「聖霊を豊かに注がれる神」
テトスへの手紙3章3節から7節
牧師 小林智彦

【テトスへの手紙の背景】

今週の聖書通読箇所はテトスへの手紙です。テトスへの手紙は3章と短いので、ぜひ繰り返し読みながら、神さまの恵と御心を知りましょう。
テトスはパウロの弟子でギリシャ人であったと考えられています。
パウロはローマで牢につながれていましたが、その後無罪とされ、再び宣教の働きに就いたと考えられています。使徒の働きには出てこない地中海のクレタ島でも福音を伝え、教会を建て上げたようです。その後パウロは教会の指導を弟子のテトスに委ね、パウロ自身は新たな宣教地に向かいました。パウロはこの手紙をギリシャのニコポリから書きました。

【私たちも以前は・・・】

「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。」テトスへの手紙3章3節

パウロは神に出会う前の自分の姿を、ここで赤裸々に述べています。
そしてこれは神に出会う以前の、全てのクリスチャンの姿でもあります。

私たちは優れた信仰者に出会うと、この人は生まれた時から真面目で、ずっと正しい道を歩んで来たのだろうと考えます。しかしクリスチャンファミリーで育てられた、ある一部の人を除いて、ほとんどの人は神に会う以前は不従順で迷った者であり、欲情と快楽の奴隷、悪意と妬みの中に生活し、憎まれ者、そして互いに憎み合う者であったのです。

自分の力では自分を変えられない!
やってはいけないことが分かるのに、それが止められない。
すべき正しいことが分かるのに、それが出来ない!
それが私たち人間の姿であると聖書は教えています。
私たちも、パウロが告白しているように、罪の奴隷でした。

悲しいことに奴隷は、いくら働いてもその働きが評価され、自由の身になることはありません。罪の奴隷も、いくら罪と戦っても、罪から解放されることは無いのです。

パウロもそうでした。パウロは宗教に熱心になれば救われると思った。
彼は熱心にユダヤ教を信じ、その教えに従って生活しました。
しかし彼はユダヤ教では変えられなかったのです!
ユダヤ教の教えが間違っているのでは無い、ただどんなに頑張っても人は自分の努力だけでは自分を変えることが出来ないことに彼は気づかされたのです。

私たちも、この点をパウロからよく学ぶべきだと思います。
キリスト教に熱心になっても、聖書の教えをひたすら守ろうとしても、却って人を裁き自分を裁き、冷たい心の持ち主になってしまう危険がある。これを律法主義と言います。

聖書の戒めは正しいのだけれども、その正しい教えを守ろうとしても守れない、また守ろうと努力しても、自分の力では守れないのです。
戒めは罪を指摘するだけで、罪人を根本的に変えることは出来ないのです!

罪の奴隷であったパウロ、どんなに努力しても自分を変えることが出来ないパウロ、そのパウロを変えたものは一体何だったのでしょうか?

【神のいつくしみと人への愛とが現われたとき】

「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、」
テトスへの手紙3章4節

パウロの人生を根底から変えたのは、神の愛と赦しでした!
私たちの人生を変えるのも、そしてこれからも変え続けるものは神の愛と赦しです!

パウロは正しくあろうと願い、ユダヤ教に、宗教に熱心になりました。
戒めを守れば、宗教を守れば救われると思い、その熱心さのあまりにイエスさまを迫害したのです。クリスチャンを異端と決めつけ、その教会を迫害しました。
イエスさまと教会に敵対することで、ユダヤ教から認められる思っていたのでしょう。

しかしイエスさまと教会を迫害しても、彼の心は満たされないばかりか、空しさ、痛みが彼の心を覆いました。しかし、正に彼が満たされない心を抱えていた時、キリストが彼に現れて下さったのです。

ダマスコの教会を迫害しに出掛けたパウロにキリストは現れて下さいました。

「私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』。私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」
使徒の働き26章14.15節

イエスさまはパウロ(この時はサウロ、後に改名してパウロになる)を責めませんでした。責めずに、「なぜ」とパウロに自分で自分の行いを省みるように勧めているのです。
そしてパウロの間違った行いを責めるどころか、その行いがパウロを苦しめていることを思いやっておられるのです。

これがイエスの愛であり赦しです!

多くの人は、クリスチャンでも神の声とサタンの声を勘違いして聞いているようです。
私たちの過去の過ち、失敗を責め立て、惨めな気持にさせるのは聖霊の声ではありません。聖書の戒めを用いて、どんなに私たちが神の義から離れているのかを責め、自分が神から愛される資格がなく、神の子と呼ばれるに相応しくないと裁く声は聖霊ではありません。
それが私たちを神の前に訴える者、サタンの声なのです。

聖霊は神の霊です。聖霊は私たちの失敗や弱さを責め立てません。
私たちが罪深い行いを正当化し、過ちを犯し続ける時も責めません。
そうではなく、「なぜ・・・そうするのですか?」と優しく私たちの心に問われるのです。「・・・することはあなたにとっては痛いことではないのですか?」と問われるのです。私たちは、この聖霊の愛と赦しに満ちた問いかけを聞く時、自然と悔い改めに導かれます。

「あなたは・・・すべきだ!」「・・・出来ないあなたはダメだ!」そのようなサタンの責めを受け入れいないで下さい。「もっと・・・しなければだめ!」、サタンの声は宗教的な行いにあなたを縛り付け、本当の解放には導かないのです。

聖霊様の声を聞き分けましょう。私たちの主であるイエスさまの声を聞き分けましょう。主の御声には愛があります。主の御声には赦しが溢れています。
主の御声にはあなたへの思いやりが溢れています。

イエスの愛と赦し、思いやりに触れたパウロは、自然とイエスに問いました。
「主よ。あなたはどなたですか。(使徒26章15節)」、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。(使徒22章10節)」。これが本当の悔い改めです。

「あなたは・・・すべきだ!」と責められて、イヤイヤながら従うのは本当の悔い改めにはなりません。心が変えられていないからです。

しかし、イエスの愛と赦し、思いやりに触れる時、私たちの心の奥深いところから「主よ私はどうしたらよいのでしょうか」と主に問う思いが沸き上がります。
心が変えられたのです。

キリストの愛と赦しに触れることが、私たちの心を変えます。
神の霊である聖霊がイエスの愛と赦しをもって、優しくあなたに触れて下さいます。
祈りの中に、静かな神さまとの親しい時間を持って、聖霊様の声を求めて下さい。
聖霊の声に親しんで下さい。聖霊の声を聞き分けて下さい。

【神は聖霊を私たちに豊かに注いで下さいます!】

「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」テトス3章5.6節

救いは私たちの努力や頑張りではなく、神からのプレゼント、一方的な恵です。
神の愛に心を開く時、私たちの心に眠っていた霊が目覚めるのです。息を吹き返すのです。
これが新生です。神の赦しを受け入れる時、私たちの心はキリストの血によって洗われ、新しくされます。キリストの愛と赦しが私たちを神の子として生かし、成長させます。

この働きをされる聖霊を、神は豊かに私たちの心に注がれるのです!
これは約束です!約束ですから、私たちは大胆に聖霊を求めましょう。
聖霊は心を開いく者に、喜んでその人の心に入ってきて下さいます。
既に救われている人も、さらに聖霊様の親しい交わりを求め、いま聖霊を求めましょう。
祈りましょう。