「傷ついた心の悲劇:勇士エフタの生涯」
士師記10章&11章
牧師 小林智彦

士師記の時代、イスラエルは周辺に住む異民族からの侵略を受けました。
エフタが活躍した時代は、アモン人がイスラエルを圧迫していました。
18年もの間、イスラエルはアモン人の侵略に悩まされ、圧迫されていたのです。

イスラエルはアモン人に苦しめられた時、主に叫び声をあげました!
自分を救い、問題から解放して下さる主なる神に助けを求めたのです。

イスラエル人の信仰は都合の良い、自分勝手な信仰でした。
イスラエルは問題が無い時、上手く行っている時は主を捨ててしまう。主を忘れてしまう。
しかし困った時、苦しい時だけ、主に助けを叫ぶのです。

しかし、主はこんな自分勝手なイスラエルを捨ててしまうことはありませんでした。
イスラエルが助けを求めて叫ぶ時、その叫びに耳を塞ぐことをせず、必ず聞いて下さいました。その都度、助け手を用意し、遣わして下さるのです。
神はアモン人からイスラエルを救い出すために、エフタを遣わされました。

皆さん、神の愛は私たちの弱さ、不信仰、悪習慣によって変わることはありません。
神の愛は私たちの行いによって左右されることが無いのです。
天の父なる神は、救いを求めて叫ぶ者の声を無視されることはありません!
必ず助け手を送り、問題を解決する力と知恵をあなたに与えて下さいます。
天の父の変わらぬ愛を信じて、いつも主を求め、主に祈りましょう。

さてエフタはアモン人との戦争に勝利します。アモン人を屈服させました。
エフタはイスラエルに勝利をもたらしましたが、その勝利は悲しみで終わりました。


【神と取引してはならない!】

「エフタは主に誓願を立てて言った。『もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。』こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。『ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。』」士師記11章30節から35節

エフタは長年イスラエルを苦しめてきたアモン人に勝利します。
しかし、彼が主に誓った誓いが、彼を悲しみの底に突き落としてしまいます。
「アモン人に勝利したら、神さま、初めに自分を迎えに出る者を、全焼の生け贄として捧げます!」と誓ってしまったのです。主への誓いを彼は破ることは出来ませんでした。

エフタの誓いは決して神を喜ばせるものではなく、かえって悲しませるものでした。
なぜならエフタの誓いは信仰から出たものではなく、不信仰から出たものだからです。

旧約聖書には神に捧げる生け贄について詳しく記されています。
しかし人間を生け贄として捧げることを神は禁じています!
旧約聖書で神は約束の地からカナン人を追い出し、彼らの宗教の根絶を命じています。
とても厳しく、私たち日本人には理解できない部分もあります。

しかし主がカナン人の宗教を憎まれた理由の一つは、彼らが幼児を生け贄として捧げていたことでした。メギドからカナン人の祭壇が発掘されましたが、その回りからは夥しい幼児の人骨が見つかりました。神は人間を生け贄とすることを厳しく戒めておられます。

エフタの誓いは決して神を喜ばせるものではなく、悲しませるものだったのです。
エフタの誓いはエフタ自身を悲しませ、彼の家族を壊し、また神を悲しませるものでした。

エフタの間違った誓いから、私たちはどんな教訓を学ぶことが出来るでしょうか。

①神と取引をしてはならない!

エフタの誓いは、神と取引することでした。
「神さま、もし私の祈りに答えて下さったら、私は必ず○○します!」。
このような祈りは多くの宗教の中で見られる祈りです。信心深い祈りだと思われます。

しかし、これは神さまと取引することです。
自分が何かを捧げることを通して、神さまを自分の願いに合わせ、動かすことになります。
神さまは決して私たちの捧げ物や、私たちの願いで動かされる方ではありません。

エフタがアモン人に勝利したのは、エフタが自分の娘を生け贄として捧げたからではありません。エフタを用いてイスラエルに勝利を与えることは、初めから神の計画でした。

イエスさまは神を試みてはならない!と教えられました。
神を試みる罪とは、自分の考えを、神よりも優れたものとして、神に押しつけることです。
神が喜ばれないことを、神にさせようとする罪です。

神は私たちにいつも最善を計画されています。
しかし私たちは、自分が最善と思うことが最善であると思い込んでいるのです。
神の計画よりも、自分の計画を優先させることを願います。
まして捧げ物を用いて、神に自分の計画を行わせようとすることは神を悲しませるのです。

エフタは自分が願う以上のものを、神がすでに用意されいることが分からなかったのです。

「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」第一コリント2章9節

神はエフタが願う以上の大勝利を、エフタを通してイスラエルに与えようと、既に計画されていました。それは一方的な神からの贈り物であって、エフタには何も求めなかったのです。ただ神の愛を信じて、信仰に歩むことだけを求めていたのです。

しかしエフタは神の愛の大きさが理解できませんでした。カナン人のような小さな信仰、人間と取引をするような小さな神のようにしか、天の父を理解していなかったのです。
私たちは、私たちの思うところはるかに超えて、私たちに最善を用意しておられる天の父なる神を信じましょう!


