「回復の計画」
ルツ記
牧師 小林智彦

【私をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦しみ)と呼んで下さい】

「それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、『まあ。ナオミではありませんか。』と言った。ナオミは彼女たちに言った。『私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。』」ルツ記1章19から21節

ナオミは自分の名前で呼ばれることを、とても辛く思いました。
ナオミはヘブル語で「快い」という意味です。両親が娘の幸せを願って付けた名前です。
日本の名前にするのは無理がありますが、「幸子さん」、「悦子さん」になると思います。
しかしナオミは自分を「マラ」、ヘブル語で「苦しみ」と呼んで下さいと嘆いています。
自分に付けられた祝福の名前が辛く感じるほど、彼女の人生には不幸がありました。

ナオミは全能者、すなわち神が彼女をひどい苦しみに遭わせたと言っています。
彼女の人生に訪れた不幸とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

十数年前、ナオミと夫エリメレクはベツレヘムに住んでいました。しかし飢饉がこの地を襲ったのです。ナオミとエリメレクは二人の息子を連れてモアブの地に移住します。
しかしそこで待っていたものは夫の死と、二人の息子の死でした。

ナオミはベツレヘムに留まるよりも、モアブの地により多くの幸いがあると思いました。神が先祖たちに約束した、約束の地に留まるよりも、異民族であるモアブの地に心地よい生活が待っていると思ったのです。ところが、そこに待っていたのは苦しみでした。

ナオミとエリメレクの不幸は、何を私たちに教えようとしているのでしょうか?

この物語は先ずユダヤ人に向けて書かれ、神の言葉として聖書の中に残されました。
ユダヤ人にとっては、約束の地から離れた場所に、本当の幸いは無いと言うことを教訓として教えているのだと思います。

飢饉が訪れても、ベツレヘムのユダヤ人は自分の地に留まり続けました。
苦しくても、先祖の地、約束の地を守り通したのです。
飢饉を理由に約束の地を離れ、もっと豊かな暮らし、もっと快適な暮らしを追い求めたエリメレクとナオミの家庭には死と苦しみが待っていたのです。

それでは、この物語は私たちクリスチャンに何を教えているのでしょうか?
私たちクリスチャンにも、守り続けるべきものがあります。
それは神の言葉であり、神の約束のことばに基づく生活の優先順位だと思います。

イエスさまは、私たちを地の塩、世の光であると言われました。
決して塩気を失ってはならない!光を隠したり、輝きを失ってはならないと言われました。
私たちが塩気を保ち、輝き続けるために必要なのは、神を礼拝する生き方です。

神を礼拝する生き方とは、私たちを愛して、一人子イエスを与えて下さった天の父の愛を覚えることです。毎日、私たちは父の愛を覚え、父なる神に賛美と感謝を捧げましょう。
そして、神の愛を分かちあうことです。神を愛し、隣人を愛する生活、これが礼拝です。

約束の地を離れたユダヤ人は、地上を彷徨う放浪者です。
ユダヤ人にとって、約束の地を離れては本当の幸せはありません。
私たちクリスチャンも、神を日々礼拝する生き方から離れて、本当の幸せはありません。
神を第一にする!たとえ困難があっても、この優先順位を守り続けましょう。

体調が悪い、お仕事の都合、家庭の事情などで、日曜日の礼拝が守れない方もいらっしゃると思います。日曜の礼拝が定期的に守れないからと言って、決して自分を責めたり、負い目を感じないで下さい。礼拝は日曜日だけではありません!また教会堂で持たれる礼拝だけが、礼拝ではありません。大切なのは心の態度です!神は私たちの心からの礼拝を求めておられます。

【回復を用意しておられる主】

「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」ルツ1:6

ナオミは夫と息子たちを失い、失意のどん底にある時、ベツレヘムに帰る決意をします。
ナオミの人生の回復は、まさにベツレヘムに帰ろうと決意した時から始まりました!

この時点では、ナオミには天の父なる神が計画されていることが隠されていました。
しかし、神はナオミの人生を祝福で満たす計画を始められたのです。

約束の地に帰ること、これがナオミにとっての悔い改めでした。
新約聖書では悔い改めが熱心に勧められています。
悔い改めとは、罪や過ちを後悔するだけの意味ではありません。
悔い改めとは、神との正しい関係、神のもとに帰ることなのです!

自分がいる場所は苦しみと呪いの地であることを認め、本来、自分がおるべき場所に戻ることが悔い改めなのです。そのことから主が祝福されない行い、心の態度から離れて、主が喜ばれる行い、また心の態度に変えることが悔い改めなのです。

神はナオミの悔い改めをご覧になっていました。ベツレヘムに帰り、神との正しい関係をやり直そうと決意したナオミの心を、天の父なる神はしっかりとご覧になり、回復の驚くべき計画を始められたのです!

神は私たちが悔い改めたことも、しっかりと見ておられます!
そして、お一人お一人に回復の計画を始めておられるのです。
今は、それがまだ見えないかもしれません。
ナオミも「全能者が私を辛い目に会わせられました」と不平を言っているように、失ったものの方が大きく見え、神の回復の計画など、まったく見えない時があります。
しかし、神はご自身を求める全ての者に、救いと回復の計画を用意され、既にその計画を始めておられるのです。


【神は助け手を備えられる】

神はナオミの人生を苦しみから喜びに回復するために、素晴らしい助けを備えておられました。それは長男の嫁のルツです。

ナオミの二人の息子はモアブの地でモアブ人の娘と結婚しました。長男の嫁がルツでした。
息子たちが死んだので、ナオミは娘の嫁たちにモアブの地に留まって再婚することを勧ます。ナオミの勧めに従って、弟嫁のオルパはナオミから離れていきました。
当時の状況を考えれば、当然だったと思います。ナオミには嫁たちを養う力はありませんでした。嫁たちがナオミを養わなければならない。ベツレヘムに行くなら、外国人であるため差別を受けるかもしれない。オルパが泣く泣くナオミと別れたのは当然でした。

しかし、ルツは違いました!

