「神のわざがこの人に現れるためです」
ヨハネによる福音書9章
牧師 小林智彦

【誰が罪を犯したからですか?】

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』」ヨハネによる福音書9章1.2節

弟子たちは道ばたで物乞いをしている男性について、イエスさまに質問しました。

「誰が罪を犯したからですか?」

私たちも人生に不幸や問題が訪れると、「誰が悪いのか?」と犯人捜しをします。
問題の解決に取り組むよりも、原因を見つけだし、犯人を恨むことで満足してしまいます。

ここ最近、日本の各地で通り魔事件が起きています。恐ろしいことです。
犯人に共通して言えることは、「親が悪いんだ」、「会社が悪いんだ」、「学校が悪いんだ」です。誰かを恨みながら生きている。そしてその恨みは大きくなるだけなのです。

しかし、イエスさまの弟子たちも同じ考え方を持っていました。
「誰が罪を犯したからですか?」

自分の問題、不幸を誰かのせいにしてしまう。
これはほとんどすべての人に共通する心の態度なのではないでしょうか?

この心の態度は後ろ向きです。そして過去に縛られる生き方です。
過去を恨みながら生きる時、私たちは今を生きることが出来なくなります。

また問題の原因を他人や回りのせいにするなら、自分では問題を解決できないと諦めていることになります。被害者意識を持ち続け、恨みはどんどん増加し、自分を苦しめている回りに復讐したくなります。不幸の連鎖が起こるのです。

私たちは過去に縛られていませんか?
私たちも自分の問題を誰かのせいにして、人を恨みながら生きてはいませんか?

【神のわざがこの人に現れるためです】

弟子たちの後ろ向きな質問に対するイエスさまの答えは驚くべき答えでした。

「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」ヨハネ福音書9章3節

主イエスは「この人が罪を犯したのでもなく」と、この目の不自由な人の罪を責められませんでした。また、その人の両親の罪を責めることもされませんでした!

聖書は確かに、私たちの不幸の原因は罪にあると教えています。
罪は人間を死と滅びに結びつける強力な力であり、私たちを束縛する呪いです。

イエスさまはこの目の不自由な人とその両親には全く罪が無いと言っているのではありません。そうではなく、イエスさまはすでにこの目の不自由な人の罪を赦し、両親の罪を赦し、過去の縛りや過去の失敗からこの人たちを解放されたのです。

救い主イエスは私たちの罪を責めません!
主イエスにあって赦されない罪は何一つないからです!
主イエスに出会う時、私たちは自らの赦しを受け、過去を赦し、人を責め続ける後ろ向きの生き方からも解放されるのです!

【今を生きるイエス・キリスト】

ヨハネによる福音書を通読して発見したことは、「時」に関する表現が多いことです。
「わたしの時はまだ来ていません。」ヨハネ2章4節
「わたしの時がまだ満ちていないからです。」ヨハネ7章8節

「時」と関連して「今」と言う言葉も、聖書の中で最も多く37回も使われています。
「今がその時です。」4章23節、5章25節の二回、用いられています。

イエスさまは過去には生きられませんでした。イエスさまは今を生きられます!

過去を変えることは誰にも出来ません!全能の神でさえ、過去を変えることはされません。
私たちは過去の出来事をやな直すことは出来ないのです。
過去を見つめる時、私たちは大切な「今」を生きることが出来ないのです。

誰も過去を変えることは出来ません、しかし過去についての認識を変えることは出来ます。
過去を赦し今を生きるイエスに出会う時、私たちも自分と過去を赦すことが出来るのです。

イエスは「今」を生きられました!私たちも過去ではなく「今」を生きましょう!

ヨハネ福音書では「今」とは、私たちの信仰と希望に神が答えて下さる時を指していると考えられます。

信仰を持って神とともに歩む時、私たちは「今」を生きることが出来るのです。
イエスの赦しを受け入れる時、過去は赦され今を生きるこことが出来るのです。

私たちも主イエスとともに「今」を生きましょう。

【わたしは世の光です】

過去を赦し、信仰と希望をもって「今」を生きるキリストの生き方は、キリストの弟子の生き方でもあります。

「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
ヨハネ福音書9章4.5節

イエスさまは「わたしたちは」とご自身だけでなく、イエスさまを信じる弟子も夜ではなく昼に生きるべきと招いて下さるのです。イエスさまは世の光であり、そしてわたしたちも地の塩、世の光なのです。

私たちが光の子として生きる時、過去に生き、回りを責め続けている人にも希望を与えることが出来ます。

私たちは誰もが弱い者です。自分で自分の人生を負い切れない、そんな弱い存在です。
過去を誰かのせいにして生きなければ、惨めで仕方がないのです。
しかし、その暗い過去に赦しの光を灯して下さる方がイエスさまです。

イエスがともにいて過去を赦して下さる時、私たちは問題を自分の問題として逃げないで見つめる力を受けるのです。問題の中に希望を見いだすことが出来るのです。

キリストにあっては問題は避けるべきことではなく、神のわざが現れるための希望に変えられるのです!

私たちの直面している問題がどんなに大きくても、キリストがともにおられるなら問題は希望に変わります!この希望こそ、「今」に生きるための原動力です!

