「大胆に恵の御座に近づこう」
ヘブル人への手紙4章15.16節
牧師 小林智彦

【ヘブル人への手紙が書かれた背景】

今週と来週はヘブル人への手紙から恵を分かちあいます。ぜひ通読してください。
さてヘブル人とはユダヤ人のことを指しています。
この手紙はユダヤ人クリスチャンに向けて書かれた手紙なので、私たちには分かりづらい手紙かもしれません。まず手紙が書かれた背景について短く分かちあいます。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
ヘブル10章25節

パウロやペテロ、使徒たちの宣教によって外国人も、そしてユダヤ人も大勢イエスさまを信じました。しかし、それに伴って教会とクリスチャンに対する迫害も増してきました。
あまりに迫害が激しく、そして長く続くために、ユダヤ人クリスチャンの中からは教会を去り、ユダヤ教の律法を中心にした生活に帰るものが現れました。

ヘブル人への手紙の著者は、律法中心の古い教えに帰ることが無意味であることを何度も手紙の中で指摘しています。

確かにユダヤ人に与えられた律法、そして偉大なリーダーであったモーセ、またイスラエルの中心である神殿と儀式が素晴らしかったとしても、イエスはさらに優れている!
イエスがどれほど天使やモーセ、律法、神殿と祭司よりも優れているのかをヘブル人への手紙の著者は強調し、以前の生活に帰ることは問題の解決にはならないこと、それは一時的に迫害からは免れても、最も大切なものを失ってしまうと注意しているのです。

これがヘブル人への手紙が書かれた大まかな背景です。

イエス・キリストによってもたらされた恵から離れて、律法主義に戻ってしまうこと。
ユダヤ人クリスチャンは迫害によって恵から引き離されそうになりました。
キリストの恵から離される。これはクリスチャンにとっては致命的な問題です。
キリストの恵から離されても、人は戒律や儀式中心の宗教的な生活は送れるかもしれない。
しかし、神の命、聖霊の愛と平安を失ってしまうのです。

キリストの恵があるから、神の聖霊は私たちの内に住まわれるのです。
キリストの恵とは神の無条件の愛と赦しだからです。
キリストの恵によって、私たちは行いが無いにも関わらず、天のお父様の子どもになりました。恵によって私たちは、神の子供なのです。

私たちが神の子供になったのは律法を守ったからではありません!
私たちが神から赦され、愛されたのも聖書の戒めを守ったからではありません!
恵によるのです。神がまず始めに私たちを愛して下さった。これが愛であり恵なのです。

「一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。」ヘブル人への手紙7章18.19節

ここで注意が必要です。律法が悪いとか、旧約聖書には意味がないと言っているのではありません。パウロも言うように律法は良いもの、素晴らしいものなのです。
しかし素晴らしい律法が与えられても、その律法は私たちを変える力にはならなかったのです。すべき正しいことが分かっていても、それを行えないのが私たちの弱さです。

私たちの内に宿る罪が私たちを束縛し、正しい律法をも私たちを束縛するものに変えてしまったのです。罪の力は強力です。
罪は私たちをキリストの恵からも引き離そうとします。
なぜならキリストの恵こそ、罪に勝利させる神からの解決なのです!

私たちはキリストの十字架を絶えず見上げ、キリストが命を懸けて成し遂げた恵に留まり続けましょう!ありのままで私たちを受け入れ、愛し、赦し、聖霊を注がれる天の父を誉めたたえ、その愛の中に留まり続けましょう。

【私たちが直面している問題】

悪魔・サタンも私たちを恵から引き離そうとしてやって来ます。
ユダヤ人クリスチャンに対しては、迫害によって恵から引き離し、律法主義に束縛しようとしました。では日本人の私たちにはどのように恵から引き離そうとするのでしょうか?

さて昨今、日本で起きている痛ましい事件について少し話したいと思います。

今年の3月には荒川沖駅で、6月には秋葉原で通り魔事件がありました。
つい先週には元厚生相の次官を狙っての事件が起こりました。
これら無差別、また破滅的な事件を引き起こした犯人に共通しているのが、子ども時代の彼らは「よい子」「優等生」「おとなしい子」です。
荒川沖駅の事件を起こした犯人は小学生の時、クラスの投票で「家族を一番大事にしそうな人」で一位に選ばれたことがあるそうです。その理由は「いつも優しいから」だったそうです。なぜ子どもの頃に優秀で、優しいよい子が大人になって通り魔になるのでしょう。

心理学者の長谷川博一(はせがわ・ひろかず)氏は、「事件を起こした若者たちに欠けているのは、親子間の『心のつながり=絆』の形成である。良好に見える姿を『仮面だ』と見抜」く必要があると言っています。
また「仮面は一般に親がプラスの評価をしがちな見え方をする物である」
「仮面をつけ、本音を押さえ込むときには、往々にしてコミュニケーションが一方通行になっている。親から子どもへの期待に満ちた指示・要求と、失敗へのペナルティが、関係性の主体になっているのだ。」(小牧者出版「幸いな人」11月号 特集記事「よい子が親を殺す時」から抜粋)

つまり、長谷川教授は事件を起こした人たちは、本当の「よい子」ではなく、「仮面よい子」であり、親の期待に合わせた仮面を被っていたというのです。そして、その仮面の下には親に対する恨みを抱えていたと言うのです。

どうしても心理学者の意見を聞いていると「親が悪い」というメッセージが伝わりますね。
「親の過度の期待が、子どもを萎縮させている!」「親の一方的な押しつけが、子どもの自由を奪い、子どもの自主性を奪っている」等です。
でも、本当に親が悪いんでしょうか?親だけに問題があるのでしょうか?
自分の子どもを可愛くないと思う親がいるでしょうか?
自分の子どもを通り魔や無差別殺人の犯人に育てたいと思う親がいるでしょうか?

