「イエス・キリストの恵みと赦し」
ヨハネによる福音書21章
牧師 小林智彦

最近は通り魔や、恨みによる殺人事件、傷害事件のニュースを度々目にします。
そのようなニュースを聞くと、心がとても暗くなります。
先週驚いたのは、18歳の少年が元担任だった中学生の教師を刺した事件でした。
幸いにもその教師はいのちを失わずに済みましたが、大変な傷を負いました。
中学二年の時の担任だと言うのですから、もう4年も前のことです。
4年も前の恨みが、どんどん少年の中で大きくなり犯行に至ったようです。
憎しみや恨みは決して時間の経過では解決しないと、改めて思わされます。

日本では毎年、約1400件の殺人事件が起きているそうです。
その内訳を聞いて驚きました。何と45%が親族殺人だそうです。
親が子どもを、子どもが親を、夫が妻を、妻が夫をと家庭内で起こる殺人が最も多いそうです。聖書も世界で初めて起きた殺人はカインがアベルを殺した親族殺人でした。
次ぎに多いのが、友人・知人による殺人事件で全体の40%を占めます。

以外と思われますが、強盗殺人や通り魔による殺人は数字の上では少ないのです。
殺人事件の85%が親族、そして友人や知人の中で起きています。
つまり殺人事件のほとんどが人間関係のもつれ、恨み・憎しみによるものなのです。

殺人事件に至らなくても、また事件にはならなくても多くの人が家族に不満を持ち、恨みや憎しみを抱えているのではないでしょうか?
ストレスを抱え、多くの人が精神的に疲れています。そのストレスの原因で最も多いのが人間関係によるストレスです。家庭内、職場内、学校での人間関係によるストレス。

今の私たちにとって、最も必要なことは赦すことを学ぶことだと思います。
赦すことを知らないなら、心の中は不平と不満、憎しみと恨み、怒りで膨れあがります。
そして憎しみと恨みは、怒りや破壊的な思いは時間では解決しないのです!

パウロは教えています。
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」エペソ4章26節

問題が解決しないままで憤りを抱えて寝てしまうならば、なぜ憤ったのか、その事件や出来事は忘れてしまっても、心の中の憤りは収まらないのです。
怒りや憎しみが、解決の糸口が失われたまま、心の中で一方的に膨らんでしまいます。
だからパウロはその日の内に問題を解決しなさいと勧めているのです。
心の中に怒りを秘めるよりは、罪を犯さないように気を付けながら、怒る方が良いのです。しかし、最も優れた解決は心から赦すことです。

「赦しなさい!」と勧めることは、とても簡単です。
誰でも「過去を赦し、自分を傷つけた相手を赦せればどんなに良いか」と思うでしょう。
「赦したいけれど、赦せない!」のが、私たちの本音です。

【この方は恵とまことに満ちておられた】

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1章14節

イエスさまは恵とまことに満ちておられたとあります。
まことと恵のバランスを取ることはとても難しいことだと思います。
信仰の年数が長く、熱心に聖書を学んでいるクリスチャンの多くは「まこと」を強調する傾向にあるようです。しかし「まこと」、つまり聖書の真理を強調するとパリサイ人や律法学者に似てくるのです。悲しいことに熱心で真面目な人に、この傾向はあります。

真理を強調するあまり、他人の間違いが大きく見えてしまう。白黒をハッキリとつけたいと思う。罪や悪を憎むのは分かるのですが、人の弱さに対して配慮できなくなる。

これはとても悲しいことです。熱心で真面目なクリスチャンほど、イエスさまを迫害したパリサイ人・律法学者に似てくる傾向があるのは!
真理を強調することは決して間違いではありません。
しかしイエスさまは「まこと」だけではなく、恵とまことに満ちておられたのです。
これが重要なのです!

なぜ真面目で熱心なクリスチャンほど、真理を強調しすぎて片寄ってくるのか?
それは真理は頭で理解できるからです。聖書を読んで、聖書を学ぶと、み言葉の真理が貯えられて行きます。しかし、ここに私たちの落とし穴があります。

パウロが言うように「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を高めます(Tコリント8:1)」。
神の正しさ、み言葉の真理を学ぶと、まるで神の正しさを自分の正しさのように思い込む間違いを私たちは犯しやすいのです。

真理を知ることと、その真理に生きることとは大きな隔たりがあるのです。

イエスさまはパリサイ人・律法学者を真理を知っている点では非難されませんでした。
彼らの知識はある意味正しい知識として認めていたのです。
イエスさまが非難されたのは、パリサイ人・律法学者の行いでした。
彼らは真理を他人の罪を裁くためにだけ用いて、自分では行っていなかったのです。

恵とまことのアンバランスが生まれる原因は、まことは知的な理解で貯えられていきますが、恵は体験することを通してのみ得られることにあると思います。

恵は体験です!聖書の知的な理解だけでは得られないのです。
それは恋愛小説をいくら読んでも、自分が人を愛してみなければ本当の恋愛を体験できないのと同じです。

イエスさまのように、恵とまことに満ちた信仰者に成長するには、イエスさまとともに歩み、イエスさまの恵とまことを体験によって知ることが大切なのです!

