「キリストの血」
ヘブル人への手紙9章11節から15節
牧師 小林智彦

今週も引き続きヘブル人への手紙を分かちあいますが、特に「キリストの血」に焦点を当てます。キリストがなぜ十字架に付けられ、貴い血潮を流さなければならなかったのか、その意味と恵を分かちあいたいと思います。

@キリストはご自身の血により、永遠の贖いを成し遂げられた

「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」ヘブル人への手紙9章7節

これはレビ記16章の贖罪の日(ユダヤ暦で7月10日)についての記述です。
今日でもユダヤ人の間で守られ、イスラエルでは重要な日とされています。
神の前に罪が赦され、また罪から清めていただくための大切な日です。

神殿が存在していた時は大祭司が動物の犠牲の血を携えて、一年に一度だけ至聖所に入ることが許された日です。大祭司でさえも至聖所にはいることが許されていたのは、この贖罪日だけでした。至聖所(第二の幕屋)は、最も神聖な場所と考えられていました。
そこは神がおられる場所であり、大祭司であっても罪を贖う血を携えていないなら、神の聖さに触れて即死してしまうのでした。

しかし、なぜ犠牲の血は大祭司とイスラエルの民の罪を贖うことが出来たのでしょうか?
罪を贖うとは、罪に対する代価を支払う、罰金を支払うと言うことです。

「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
ヘブル人への手紙9章22節

なぜ血を注ぎ出すことによって罪が赦されるのか?
なぜなのか?それに対する私たち現代人の理性を満足させる説明は、聖書にはありません。
ただ神がそのように定められたことは確かです。
罪を赦し、清めることができる唯一の権威者は神です。
その神が、罪は血によって赦され、清められると定められたのです。
これは交通ルールを破れば反則金を警察に支払わなければならないのと同じなのです。

この神の定めたルールは絶対です。なぜなら神ご自身もこのルールに従われました!

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
ヘブル人への手紙9章11.12節

ユダヤ人の罪を贖うためには、一年に一度の山羊と牛の血が必要でしたが、全人類の罪を、それも永遠に贖うためには、さらに優れた犠牲の血が求められたのです。
罪ある人間の血は最初から問題外でした。
だから神は人間の血を求められたことはありません。
神が求められたのは罪がないものの血です。それも動物でなく、人間よりも優れた物です。
その要求を満足させるのは、神ご自身しかおられないのです。
神は自ら人となり、その血をもって、私たち全ての罪をただ一度で完全に贖って下さった、罪の代価を完全に支払って下さったのです。

「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです(12節)」

キリストがなぜ十字架に付けられ、血を流さなければならなかったのか?
それは神ご自身が定められた完全な罪の赦しを、私たちに与えるためでした!

私たちの良い行いも、動物の犠牲の血も、罪の贖いには不完全でした。
キリストの血だけが完全に私たちを神の御前に罪無しと認めさせるのです。
私たちは天の父なる神の目から、キリストの血によって罪無しと認められているのです!
神が罪無しとされたら、だれも私たちの罪を責めることは出来ません!

キリストの血によって、私たちは大胆に父なる神の御前に出ることが出来るのです!
私たちにはキリストの血が塗られています!天の父は一人子イエスを愛し受け入れておられるように、キリストの血が塗られている私たちも受け入れて下さるのです!
これがキリストの血によって、私たちに与えられた驚くべき恵です。

私たちの罪がどんなに大きくても、その罪の代価はすでに支払われました!
私たちの罪は完全に赦され、私たちを責めることの出来る者は誰もいません。
なぜならキリストの血によって、永遠の贖いが成し遂げられたからです。
この恵に私たちは留まり続けましょう。

Aキリストの血は私たちの良心をきよめる

「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
ヘブル人への手紙9章13.14節

キリストの血の恵、このヘブル人の9章、10章から分かち合える恵のふたつ目は、キリストの血は私たちの良心をきよめることです。

ここで注意しなければならないのは、キリストの血がきよめる前の良心は汚れていることです。私たちの良心が汚れているから、キリストの血がきよめて下さるのです。
しかし、私たち日本人には良心とは(良い心と書いてある)もともと良いものだとする前提があります。しかし聖書には「邪悪な良心(ヘブ10:22)」や「弱い良心(1コリ8:7)」と言う言葉が使われています。

この聖書によらない前提のために、「良心がきよめられる」恵に対して、目が開かれていないのではないかと思います。良心がきよめられることはとても大切です。

「邪悪な良心」「弱い良心」とは一体なんでしょうか?その問題とはなんでしょうか?