ベツレヘムに向かって進むナオミに、死ぬまで付いて行きますと堅く決心しました。
そして「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です(1章16節)」と堅く信仰を告白しました。

たった1人でも、ベツレヘムに帰る!神の約束の地に、先祖に与えられた地に帰る!
ナオミの真剣な悔い改めが、ルツの心に愛と信仰を目覚めさせたのです!

私たちが真剣に悔い改める時、神との関係をやり直そうと歩み始める時、私たちの周りにも影響を与えます。そして神は私たちの周りの人々を、良き理解者、また協力者に変えて下さるのです。

大切なのは、ベツレヘムを目指して歩むことです!
協力者、理解者が与えられるまで待つのではなく、ベツレヘムに向かって先ず一歩、踏み出すことなのです。私たちにとっては、悔い改めです。神が祝福できない場所から離れ、神の喜ばれる心の態度、生き方へと方向転換することです!

自分の力では悪習慣を止められない、罪深い関係を断ち切れない、さまざまな難しさはあるでしょう。しかし、私たちが心で決心し、自分に出来る小さくても一歩を踏み出すなら、神は必ず助け手を送って下さるのです。

【ナオミに男の子が生まれた】

ベツレヘムでナオミとルツを待っていたのは、主からの驚くべき回復の恵でした!
彼女たちがベツレヘムに帰ったのは、ちょうど大麦の刈り入れの時でした。
働き者の嫁ルツは、さっそく落ち穂を拾いに畑に出掛けに行きます。

聖書には、刈り入れの時に落ちた穂をそのままにして、貧しい人や外国人のために残しておくように書いてあります。(レビ記19章9.10節)
三千年も前に、神さまが定めた社会保障の制度でした。
自分の畑を失ったナオミや外国人のルツも、落ち穂を拾い集めて食べて行けたのです。

年老いた姑をかばってベツレヘムにやって来た孝行者の嫁であるルツの評判は、すでにベツレヘムの村に知れ渡っていました。ルツの働きぶりに村の人々は感心します。
そして、そこに主の回復の恵、憐れみの御手が伸ばされます。

「ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。」ルツ記2章3節

ルツは計画してボアズの畑に行ったのではありませんでした。偶然だったのでしょうか?
偶然ではありません!主がルツとボアズとの出会いを計画されていたのです。

ボアズはルツに好意を持ちました。ボアズはナオミの親せきです。ナオミに対する献身的な愛について、既に聞かされていたからです。そしてルツの熱心な働きぶりを見たボアズはさらにルツに対して好意を深めたのです。

ボアズは買い戻しの権利のある親類の一人でした。
買い戻しの権利とは、イスラエルでは貧しさの故に土地を手放しても、再びその土地を買い戻せる制度です。そして買い戻すのは本人に限らず、近親の者が財産のない親せきに代わって、買い戻すことも出来たのです。

「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」レビ記25章25節

そして回復の計画が一気に進みます。ルツがナオミの勧めでボアズにプロポーズします!
ボアズはルツの申し出を受け入れ、ナオミの畑を買い戻すことを約束します。
しかし、ボアズとルツの結婚は普通の結婚ではなく、買い戻しのための結婚でした。

「そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。『あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。』」ルツ記4章9.10節

イスラエルでは、結婚して子どもが生まれる前に夫が死んだ場合、残された妻は夫の兄弟と再婚することが求められました。

「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」申命記25章5.6節

ボアズにとってナオミの畑を買い戻すことには、本来は大きな負担でした。
大金を払って畑を買い戻しても、それはボアズの物にはならず、ルツとの間に生まれた子供もボアズの子どもにならないで、死んだマフロンの名が付けられるからです。

ルツ記にはボアズよりもさらにナオミに近い、買い戻しの権利のある親せきが登場します。しかし彼は畑の買い戻しには関心がありましたが、それに伴ってルツをめとり、息子をもうける義務、また養育する義務が伴うことを知って、買い戻しの権利を放棄しました。
人間的に考えるなら、大きな義務と責任が伴うだけで、利益にはならないからです。

しかし、ボアズはナオミの畑を買い戻し、ルツをめとりました。これは愛の奇跡です!
またナオミを回復させるために、主の恵の計画でした!

「女たちはナオミに言った。『イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。
その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。』ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。近所の女たちは、『ナオミに男の子が生まれた。』と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。』」ルツ記4章14節から17節

繁栄を求めてベツレヘムを捨て、モアブに移住したナオミは持っていた物を全て失い、夫と二人の息子を失いました。私をナオミと呼ばないで、マラ(苦しみと)と呼んで欲しいと、身に起こった不幸を嘆きました。しかし神は回復の計画をナオミに持っていたのです。
その計画はナオミがベツレヘムに向かって進んだ時、悔い改めて、先祖の地に向かった時に開始されました。ナオミは失った全てのものを上回るものが与えられました!
イスラエルを統一する王の家系に組み入れられたのです。

主は選びの民を回復される方です!神はあなたにも回復の計画を始めておられます!

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8章28節

主にある者は誰でも、心からアーメンと言いましょう!

神は私たちにボアズよりもさらい優れた回復者を与えられました。
イエス・キリストは私たちが罪のために失った全てのものを、ご自身の血をもって買い戻して下さいました。私たちはイエスによって、神の子供です!私たちはイエスによって、永遠の命が与えられました。主イエスはあなたの全ての良いものを回復して下さいます。