「わたしの心だ。きよくなれ」
マタイ福音書8章1節から4節
牧師 小林智彦

今週の聖書通読箇所はマタイ7章から12章までになります。
7章は山上の説教の後半部になります。8章と9章にはイエスさまの驚くべき奇跡と病の癒しが記されています。これはイエスさまが神によって遣わされた救い主であることの証明でもあります。10章は弟子たちの派遣、11章、12章はパリサイ人、律法学者らの否定的、不信仰な反応が書かれています。
今週も聖書通読を通して、神の愛に触れられ、み言葉で心が満たされますように祈ります。

今日はマタイ8章の癒しの記事から、神の愛と信仰について分かちあいたいと思います。

【らい病人の癒し】

「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」マタイ福音書7章28.29節

イエスさまはガリラヤ湖半の山で弟子たちと群衆に権威をもって教えられました。
群衆が驚いたように、その教えは学者の意見などではなく、イエスが神から遣わされた救い主であることを証しする権威ある教えでした。
8章に記されている癒しも、イエスは神が遣わした救い主であることを証し、神がどれほど私たちを愛しているか、神の愛と恵の具体的な表現になっています。

「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。イエスは彼に言われた。『気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。』」
マタイ福音書8章1節から4節

イエスさまがらい病人に手を伸ばして、触れたのを見た弟子たち、群衆たちはとても驚いたと思います。そして何よりも、らい病を患っている本人が一番驚いたと思います。
なぜなら当時は、らい病は罪から来る罰であり、汚れであると考えられ、触れる者もまた汚れると考えられていたからです。

聖書のらい病と私たちが知っているらい病、ハンセン氏病とは同じではありません。
ハンセン氏病は決して、汚れた病や、神からの罰や呪いではありません!
しかし、聖書のらい病、また昔の日本においても悲しいことに、らい病はひどい差別を受ける病でした。

旧約聖書のレビ記13.14章はらい病について記されています。

「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」レビ記13章45.46節

当時のイスラエルでは、らい病を発病したならば、家族からも引き離され、村里を離れた場所で暮らさなければなりませんでした。らい病人に触れた者も汚れているとされるので、人々はらい病人に近寄ることさえも毛嫌いし、恐れました。

家族ですら、らい病人には触れることが出来ないのです。
このらい病人もイエスさまに触れてもらうことなど考えていませんでした。
だから「お心一つで、私をきよめることがおできになります。」と言っているのです。

ところがイエスさまは!イエスさまは触れなくても、らい病を癒すことが出来たでしょう、しかし、手を伸ばして、彼に触られたのです。(3節)
そして言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」

らい病人にしてみれば、何年も人から触れられることがなかったと思います。
らい病という難病に苦しむだけでなく、差別や偏見にも苦しめられ、最も必要な人々の愛と理解、励ましや慰めが与えられなかった。どんなにこの男性は触れられること、愛されることを必要としていたことでしょう。

イエスさまは、この男性が最も必要としていたものを与えました。
触れることを通して、愛をこの男性に伝えたのです!それがイエスさまの心でした。

【わたしの心だ。きよくなれ。】

イエスさまの心とはどんなに愛に富み、大きな心でしょうか!

@わたしの心=無条件の愛

イエスさまの心は、無条件の愛で満ちあふれていました。
神の愛は人々の差別、偏見を乗り越えます。
性別による差別、国の違い、人種による差別、能力による差別、人間は色々な差別を作りますが、イエスさまは人を決して差別されません!

天の父なる神の前に、イエスさまの前に、人間は等しく愛されるべき存在なのです!

イエスさまの前には、自分に従う弟子たちも、このらい病を患う男性も、等しく愛される者なのです!

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

あなたは自分は愛されていない、自分は神に愛されるに値しないと感じているかもしれません。しかしイエスはあなたに手を伸ばし、あなたに触れてくださいます。
神とあなたの距離がどんなに大きく思えても、神の愛はそれを乗り越えるのです!

神の愛に心を開くならば、誰でもイエスの大きな愛を受けるのです!
「あなたは神に愛されています!」 あなたのお隣の人に言ってください!

Aきよくなれ=癒しと解放を主は願っておられる。

多くの人は、「神は私が聖書を読み、真面目に教会に来ている時だけ愛してくれるだろう」と考えています。「罪を犯してしまう自分、悪習慣から抜け出せない自分、自分中心で愛に生きられない自分を神は決して愛してくれない」と、多くの人は考えます。
しかし、そうではありません。神の愛は無条件です。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」
ローマ5章8から10節

神は私たちが神に逆らい、神の敵であった時に、私たちを愛し、私たちにご自身の一人子であるイエス・キリストを与えたのです!ましてや神に心を開き、神を信じて神の子になっている今は、どれほど私たちを愛しているでしょうか!