秋葉原の通り魔事件を引き起こした犯人の親も、自分の子どもを通り魔に育てようなどとは決して思わなかったと思います。自分の最善を尽くして、こども一人前にしようと努力して来られたのだと思います。

ところが親の願いとは全く反対の大人に成長してしまった!
ここに悲劇があり、これが悲しい罪の現実なのです。
良かれと思ってした最善の努力が、空しく最悪の結果になってしまった。
最善の躾を与え、最善の教育を与えてきた、そして子どもも応えてよい子で過ごしてくれた、ところがある時から、全く変わってしまい事件を引き起こしてしまった。

私はこの日本で起きた事件と、律法とユダヤ人の関係が同じに思えるのです。

神はご自分の選びの民であるイスラエルを祭司の国として建て上げようとされました。
そして最も素晴らしい倫理・道徳である律法を与えて、イスラエルを養育しようとされました。イスラエルは心を込めて戒めを守ります!と誓ったのです。
ところがイスラエルは上辺では律法を守り、神殿での儀式を行っていましたが、心では神から離れていたのです。


イエスさまはユダヤ人のパリサイ人・律法学者を偽善者と呼びました。
偽善者のもともとの意味、ギリシャ語では俳優を意味する言葉です。
つまりイエスさまは律法を守っているパリサイ人・律法学者を「俳優」、つまり人の前で演技しているだけだと言っているのです。
そうですパリサイ人・律法学者も「仮面よい子」だったのです。
パリサイ人・律法学者も仮面の下には神に対する恨みを抱えていました。
だから彼らが真の神であるイエス・キリストを十字架に付けて殺したのです。

それならば律法を与えてイスラエルを導こうとした神が間違っているのでしょうか?
一方的に律法を与えて、ユダヤ人を仮面よい子にした神に問題があるのでしょうか?
そうではありません!

問題は、正しいことが分かっていても守り行うことが出来ず、悪いことが分かっていても、止められない、私たちの内にある罪が問題なのです!
そして、これが律法の限界なのです!
律法は何が正しいかを人間に明らかにすることが出来る。しかし、罪ある人間に律法を守らせる力にはならないのです!

それならば、どこに解決があるのでしょうか?
仮面よい子が仮面を脱ぎ、偽善な宗教家が偽善を止めるにはどうすればよいのでしょう?
仮面ではなく、本当のよい子になるには?偽善者が本当の義人になるには?

再び心理学者の長谷川博一氏の話に戻りますが、仮面よい子ができる原因の一つは「親子間の『心のつながり=絆』の」欠如にあると言っています。
つまり、「心のつながり=絆」を取り戻すことが解決だと主張しています。

「勉強が出来ない等、期待に反することをしても、『そんなことに関係なく、あなたは私たちの家の大切な子』というメッセージを伝え、子どもの思っていること、考えていることに、評価の視点を捨てて子どもの心を教えてもらえばいい。上手く助言する必要などないのである。」と長谷川氏は言っています。

とても良い指摘ですね。これは関係の土台です。しかし、私は心理学の限界があることも指摘したいと思います。この子どもを無条件に受け入れると言うことも、この指摘も親にとっては新たな律法になってしまうと言うことです。

私たち人間の弱さは正しいことが分かっていても、出来ないところにあるからです。
心理学がとてもポピュラーになって来ています。しかしいくら学んでも限界があります。
分かっていても出来ないからです。納得が行くけれども、行えないのです。

大切なのは体験することです!
自分が無条件で受け入れられたことがないのに、他の人を無条件で受け入れることは出来ません。それは演技、つまり偽善になってしまいます。
自分がまず無条件で受け入れられることが重要です。

イエス・キリストは私たちを一人ひとり、ありのまま受け入れるために来られました!
イエスさまは、ご自分のところに来るものに対して、過去がどうであれ、弱さがあっても「そんなことに関係なく、あなたは私たちの家の大切な子」と受け入れて下さるのです。

イエスさまの無条件の愛と赦し、恵に留まることが心の仮面を外すのです!

心理的な「絆」に関して長谷川氏は「ことばで『毒』を吐き出すことができ、それを知りながら関係が壊れないということによって、初めて『絆』と呼べる条件が満たされるということが出来るだろう。不幸にして事件に走った人たちは、家族の中で『絆』を体験することが出来なかった。」と言っています。

心に抱える葛藤、弱さ、時には不合理な怒りや憎しみさえも責めず、裁かれずに受け入れてもらう時、心と心の絆が生まれるのだと長谷川氏は教えています。

私たちはイエスさまに目を向けましょう!
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」(ヘブル4:15)

主イエスは私たちの弱さを聞いて下さいます。主イエスは私たちの愚痴さえも聞いて下さいます。主イエスは私たちの苦しみ、怒り、心の葛藤もすべて聞いて、受け入れて下さいます。主に聞いてもらう時、主に受け入れてもらう時、私たちの心とイエスさまの心には絆が生まれるのです。イエスさまは律法には出来ない、絆を私たちと結ぶために人となり、地上に来られたのです。イエスさまに語りましょう!イエスさまに分かちあいましょう!

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
ヘブル人への手紙4章15.16節

大胆に恵の座に近づきましょう!そして大胆に恵の座に留まりましょう。
上辺だけ、形だけの宗教生活は止めましょう。クリスチャンの振りはしなくて良いです。ありのままで良いです!教会の顔と家の顔を使い分けるのは止めましょう!
神はありのままのあなたを愛し受け入れて下さいます。演技は神との絆を断ち切ります。

ありのままのあなたでいること!それが神との絆を深めます。
恵の座に大胆に近づき、留まりましょう。
まず受けることが、与えることになります。愛されることが、愛されることになります。