キリスト教は決して学問ではありません!体験して初めて分かるものです。
キリスト教ではなく、キリストともに歩む「キリスト道」なのです。

さて、「赦し」のテーマに戻ります。
「赦しなさい、そうすればあなたも赦されます。だから、あなたも赦しなさい!」
これは真理です。まことの領域です。これを素直に行える人は幸いだと思います。

私もこのイエスの真理の教えに従い、赦せない人を信仰によって赦してきました。
そうすると、真理に従うなら必ずその結果が訪れます。霊的な解放と祝福が来ます。

しかし信仰と意志では赦せても、感情の面では赦し切れていない人や出来事も確かにあるのです。赦しと愛は地上生涯での最も大きなテーマです。

赦しやすい人もいます。信仰を持つ前は赦せなくても、信仰を持ってからは赦せるように変えられたこともあります。しかし依然として、感情の部分では赦せない人もいます。

私は比較的恵まれた家庭環境で育ちました。だから信仰と意志ではほとんど人、出来事を赦すことが出来たのだと思います。しかし小さい頃から親に虐待を受けたり、考えられないほど陰湿なイジメを受けてきた人は、赦す信仰にすら立つことを拒む人もいるでしょう。

「まこと」だけの信仰は、分かりやすい、人に勧めやすい、白黒ハッキリ付けやすい。
しかし、実際の問題を解決する時、私たちの心を救い、解放する時、直ぐに行き詰まってしまうのです。

「赦せない、それならあなたも赦されませんよ!」

これは真理です。だから逆らえない。しかし私たちを救えない真理です。
「分かっているけど、従えない、分かっているけど、行えない。」これが私たちです。

だからこそ、神の一人子が人となって私たちのところに来て下さったのです。
神の真理が、人となられた!真理と罪人である私たちを結ぶのが恵です。
イエス・キリストは恵とまことに満ちておられた!

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」ヨハネ福音書1章16.17節

私たちはイエス・キリストによって恵の上にさらに恵を受けなければ、聖書の真理を行うことが出来ないのです。聖書から真理を知ることは大切です。それが柱であり土台です。そして、イエスの恵を体験すること、それも同じように大切です。
私たちはイエスによって愛され、赦されて成長しいていくのです。

弟子たちが赦しをどのように体験したのか、ペテロがイエスさまによって赦された箇所を最後に分かち合いたいと思います。

「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』イエスは再び彼に言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい。』イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛しますか。』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」ヨハネ福音書21章15節から17節

最後の晩餐の席で、ペテロは「イエスさま、あなたのためなら命も捨てます!他の弟子があなたを捨てても、私は決してあなたから離れません」とハッキリと言いました。
ところがイエスさまが逮捕されると、自分も捕らえられると恐れ、イエスさまが見ている前で「こんな人は知りません!」と嘘を付いて、主を見捨てて逃げてしまったのです。

これはペテロの大きな過ちでした。ペテロの弱さでした。ペテロも自分がこんなに大きな過ちを犯すとは思わなかったと思います。そして自分がこんなにも弱いと知らなかったのでしょう。自分は弟子たちの中で一番、神を愛する弟子だとペテロは思っていました。
ペテロは漁師でしたから、荒波に揉まれて育ったのでしょう、決して弱音を吐かないことが自慢だったと思います。


自分は完璧、自分は大丈夫、頭ではそう思っていたのです。
ところが実際は弱く、不完全でした。

しかしペテロが大失敗を犯したことは、神の御前では良いことでした。
なぜならペテロはやっと神さまの恵を体験できるように、整えられたからです。
「自分は大丈夫!問題ありません!」、そういうペテロでは恵を頭で理解できても、体験することは出来なかったでしょう。

しかし、ペテロは自分の本当の姿が明らかにされた時、神の恵みを受け入れることが出来たのです。

イエスはペテロの弱さ、罪を責めませんでした!
ペテロはイエスさまに罵られ、責められても当然の過ちを犯していたのです。
ペテロはイエスさまに叱られるのを覚悟していたのでしょう。
ところがイエスさまからは赦しの言葉しか出てきませんでした。
それもビックリするよな言葉です。「わたしの羊を飼いなさい」と。
自分を裏切ったペテロを信頼して、最も大切な神の子の世話をする者として任命されたのです。ペテロはイエスの恵を体験しました。

もしペテロが恵を知らずに初代教会を導いたなら、キリスト教ではなくて切り捨て教になっていたことでしょう。


隣人をどうしたら赦すことが出来るのか?
まず私たちが神の恵みを体験することなしに、隣人に恵を与えることは出来ません。
恵は頭で理解するものではなく、恵は体験です。

恵は私たちの弱さ、私たちの過ち、私たちの罪の中にこそ現されるのです。
まず私たちの罪が赦されていることを覚えましょう。
また私たちが犯した過ち、人には言えない過去の出来事にも神の赦しを確信しましょう。

祈りましょう!
自分が今まで人の前にも、神の前にも閉ざしてきた部分があるのなら、今その部分に恵に満ちたイエスさまをお招きしましょう。