「父なる神の愛と訓練」
申命記8章1節から5節
牧師 小林智彦

「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。」申命記8章1節

旧約聖書を学ぶに当たって、私たちが覚えなくてはならないことは天の父なる神の愛です。旧約聖書も新約聖書も、ともに神から私たちへのラブレターです。
聖書には神の愛と赦し、恵が満ちあふれています。

ただ旧約聖書が書かれたのは三千五百年も昔に書かれ、そして旧約聖書はまず第一にユダヤ人に対して書かれました。時代も文化も違う人たちに書かれたので、分かりにくいところが沢山あります。それが神さまの愛を見えなくさせている時があります。

だからまず覚えること、それは天の父なる神の愛です!
申命記にも神の愛が溢れていることを覚えましょう。その愛を見つけましょう。

旧約聖書を読んで、先ず躓くのは戒めではないでしょうか?
確かに律法の書と呼ばれている創世記から申命記までの五つの書物には、六百十三もの戒めが書かれています。そんなにも数多くの戒めがあるというのは驚きです。
戒めや命令と言うのは、愛と無縁のように思えます。

「あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない」と聞くと、とても窮屈であり、また強制され、自由を奪われたように感じるかも知れません。
しかし、それは現代の感覚ではそう感じるだけで、当時のイスラエルの人々には涙が出るほど嬉しい神の言葉であり、愛に満ちた表現だったのです。

なぜなら、この言葉には約束が伴っています。
「そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ・・・地を所有することが出来る」

天の父なる神はイスラエルの人々を心から愛していました。
だから当時の彼らが最も価値を置いていたもの、いのち、子孫の繁栄、土地を豊かに持つための確かな道を示されたのです。

これらは現代の私たちが価値を置いているものとズレがあるかも知れません。
しかし、天のお父さんは子どもにとって最も大切なものを豊かに与え、それを所有できるように確かな道を示され、彼らの人生が平安と喜びで満たされることを願われたのです。

天の父なる神は今日も変わらない愛で私たちを愛しています!
天の父なる神は私たちが豊かで、満ち足りた人生を送ることを願っておられます。
天のお父さんの偉大な愛を覚えながら、聖書を読みましょう。

しかし、それでも聖書を読むと怒りや恐れが沸いてくるのならば、私たちの心には傷があるのかも知れません。天のお父さんの愛を真っ直ぐに受けとめられない、心の傷があるのかも知れません。

私たちは肉親の父、また権威を持った人、学校の先生や職場の上司から愛のない態度で支配されたり、躾られたり、また虐待される時、心に大きな傷を受けてしまいます。
その傷が癒されない限り、私たちは権威や父親的な存在に対して敵意と怒り、反発心を抱えるようになる時があります。

旧約聖書を読み、神が怒りと憎しみに満ちた恐ろしい神、また戒めを読む時、自分はダメだと思い、気分が落ち込むようであるならば、心の傷が癒えていないのかも知れません。

心の傷はそのままにしていても、決して治ることはありません。
私たちは自分の痛み、苦しみを主に背負ってもらうことが必要です。
祈りの中で、主に自分が受けた痛みや苦しみを告白すること、分かちあうことです。
イエスさまが私たちの受けた痛み、苦しみを背負って下さり、私たちが自分を傷つけた者を赦し、祝福できるまで、主に痛みを分かちあうことです。

神の愛を見えなくさせているもの、それは私たちが受けた傷です。
キリストは私たちの心の傷を十字架として担いで下さいました。
またキリストは私たちの痛みも、その背中に受けられたのです。
キリストに分かちあう時、私たちの苦しみ痛みは半減され、癒しが訪れます。
神の戒め、特に旧約聖書の戒めを愛と祝福として受け入れることが出来るようになります。

天の父はあなたを愛しています!そして私たちの心の痛み、心の傷をキリストはともに背負って下さいました。神の愛と癒しを受けましょう。
癒しのための祈りが必要と思われる方は、牧師に声を掛けて下さい。ともに祈りましょう。