私たちを救うために、ご自身の御子イエス・キリストを与えるほど、天の父の愛は大きいのです。天の父は、私たちが願う前から、私たちに必要なものをご存じで、それを備えて下さっています。私たちは自分の小さな願いを優先させるのではなく、天のお父さんの大きな愛を知って、神の御心がなるようにと祈りましょう。

4:6 何事も心配してはなりません。 むしろ、どんなことでも祈りなさい。 神様にお願いしなさい。 そして、祈りに答えてくださる神様に感謝するのを、忘れてはなりません。
4:7 そうすれば、人間の理解をはるかに超えた、すばらしい神様の平安を経験できます。 キリスト・イエスに頼る時、その平安は、あなたがたの心と思いとを静め、安らかにしてくれるのです。ピリピ4章6.7節

天のお父さんは、祈り、願ったものよりも、もっと素晴らしいものを備えて下さっている!この確信は私たちに平安をもたらします。神と取引するような祈りは、決して心に平安を与えません。私たちはイエスにあって神の子です!親と取引する子どもはいません。
イエスさまにあって、天のお父さんを信頼しましょう。

【傷ついた心の誓いは悲劇をもたらす】

エフタが悲劇をもたらす誓いをしたのは、彼の育った背景にも原因があると思います。

「さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。『あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。』そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。すると、エフタのところに、ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いた。」士師記11章1節から3節

エフタは遊女の子であったとあります。正式に父の子どもとは認められなかったのです。弟たちが大きくなった時、エフタは家から、また育った町からも追い出されます。
エフタは家族から捨てられるという、辛い拒絶を受けたのです。
親や兄弟から捨てられる、それは最も辛いことです。心に大きな傷を残します。

エフタがイスラエルの軍を率いてアモン人と戦ったのは、純粋にイスラエルを救うためと言うよりも、このことを通して、自分を捨てた兄弟たちを見返してやりたいという思いが強かったのではないか?と思います。

エフタは劣等感から、兄弟を見返すために、また自分の存在価値を取り戻すために戦ったのではないか?と私には思えるのです。

私たちにとって最も必要なのは、私たちの存在感です。
「あなたはとても大切な存在です!」これが私たちを支える土台です。
子どもの頃から、「お前は大切な私の息子、娘だよ!」このように親に認められて育てられた子どもは揺るがない心の土台があります。

しかし、兄弟と比較されて育てられたり、何かの理由で子どもの存在に対して確かな価値を伝えられない時、子どもの心は自分の存在に対して不安を覚えるのです。

自分は、この家にいて良いのだろうか?自分は必要とされているのだろうか?

私は時々、自分の親を試していたんだなと思い出したことがあります。
それは友達と遊び回って、夕方遅くに家に帰ったことでした。
母が心配して、とてもきつく私を叱りました。しかし、それがなぜか嬉しかったのです。
自分は必要とされているんだ、自分を心から心配している親がいる、と言うことを改めて気付かされたからだと思います。存在を認められ、必要とされる時、私たちは安心します。

もし、夜中に帰ってきても何も言われなかったら。朝起きても、誰も気付いてくれないような家に育ったら、私は自分の存在に不安を覚えたと思います。
そして、強烈に自分の存在を認めてくれる存在を求めたと思うのです。

自分の価値に疑いを持ち、自分の存在に不安を覚えていたエフタにとっては、戦争に勝つことで失われた価値を取り戻せると思ったのではないでしょうか。
エフタは持てるもの、全てを犠牲にしても、失われた自分の存在を取り戻したいと戦争に臨みました。自分のいのちを捧げても、認められたいと思ったのでしょう。

その望み通り、彼は戦争に勝ち、聖書に名前の残る勇士になりましたが、実は最も大切な家族を失ってしまったのです。

私たちはエフタの悲劇から何を学べるでしょうか。
私たちの存在は、決して行いで満たされることは無いことです。
戦争で勝利しても、名誉を勝ちとっても、莫大な財産を得ても、私たちの存在感が満たされることは決してないのです。

自分の存在の不安、傷ついた心は、決して行いや持ち物によっては満たされることはありません。

私たちの存在感、心の土台は関係によってのみ、満たされるのです!
「お前はうちの子だ!お前は私の自慢の子どもだ!」と親に愛され、認められて、私たちの存在感は満たされていくのです。これに代わるものはこの世には存在しません。

それならエフタのように、親兄弟からも捨てられ、拒絶した人はどうすれば良いのでしょうか?不安を抱えたまま、自分の過去を恨む以外に無いのでしょうか?

私たちにはもうお一人、親がいることを覚えなければなりません!
それは両親よりも完全な親です。天におられる父なる神、この方は親の親、完全な親です!

天地とそれに満ちる全てのものを創造された神、万物の父である神が私たちに一人ひとりに語っておられます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4」と。

エフタは確かに遊女の子、そして兄弟たちに捨てられた。しかし天の父はエフタを愛し、わたしの目には、エフタ、あなたは高価で尊い!わたしはエフタ、あなたを愛している!」と言われるのです。

この言葉は、エフタだけではありません!天のお父さんは、あなたにも語っておられます!

「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子を信じる者(あなた)が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16」

エフタが天のお父さんの愛を知っていたなら、天の父の愛によって、揺るがない存在感を得ていたならば、決して無謀な誓いをせずに済んだのではないか、家庭を失わずに済んだのではないかと思うのです。

満たされない存在感は、強烈な渇きとなって私たちの心を襲います。
私たちは、それが危険なこと、また罪であっても、この心の渇きを満たせるなら手にしてしまうのです。

私たちは神が備えて下さった最善のものによって、心を満たしましょう!
私たちに与えられた救い主イエス・キリストです。イエスさまこそ、天の父の完全な愛の現れです。イエスは私たちを愛し、私たちの罪を身代わりに背負われました。
十字架こそ、神と私たちを結び合わす原点です!キリストの十字架こそ、死で終わるのではなく、永遠のいのちの始まりなのです!

あなたは神に愛されています!イエス・キリストこそ、あなたの存在価値を表しています。
天の父にはあなたはイエスさまのように高価で尊いのです!
この揺るがない愛と真理の上に、あなたの人生を堅く建て上げて下さい。