「わたしのことばは決して滅びることがありません」
マタイによる福音書24章から
牧師 小林智彦

「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。』」マタイによる福音書24章1.2節

このエルサレム神殿の破壊についての預言は、過越しの祭りの二日前に語られました。
過越しの祭りの前にイエスさまは十字架に付けられるのですから、最後の教えになります。
24章、25章は世の終わりに関する預言と、クリスチャンはどう生きるべきかを教える三つのたとえ話が書いてあります。

エルサレムと神殿はユダヤ人の聖地であり、最も大切な場所です。
ガリラヤの漁師であった弟子たちがエルサレムを訪れるのは、大きなな祭りの時か、特別な時だけであると考えられます。その度に光り輝く神殿の美しさに目を奪われました。
ヘロデ王が46年を掛けて建築した、中東で最も美しい神殿です。
大理石で建てられ、大量の金によって装飾されていました。

弟子たちはずっと眺めていたい心境であったと思われますが、イエスさまは神殿には目もくれません。まるで無いもののように素通りされた。そこで弟子たちが神殿の美しい装飾を指さして、「イエスさま、この美しい神殿は素晴らしいですね!もっと眺めていましょう」と言おうとしたのでしょう。

それに対してイエスさまが弟子たちに答えたのは、神殿は跡形もなく破壊されるとの耳を疑いたくなるような預言でした。

この預言はAD70年に実現します。ローマの将軍ティトスによって神殿は焼かれ、跡形無く滅ぼされてしまいました。ローマ兵は装飾に用いられていた金を奪うため、神殿の基礎部分まで掘り起こして金を奪いました。

イエスさまの預言の通り、神殿に用いられた石は全て崩され、土台までも掘り返されたのです。神殿を支えていた土台の巨石は、ローマ兵が神殿の丘から下に投げ捨てました。
その投げ捨てられた神殿の石は発掘されて、神殿の丘の下で見学出来ます。

イエスさまの弟子たちを含め、当時のユダヤ人たちはエルサレムが滅びること、神殿が破壊されることは信じられませんでした。世の中は滅びても、絶対エルサレムと神殿は滅びないと確信していたのです。

しかし歴史の事実として、エルサレムと神殿の崩壊はイエスさまが預言した通り、一言一句違わずに実現したのです。

私たちはイエスさまが十字架に付けられる直前に語られた世の終わりに関することばに真剣に向き合わなければならないと思います。

イエスさまはエルサレムに入城される前にエルサレムのために泣かれました。
神殿とエルサレムの崩壊は、イエスまの御心ではありません。
それは神の御心を悲しませることでした。
しかし、神はやがてローマ兵が神殿とエルサレムを破壊するのを許されたのです。
なぜ神は悲しみながらも、神殿とエルサレムの破壊を許されたのでしょうか?

エルサレムの神殿は神と人との礼拝の場所としての機能を果たしていませんでした。
イエスさまはキリストとしての働きを始められて直ぐに、神殿を浄められました。
神殿で金儲けをする商人たちを追い出しました。祈りの家として、心からの礼拝が捧げられる場所とされたのです。ところが最後にエルサレムに入城されたときも、神殿は相変わらず金儲けの場所、形式的に儀式を守るだけの場所でした。
イエスさまの弟子たちですら、神殿の豪華さ、その見た目の美しさだけに心を奪われて、天の父を心から礼拝するという本質を見失っていました。
最後の宮浄めを通しても、ユダヤ人の信仰を健全にすることは出来なかったのです。

神はローマ兵がエルサレム神殿を破壊するのを許されました。
それは決して礼拝の場を取り上げ、ユダヤ人を捨てるためではありません。
そうではなく、人の手で造られたのではない、まことの神殿があることに気付かせるため、礼拝の本質に気付かせるためでした。

人の手で造られたのではないまことの神殿とは、主イエス・キリストです!
イエスさまこそ生ける真の神だからです!
また、イエスを神の一人子、救い主キリストと信じる全ての者に、神は住まわれるのです。
聖書は私たちクリスチャンは誰でも聖霊の住まわれる神の宮、神の神殿であると教えています!神はまことの宮と礼拝の本質が明らかにされるために、劣ったものが滅ぼされることを許されたのです。

神は、私たちの人生のあるものが壊されることを許される時があります。
しかし、それは壊れて終わり、破滅を許されたのではありません。
神がエルサレムの神殿が破壊されるのを許されたのは、まことの神殿であるイエスを明らかにするためであり、礼拝の本質を明らかにするためでした。

これは私たちの人生にも適用できる真理だと思います。
神は私たちを成長させ、ご自身に似た者にするために私たちの古いものを壊し、より優れたもの、より完全なものを与えられるのです。

私も牧師として教会に仕えさせて頂いております。
いろいろなヴィジョンを建てて、教会を導こうとしてきました。
振り返ると、そのほとんどは、建てた目的を達成できずに終わりました。
私は敗北者、失敗者でしょうか?人間的に見るならばそうかもしれません。
もし私が以前のヴィジョンにしがみつき、過去を嘆いているならば本当に敗北者です。

しかし私は達成できなかった私のヴィジョンを通して、神の教会に対するヴィジョンをより確かに見ることが出来てきたと思います。
私の人間的なヴィジョンが滅ぼされて、神の教会に対する思いが明らかにされたのです。
私にとって、古いヴィジョンが壊されること、砕かれることは益となったのです!

神がもしあなたの目標を砕かれたなら、それは、あなたを滅ぼし、惨めな思いにするためではありません!あなたを愛しているが父なる神が、あなたにさらに優れた目標を与えるため、あなたを成長させるために許されたことなのです。

失った古い目標、ヴィジョンにしがみつき、過去を嘆くのをやめましょう!
主はあなたに、さらに優れたものを用意されています。

また、壊れた人間関係にも希望があると確信します!
神は希望の神、復活の神です!神が砕かれた古い生き方を手放し、過去を許し、導きを主に求めていくとき、神は驚くべき関係の修復、和解、回復を用意していると確信します。

何が大切な人間関係を破壊に導いたのでしょうか?
相手のせいや、回りのせいにだけしていては、回復や成長は望めないかもしれません。
客観的に見て、相手が100%悪いように見えても、その出来事の中に、何か自分を成長させるヒントが隠されていないでしょうか?

主はあなたに、ただ後悔するための人生を与えようとはされません!
問題を通して、あなたがより成長すること、そしてより豊かな関係へと修復することを願っておられます!

あなたの抱えている問題の真ん中に主を招き入れましょう!
主は十字架に付けられて死にましたが、三日目に罪と死を滅ぼして復活されました!
主の十字架の死は、私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらしたのです。
私たちの問題、過去の残念な出来事、壊れた人間関係、そのすべての中に主を招き入れるとき、主の復活のいのちが注がれ、より優れたものへと変えられて行くでしょう。