私たちは自分の弱さ、自分の過ち、自分の不完全さで神の愛を割り引いてはなりません。
私たちに対する神の愛を信じましょう。
神はあなたを、決して変わることのない愛で愛して下さっています!

ただ、神は私たちが罪に敗北し、罪に耽ることを喜んではおられません。
なぜなら罪は私たちに苦しみを与え、私たちと回りの人々を不幸にするからです。
だから私たちは、私たちを愛しておられる神に、自分の弱さ、自分の問題を明け渡しましょう!神は喜んで、私たちを助けてくださいます。

神の力は、私たちの弱さの中に現されるのです!
神はあなたの弱さを責められません!その弱さの中に、ご自身の力を注ぎたいのです。

らい病人はイエスの前に自分の問題を持ってやって来ました。
イエスはこの男性を心から愛し、人々から差別され、嫌われていた問題に手を伸ばし、触れてくださり、癒しの力を注がれたのです。

私たちも、自分の病を、自分の問題を、自分の弱さをイエスの前に差し出しましょう!
主は必ず癒し、助け、力を与えてくださいます!

B神を礼拝する人生

「イエスは彼に言われた。『気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。』」マタイによる福音書8章4節

イエスさまはらい病人を癒した後、不思議なことを言われました。
「気をつけて、誰にも話さないようにしなさい」と。なぜイエスはこのような注意をされたのでしょうか?

私はイエスさまが、私たちが陥りやすい弱さを注意しておられるのだと思います。
私たちは、驚くような奇跡や、癒しを体験したり、また目撃すると、神よりも奇跡や癒しに注目してしまい、体験を崇めるようになりやすいのです。

癒しや奇跡の体験は本当に素晴らしいものです!ただ私たちは、癒しを、奇跡を与えて下さった天の父なる神を崇めることを忘れてしまったら、残念です。

今日でも癒しはあります。奇跡もあります。また異言や預言、黙示や啓示と言った超自然的な聖霊様による業もあります。私たちの教会もこれらの働きが起こることを期待しましょう。しかし私たちは奇跡や超自然的な出来事を崇めないで、それらを私たちに与えて下さる神を崇めなければなりません。

らい病人はイエスさまに触れられて、病が癒されました。しかし、本当の意味では癒されていなかったのです。この人が自分に起きた癒しの奇跡を通して、神を礼拝する礼拝者に変えられた時、この人は癒されたのです!

癒しの奇跡を受けても、人は必ず死ぬのです。必ず何らかの病気になり、事故に遭い、何時かは死にます。肉体は永遠には生きられないのです。
しかし、肉体の癒しを通して、神と出会い、神を礼拝する礼拝者になるならば、たとえ肉体は滅びたとしても、霊と魂は主にあって永遠に生き、主の再臨の時には栄光の体を受けるのです。この栄光の体を受け取る時、完全な癒しが実現するのです。

この滅び行く肉体が癒しの奇跡を受けることも大切ですが、最も大切なのはイエスの救いを受けて神と和解すること!神を礼拝する礼拝者に変えられることです。そうすれば主イエスの再臨の日に、完全な癒し、栄光の体を受けるのです。

らい病の癒し、病気の癒し、奇跡、どれも素晴らしいです!主が為さることは素晴らしいのです。そして、私たちがイエスに出会い、キリストの十字架によって罪赦され、神の子とされたこと、これが最高の奇跡であります。

イエスを信じるものは、誰でも、この驚くべき救いの奇跡の体験者なのです!
私たちも主の救いの業を通して、主イエスを崇め、天の父、聖霊なる神を礼拝しましょう。

【らい病人の信仰】

最後にらい病人の信仰から、私たちは信仰を学びましょう。
「すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。」マタイ8章2節

当時のらい病人が群衆の中にやって来ることは、大変に勇気を必要とすることでした。
石を投げつけられ、罵声を浴びせ掛けられる心配があったからです。イエスをキリストだと信じ、らい病をきよめることが出来る救い主と信じて、人々の中にやってきたこの男性の信仰。イエスはしっかりとこの男性の信仰を認めていました。

今日礼拝に来られた一人ひとり、また礼拝には参加できなくても、テープやメールでメッセージをご覧になっておられる一人ひとりの信仰を主は認めて下さっています。
私たちが置かれている状況を主はご存じです。そして、主に期待していること、主を求めていることを主は何よりも喜んで下さっています。

ヤコブは言いました。
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」
私たちが主を求めて一歩踏み出せば、主は二歩、あなたに近づいて下さいます!
神は私たちが神を求める以上に、私たちのことを愛し、求めて下さるのです。
私たちの心に、神を求める心があるなら、それは神が私たちを愛し、私たちを赦して下さっている聖霊によるしるしであることを覚えましょう。

そして更に一歩、もう一歩と神の恵みに満たされて、今週も信仰の歩みを続けましょう。