「邪悪な良心」「弱い良心」ともに、罪によって本来の機能を果たさなくなった良心と考えられます。ここからは聖書・神学的な理解から離れて、私の経験に基づく理解になりますが、「邪悪・弱い良心」は罪に対しては無力になっていると考えられます。

私がクリスチャンになる前は、ほとんどの場合、罪深い行いをしてから気付きます。
罪を犯してから気付いては、手遅れですね。
そして、良心が働くのですが、その良心の働きは「ばれたらどうしよう!」でした。
つまり、罪がもたらす「責めと恥」しか意識させなかったのです。
そして良心は過去の罪を思い出させては、「おまえはダメだ!赦されていない!」と自分を責め、惨めにさせる働きしかしませんでした。

何度も私は、罪を犯す前に良心が働いて、罪を犯さない力を与えてくれれば良いと思いました。罪や失敗を犯してから、自分を責めるだけのために働く良心にうんざりでした。

私はこれが「邪悪・弱い良心」だと思います。罪に対しては無力で、過失を責め立てるだけの働きしかしないのです。「責めと恥」だけを意識させる良心。

私たちは「良心」をきよめていただく必要があるのです!
きよめられた良心は本来の良心の働きを取り戻します。
本来の良心の働きとは、罪を犯した自分を憎むのではなく、罪を憎む働きです。
何が罪であり、神が喜ばれないことなのかを悟らせる働きであり、罪を犯すことに対して抵抗力を与える働きです。罪を犯させないように、私たちの意志と戦ってくれるのです。

そして弱さのために罪を犯しても、きよい良心は責めと恥をもたらすのではなく、赦して下さる神のもとに出ることを励ましてくれるのです。
また罪を犯した相手にも、その相手の痛みを悟らせて下さり、心から謝罪と和解への道を示すのがきよい良心の働きなのです。

私たちの良心がまだ過去の罪をもって自分を責め続けているとしたら、その良心は本来の機能を回復していないと思われます。

確かにキリストに出会う前は、この良心が自分を責め、その責めの苦しみが真の神の赦しを求めさせるために働くのですが、キリストの恵と赦しの中に置かれてからも、なお良心が過去の罪をもって自分を責め続けるなら、良心がきよめられるように熱心に求めましょう。「邪悪・弱い良心」がキリストの血によって覆われ、癒されるように!
罪を責め続ける思いがキリストの血に触れて、満足するように。

(祈りの時)良心がきよめられるようにいま祈り求めましょう!
その本来の機能が回復するように、恥と責めをキリストの血によって放棄するように。
愛と和解に生きる力、罪を憎む力を取り戻すように祈りましょう。
キリストの流された血があなたの良心を癒します!キリストの血がきよめます。
聖霊がキリストの血をあなたの心に注いで下さいます。
聖霊の働きに心を開きましょう。

B永遠の資産を受ける保証

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。」
ヘブル人への手紙9章15.16節

聖書は英語でNew Testament .Old Testamentと呼ばれています。このTestamentは契約のことですが、特に遺産に関する遺言を指す言葉です。

Old Testament、旧約聖書は主にイスラエルに対しての約束です。それは地上の約束と言って良いでしょう。ヘブル人への手紙にも書かれているように、この初めの契約も血によって結ばれました。遺言には遺言者の死亡証明が必要だと言われているように、血はまさしく遺言者の死亡証明になるのです。

神はこの契約を確かにイスラエルの上に実現されました。エジプトの奴隷の民がカナンの地に国を得たのです。神の約束に基づいてイスラエルは今日でも存続しています。

最近特に創世記の学びを通して気付かされましたが、神はイシュマエルの子孫にも大いなる祝福を約束されています。そして、この約束も神は確かに守られています。
アラブ民族は石油によって莫大な富を享受しています。これは神からの恵みです!

神は目に見える形で旧約聖書の約束を守っておられるのです!

それでは御子イエスの血によって結ばれた、そしてキリストの血によって死亡証明まで与えられた私たちとの約束はいつ実現するのでしょうか?
これは「永遠の資産の約束」とあるように、新天新地、永遠の神の国で実現する約束です。地上の約束の方が良いと思わないで下さい!
この神の国で実現する約束は永遠の約束です!
はるかに優れた約束です。イスラエルの国はとても美しい国です。エルサレムも美しいです。ぜひ行くチャンスがあるのなら行って見てきてほしいと思います。
そして、天で私たちを待っている永遠の都、天上のエルサレムはもっと美しいことを覚えてほしいと思います。私たちの永遠の住まいはさらに完全で、永遠に続くのです。
この約束を確かに私たちに与えるために、イエスはご自身の血をもって私たちと契約を結ばれたのです。

このヘブル人への手紙9,10章からキリストの血がもたらす恵を見てきました。
キリストの血は私たちの罪を贖う完全な血であり、この血によって私たちは完全に赦されました。この血によって私たちは父なる神の前に神の子供として受け入れられています。

キリストの血は私たちの良心をきよめます!
罪に対して抵抗する力、罪を憎む心を回復します。神に喜んで仕える心を与えます。

そして最後にキリストの血は、天の御国で私たちが受け継ぐ資産を保証しています。
私たちの永遠の都、私たちの本当の住まいはキリストの血により神の国なのです!

キリストの血が私たちにもたらした、大いなる恵を覚えましょう!

このキリストの血と、キリストの血がもたらす恵を受ける人は誰でしょうか?
キリストが血を流されたのは私のためだと信じ受け入れる人です。
キリストは私の罪のために身代わりに十字架に付けられた。
キリストは私のために死んで下さった!このことを受け入れる人です。

まだキリストを受け入れていない人は、いま心にキリストをお招きしましょう。
「イエスさま、私の罪のために身代わりに十字架を背負い、血を流して下さりありがとうございます。あなたの救いを信じます。あなたを私の救い主として信じます。」と主を受け入れるお祈りをしましょう!