
赦せない思いや、過去の傷が邪魔をして、正しい判断、正しい行動が取れないのです。
このマイナスの感情、心の傷をありのままイエスさまに伝えるのです。
そのようにして、イエスさまに背負って頂くのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ福音書11章28節

ハンナ顔は、「もはや以前のようでなかった(18節)」とあります。
私たちもハンナのように、悩みを全て主に明け渡し、スッキリしましょう!
私たちの重荷、問題、悩みも苦しみも、イエスさまのもとにおろしましょう。
主から休みと解放をいただく時、私たちは問題の中に神の栄光を見ます!

「『それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。』こうして彼らはそこで主を礼拝した。(28節)」

ハンナは幼子サムエルを主に捧げ、主を礼拝しました。
神がハンナに願っていたのは、ハンナが真の礼拝者になることでした。

神は問題を通して、神との妨げになっている心の高慢を砕かれます。
心の高慢とは、神の前に演技する心、本音を分かち合わないよそよそしい関係、神様を心から信頼しない不信仰です。神はこの高慢を私たちから取り除きたいのです。
砕かれた心、謙遜な心をもって、心から神を礼拝する礼拝者になることを願っています。