【人生の苦難は教訓であり、人生は神からの試練である】

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」申命記8章2節

聖書は私たちの人生、そして人生に訪れる苦しみが何のためであるかを教えています。
聖書は人生の苦難は教訓であり、また人生の苦難は神からの試練であると教えています。
苦しい経験、辛い経験、それは教訓だというのです。
それは、私たちを本当の幸せへと導くための神からの教訓なのです。

いま、皆さんが直面している人生の問題、それは決して偶然に起きたのではありません!職場や学校の人間関係の問題。家庭の不和、親子喧嘩、夫婦喧嘩、兄弟喧嘩。またお金の問題、健康の問題、心の問題。どれも大変な問題ですね。
これらの問題はたまたま起きたとか、偶然に起きたのではないと聖書は教えています。

全ての問題を通して、神は私たちが教訓を学ぶことを願っています。
どんな問題でも、私たちはそこから何かの教訓を学ぶことが出来、また学んで欲しいと神は願っておられるのです。


私たちは自分の失敗と思える出来事をなるべく早く忘れたいと思います。
お酒を飲んで過去を忘れたい人、今をなるべく楽しくして辛い過去を忘れたい人、色々な方法で惨めに思える過去を忘れようとします。

また過去を忘れないで、その過去に関わった人や状況、時には神さえも憎み、呪い、過去に縛られ続けている人もいます。

どちらも不幸な心の態度だと思います。

神はその問題、過去の不幸な出来事も含めて、幸せになるための教訓を学んで欲しいと願っておられるのです。

「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。(16節)」

イエス・キリストを信じても、人生の問題や苦しみはなくなりません。
しかし、イエス・キリストを信じるならば人生の問題や苦しみが、私たちを本当の幸せに導くための教訓になるのです。本当に大切なものは何かを教えてくれるのです。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」詩編119編71節

いま苦しいところを通られている方がいるなら、その問題を単なる不幸と片付けないで下さい。また回りの誰かのせいにして怒りや憎しみを抱えるのも止めましょう。

「この苦しみを通して神さま、あなたは何を私に教えようとされているのですか?」と、祈りの中で神に聞いてみて下さい。

神は愛です!神は私たちの天の父です!父は子どもを意味もなく苦しみの中に放っておくことは絶対にされません。そうせざるを得ない、何かの意味があるのです。

「天のお父さん、あなたはこの苦しみを通して、一体何を私に教えようとしているのですか?私は自分の何を変えたら良いのですか?」と神に聞いてみて下さい。

試練にはヨブの試練のように、私たちに何も悪いことがなくても起きることがあります。
ペテロが受けた試練も同じでした。一方的にサタンから来る誘惑、試みもあります。

だから試練や苦しみは「自分の信仰が足りないからだ」とか「自分が悪いんだ」と直ぐに決めつけないで下さい。


どちらにしても、苦しみの時、試練の時は神に祈ることです!神に聞くことです!
祈りの中で、天の父なる神の愛と恵の中で先ず静まることが大切です。

@神を求めてください。天の父なる神の愛の御性質を思い出し、心の中に平安を取り戻すことです。状況がどんなに悪くても、心の中にある神の平安を奪える者はありません。

A自分の中に悔い改めるべき心の態度、また罪がないか神さまに示してもらうように祈る。

B神さまの約束のことばを心の中でしっかりと握りしめる。

C積極的に喜び、愛を実戦する。

【人は主の口から出るすべてのもので生きる】

「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(3節)」

私たちは自分のことは自分が一番良く知っていると思っています。
しかし、本当は自分のことを自分が一番知らないのかも知れません。
特に自分が気付かずにしている自慢話、プライド、我が儘、不信仰など、私たちは自分では気が付かないのです。それらがどれほど回りの人を不愉快にさせ、傷つけているか?
また自分にとっても、本当の成長を妨げているか?

神が愛する子どもである、私たちに試練を許されるのは、苦しみは私たちのプライドを砕き、私たちを謙遜にさせるからです。自分が自分の力で生き、自分の力で何でも出来る、その思い上がりが壊された時、私たちは神さまとの関係も回りの人との関係も健全なものに変えられていくのです。

人生の苦難、なるべくなら避けたいです。しかし、神が許された苦難ならば、それは私たちを真に成長させる天からのパン、マナに変わります。