キリストを信じる私たちは、キリストにある希望に生きましょう!
そしてキリストにある希望に生きる私たちの生き方は、まだ神を知らない人々にも希望を分かちあうのです。

過去を責め、人を責める暗闇の生き方から、赦しと希望に生きましょう!
キリストは闇を照らす世の光、そして私たちもキリストにあって地の塩、世の光なのです。

【目の不自由な人に積極的に関わるイエス】

「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。」ヨハネ福音書9章6節

イエスさまが何故、地面につばきをして泥を作られたのか?何故それを目に塗られたのか?その理由は分かりません。つばきや泥に何かの意味を見いだそうとしない方が良いでしょう。それよりも、イエスさまは目の不自由な物乞い男性に対して、何と積極的に関わっておられるかを読みとるべきです。

イエスさまは言葉一つで病を癒したこともありますし、手を置いて癒されたこともあります。イエスさまは手を置かれても、置かれなくても癒すことがお出来になるのです。
しかし、この男性にはつばきをして泥で団子を作り、それを目に塗って上げたのです。

目の不自由な人は驚いたと思います!
彼自身、自分の病を恨み、両親を恨み、また自分自身を恨んでいたのでしょう。
また誰からも人間として相手にされず、蔑まれて生きてきました。
しかしイエスさまは、罪はない!と罪を赦して下さり、神のわざがあなたに現れると希望を宣言して下さったのです。そればかりかイエスさまが個人的に熱心に自分の問題に時間を掛け、取り組んで下さった。

この男性は生まれて初めて愛を体験したのです。赦されること、自分の可能性と希望を認めてくれたこと、積極的に関わってくれたこと、これがイエスの愛です!
イエスさまの愛は口先だけの愛ではありませんでした。
私たちもイエスさまの行動からも、神の愛を学びましょう。

イエスさまの姿勢は弟子の姿勢と全く違うことが分かります。
弟子にとって、生まれつき盲目の男性は罪について議論する対象でしかありませんでした。

「何でこんな不幸な人がいるんだろうか?この人の罪ですか?両親の罪ですか?」
そしてイエスさまが、「○○の罪だ!」と言って、自分の考えが正しいことに同意して欲しかっただけなのです。


私たちも弟子たちと同じ過ちをしないように気を付けましょう。
私たちも「世の中が悪い」と批判し、その原因が何処にあるかを聖書を用いて論じます。そして、論じ合って終わりの場合が多いのではないでしょうか?

罪を論じ合い、裁き合うよりも、罪が赦されていること、希望があることを伝えましょう。
見ているだけでなく、その人が問題から抜け出せるように、積極的に関わりましょう。
それがイエスさまの姿勢、それがイエスさまの愛です。
愛は傍観することから決して生まれません。

【行って、シロアムの池で洗いなさい】

「『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」 ヨハネ福音書9章7節

イエスさまは積極的に目の不自由な男性に関わられ、そして一方的に彼の目を癒したのかと言うと、そうではありませんでした。イエスさまがなさったのはつばきをして泥を作り、それを男性の目に塗られたことでした。それだけでは目は癒されなかったのです。

イエスさまは男性に言われました「行って、シロアムの池で洗いなさい」と。

イエスさまは男性の信仰による応答も求められたのです!
イエスさまは一方的に完全に癒されたのではなく、男性の信仰による応答を求めました。
もし男性がイエスさまの泥を洗い落としに行かなかったら、目は癒されなかったでしょう。

私たちの救いも同じです!イエスさまは全人類の罪を十字架の上で背負いました。
全人類の罪と呪いを背負い、罰としての死を全人類に代わって受けられたのです。
全人類のための完全な救いを成し遂げました。

しかし、全ての人が救われたのでしょうか?そうではありません!
「行って、シロアムの池で洗いなさい」と、イエスさまの言葉に従い、父・子・聖霊の御名によってバプテスマを受け、古い自分を洗い流した者だけが救われるのです。

イエスさまは罪の赦しのためにご自身の血を流されました。
その血は私たちの邪悪な良心を清めるとヘブル人の手紙に書かれています。
それなら、イエスさまの血潮は既に流されているのですから、自動的に私たちの心は清められるのでしょうか? そうではありません! 主に罪を告白する者だけが清められるのです。

私たちはイエスさまが成し遂げて下さった救いの業も、赦しの業も、信仰のアクションによって始めて受け取るのです。待っていても何も起こりません。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
告白すること、信仰のアクションを起こすことも重要なのです。

「そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。『これはすわって物ごいをしていた人ではないか。』ほかの人は、『これはその人だ。』と言い、またほかの人は、『そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、『私がその人です。』と言った。」ヨハネ福音書9章7節(後半)から9節

イエスさまの御言葉に従って、シロアムで泥を洗い流した男性の目は癒されました。
そして、近所の人が見間違えるほど変えられたのです!
彼は、肉体の目が開かれ、霊の目も開かれたのです!彼は救われ、新しい人になりました。

キリストの言葉、キリストの約束を信じ、その通りに従うなら、私たちの人生には驚くほどの変化が起きます!キリストの言葉は私たちを変え、私たちの性質までも新しくします。
キリストの言葉を学び、その約束を知ってください。そして、キリストの言葉にしたがって下さい!キリストの言葉は私たちを変えます!

「神のわざがこの人に現われるためです」

キリストの言葉に信仰を持って応答する時、神のわざが信じる者の上に現されるのです。
私たちの期待に神が応えられる時が「今」なのです!
私たちは「今」を力強く生きましょう!神に期待しましょう!み言葉に応答しましょう!