「神の愛による家庭の回復」
箴言17章1節
牧師 小林智彦

「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」
箴言17章1節

【あなたの家庭は平和ですか?】

先日テレビを見ていたら、家出少女の問題を取り上げていました。
渋谷や池袋の繁華街で夜になっても帰らない少女たちがいます。年齢を聞くと20歳と言っていますが、良く聞くと中学生だったり高校生だったりします。
援助交際の相手を見つけるために繁華街にやって来るそうです。
最近ではこのような子どもたちが犯罪に巻き込まれることが多発しています。
危険であることを承知の上で、繁華街にやって来るそうです。
その理由は、「家にいるよりは良い」と言うのです!
犯罪に巻き込まれ、嫌なことをさせられても、家にいるよりはずっと良いと言うのです。
彼女たちの家は平和な家庭ではなく、「ご馳走と争いに満ちた家」なのかも知れません。

本来、家は一番落ち着ける場所、リラックスできて安全な場所です。
家族を愛し、愛される場所、本当の自分でいられる場所、それが私たちの家庭です。

しかし、その家庭が一番帰りたくない場所、緊張する場所、イライラする場所、怒りと憎しみ、怒鳴り合い、裁き合う場所になったら悲しいことです。

私たちの家庭はどんな家庭でしょうか?
早く帰りたい場所、落ち着ける場所、本当の自分を取り戻せる場所でしょうか?
それとも帰りたくない場所、顔を合わせたくない人がいる場所でしょうか?

【平和な家庭を取り戻すために】

家出少女たちは口々に親を責めます。「親がうるさい!親がウザイ!」
親は子どもたちの忍耐の無さや我が儘を責めます。
夫は妻を責め、妻は夫が仕事ばかりで家庭を顧みないことを責めます。

相手を責めることによって平和な家庭を築くのは難しいようですね。
相手を責めることは、かえって争いの原因になり、問題を難しくしてしまうようです。

聖書は始めのカップルであるアダムとエバも問題が起きた時にしたことは、相手を責めることでした。アダムはエバを責め、エバは蛇を責めました。
しかしその結果、神から与えられたのは平和な家庭ではなく、呪いを受けることでした。

ここで神が教えておられるのは、人の罪を裁き、責めることによっては問題は解決しないことだと思います。

家出少女をいくら責めても裁いても、彼女たちが家に帰ることは無いでしょう。
親が悪いと、親の不完全な部分をいくら責め、裁いたところで、自分が良くなるでしょうか?学校が悪い、インターネットが悪い、携帯電話が悪い!といくら責めても、責め、裁くだけでは世の中も家庭も良くなりません。

相手を責め、裁くことによっては何の問題も解決しません。
解決はいつも悔い改めることから始まります。進んで自分が悔い改めることです。

【平和な家庭への悔い改め】

悔い改めるとは、自分を責めることや反省はなく、また過去を悔やむことでもありません。
自分の思い、考えを変えること、また関係を元通りにすることです。

私たちは神からの救い主イエス・キリストを通って、本来の愛溢れる家庭に帰りましょう。
イエス・キリスト、神の愛と赦しが私たちの家庭を回復する道です!

家庭を創られたのは人間ではなく神です。神が人を創り、家庭を創られました。
アダムとエバは最初の夫婦であり、最初の家庭を始めました。
彼らが罪を犯すまで、愛と平和に満ちた理想の家庭は続きました。

アダムとエバが神の言葉に逆らい、罪を犯した時に神との関係、夫婦の愛の関係は断絶しました。家庭は崩壊し、平和な家庭から相手を責め、裁く、争いの家に変わりました。

聖書は一番最初の家庭が崩壊した原因は罪であると教えています。
罪はあらゆる関係を壊します。神との関係、夫婦の関係、兄弟の関係。
悔い改めとはその反対です。和解をもたらします。神との和解、夫婦の若い、家族の若いです。そして、この罪を取り除くことが出来るのは、救い主イエス・キリストだけです。

私たちがすべきことは、
自分が犯した罪を認識すること、その罪を告白すること、神の憐れみと赦しを受けること、神から回復の力を受けることです。

【家庭を壊す罪とは】

罪を悔い改めるために、まず自分が犯した罪を認識することが大切です。
アダムとエバは最初の人間であり、私たち人類の共通の親です。
聖書は彼らが犯した罪によって、全人類が罪を犯したのだと教えています。

だから私たちはアダムとエバが犯した罪を他人事のように考えるのではなく、自分が犯した罪、また罪の影響を受けていると自覚する必要があると確信します。

アダムとエバが犯した罪とはどのような罪でしょうか?
アダムとエバが犯した罪は偶像礼拝の罪です。偽りの神を作り、これを拝む罪です。

「そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」創世記3章4から6節

蛇に化けた悪魔はエバに「神のようになり」と唆しました。
神のようになれる!その誘惑にのって善悪の知識の木の実を見上げ、木の実の美味しそうなことに負けてしまったのです。

この箇所からは沢山の教訓を学ぶことが出来るのですが、私は悪魔の嘘、「神のようになれる」になぜアダムとエバは誘惑されたのか?ここに注目したいのです。

私は男性ですので、男の子の話をしますが、男の子はスーパーマンや仮面ライダーに憧れます。ウルトラマンやガッチャマンを毎週欠かさずに見ていました。
なぜ男の子はヒーロー物のアニメやマンガが好きなのでしょうか?
それはアニメを見ていると、自分がウルトラマンやスーパーマンになった気分になるからです。私は子どもの頃、ロボット、ガンダムのプラモデルや戦車のプラモデルを沢山作りました。ロボットを作っていると、自分がロボットの持っている力を持っているような感じがするのです。戦車や戦闘機もそうです。自分には無い力を与えてくれる気がするのです。それを作り、眺めている時、自分にはロボットや戦車が持っている力があるように感じるのです。つまり自分にはない万能感、優越感を味わっているのです。

これは女性ならば、美しくなりたい、ブランドの服や持ち物で身を飾るのと同じなのではないかと思います。

万能感、優越感、神のようになりたい!その表れです。
誰もがこの欲求を持っていると思います。神のような存在になりたい!
他の人よりも優れたい、神よりも優れたい!
アダムとエバにはこの欲望がありました。だから悪魔の誘惑に乗ってしまったのです。
だから私たちも自分に万能感を与える物を強く欲しがります。

中学生の時、女の子に持てるためには背が高くないと思うと、一生懸命に牛乳を飲んだ入り、首を引っ張ったりとありとあらゆることをしました。
喧嘩に強くなりたいと思って、「空手バカ一代」を聖書のように読んで研究しました。
空手道場に通い、巻き藁を一日中パンチしたり、柔道部に入部しました。

万能感、優越感です!これを手に入れるために人はあらゆることをします。
私は高校の時に救われたので良かったのですが、もしイエスさまに出会っていなかったら、万能感と優越感を求める旅は終わらなかったでしょう。
もしそのまま続けば、多くの異性を悲しませたり、またお金を得るためにしてはならないことまでするようになったかも知れません。それでも満足出来なかったらきっとアルコールや薬物に進んだかも知れません。

万能感、優越感、これを手に入れるために人はあらゆることをするのです。

ある人には向上心を持つことは罪のように聞こえるかも知れません。
クリスチャンは向上心を持ったらいけないのですか?と。
向上心は素晴らしいです。向上心を否定しているのでは決してありません。
問題は、心の動機です。

万能感、優越感を強く願う心の土台は「いまの自分はダメなんだ」です。
「自分は女性にもてないから、何とか格好良くならなければ!」
「自分はバカだから、でも勉強は嫌いなんで、喧嘩だけでも人に認められたい!」
「お金があれば!お金さえあれば、ダメな自分も何とかなる!」

「自分はダメだ!自分には価値がない!自分は愛されない!自分は認められない!」
これが自分を進ませるアクセルになってはならないのです。
これは本当の向上心にはなりません。
自己否定が動機であり、出発点であるなら行き着く先も自己否定です!
どんなに頑張って努力しても、不安や恐れから解放されることはありません。

アダムとエバがなぜ「神のようになれる」と言う誘惑に乗ってしまったのか?
なぜ神の最高傑作のアダムとエバが自分を否定する気持があったのか、ありのままの自分に満足し喜べなかったのかは分かりません。
もしかしたら、自分が土から作られたことを恥じていたのかも知れませんが。

「自分はダメだ!」この思いを抱えたままだと、自分ばかりか家族をも不幸にします。
「自分はダメ!」と思う人は、同じようにまわりの人の良いところよりも悪いところを見てしまうからです。「私も頑張ってるから、あんたも頑張りなさい!」と押しつけます。

何かをしていないと認められない、価値がない。
その思いの上に安心できる平和な家は築けません。

【イエスの愛による回復】

しかし、イエス・キリストには救いがあり回復があります!
イエス・キリストは私たちをありのままで受け入れて下さいました!
罪を犯したアダムとエバを追いかけ、捜しだし、関係を回復しようと神はされたのです。

天の父なる神はイエス・キリストにあって私たちを、ありのまま受け入れて下さいました。
「そのままのあなたを愛している!」と受け入れて下ったのです。
キリストにあって、ダメな人は誰ひとりとしていません!

私たちはキリストにあって天の父なる神の息子であり、娘です。
キリストが身代わりになって罪の罰を受けるほど、キリストの命を私たちに与えるほど、天の父なる神は私たちを愛して下さいました。

私たちは天の父なる神に愛されるために頑張らなくて良いのです。
なぜなら既に愛されているからです。
私たちは天の父なる神に認められるために頑張らなくて良いのです。
なぜなら既に私たちを高価で貴い!キリストを犠牲にするほど貴いとされたからです。
私たちの存在そのものが天の父なる神には愛らしく、貴いものなのです。

私はキリストにあってOK!私はありのまま受け入れられている!
何が出来ても出来なくても、私は天の父なる神の貴い息子であり、娘である!
これが私たちの本来の姿です。キリストは私たちを本来の姿に戻して下さったのです。

私たちはキリストにあってありのまま受け入れられ時、自分の妻を、子どもたちを同じようにありのままで受け入れることが出来るように変えられます。

キリストが私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うこと、これが神の願いです。神が愛して下さったように、家族をありのままで受け入れ、神が私たちの罪を赦して下さったように、家族の罪を赦すなら、その家庭には命と平和があります。

家庭の回復、その始まりはイエスの愛と赦しを受け入れることから始まります。
キリストにあって私たちはOK!キリストにあって私たちは神の貴い息子、娘である!
この救いの揺るがない土台の上に家庭を築き上げましょう。

私たちは認められるために偶像を求めなくて良いのです!
愛され、認められるために力やお金を求めなくて良いのです。