「ユダヤ人の指導者ニコデモの悩み」
ヨハネによる福音書3章1節から16節
牧師 小林智彦

【ユダヤ人の指導者ニコデモの悩み】

「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。』」ヨハネ3章1.2節

ニコデモはパリサイ人で、ユダヤ人の指導者でした。
ニコデモは今で言うならば衆議院の議員であり、大学の教授でもある人物です。社会的な地位があり、優秀な教育を受け、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、そんな優秀で満ち足りた生活を送っているニコデモにも悩みがありました。

昔も今も変わらないと思います。
私たちはどんなに賢くなっても、どんなに豊かな暮らしを送っても、真の神を離れては人生の目的を見失うのです。自分は何処から来て、何処に行くのか?自分は何のために生きているのか?人生とは?生きるとは何か?

優秀な大学を出て、一流の企業に就職して二、三年で会社を辞め、自分捜しの旅に出る若者が少なくないそうです。


少なくても16年も学校で勉強しながら、しかし、一番根本である自分自身が分からない!
ニコデモもそうでした。ユダヤ人の指導者でありながら、大学の教授もしながら、しかし、自分自身が分からない!生きる目的、人は何処から来て、何処へ行くのか分からなかった。

特にニコデモは既に年を取っていました。かなりの老齢です。
迫ってくる死を前に、未だに人間とは何か?自分とは何か?死んだらどうなるのか?分からなかった。

私たちは、どんなに優秀でも限界があります。どんなに優秀でも生きる意味と目的を見いだすことが出来ないのです。私たちの生きる目的と意味、また自分とは何か?この根本的な答えは、私たちを造られた創造主なる神に聞かなくては分からないのです!

ニコデモが本当に優秀な点は、悩んだ末にイエスさまのところに来たことです!
イエス・キリストの中に人生の全ての答えがあります!
人生の疑問、悩み、その解決はイエス・キリストの中にあるのです!
イエス・キリストこそ天の父なる神が私たちに与えた答えであり救いです!

【新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない】

「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」ヨハネ3章3節

イエスさまは神さまなので、ニコデモの悩み、疑問が直ぐに分かりました。
そしてニコデモだけでなく、悩み苦しみ、自分を見失い、絶望の中に置かれている全ての人に解決を下さったのです!

その解決とは、「新しく生まれる」ことです。これがイエス・キリストにある解決です!

なぜ「新しく生まれる」ことが解決であり、私たちは「新しく生まれ」なければならないのでしょうか?

私たちの今あるいのちと肉体は素晴らしいものであり、良いものです。しかし罪と死によって縛られ、真っ直ぐに永遠の滅びへと向かっているのです。
私たちを縛っている罪と死に勝った人は今まで一人もいないのです。

地球には目には見えませんが引力があります。誰も自分で自分を持ち上げることは出来ません。天に向かって登り続けることは出来ません。引力があるからです。
ロケットに乗って、強烈な力に依らなければ引力の束縛からは解放されないのです。
しかし罪と死の力は地球の引力よりも遙かに強く、私たちを滅びに引き寄せているのです。

私たちは誰ひとり、不幸な人生を送りたいとは思いません!幸せな家庭を築きたい、自分ばかりでなく、他人をも幸せにしたいと願っているのです。その願いが強いにもかかわらず、家庭は崩壊、親子の関係はギクシャクする、自分の将来には希望が見えない、年を取れば取るほど、生きる喜びが失せてくるのは何故ですか?

どんなに良いものでも、やがては悪いものに変わっていく。どんなに良い社会でも、段々と悪い社会に変化していくのは何故でしょうか?

人間には罪があるのです!罪の解決なしに、希望のある将来はあり得ません!
罪が人間の人生を滅びに向かわせ、人生の意味を見失わせているのです。

人間は罪のない、イエスさまと同じ神の子の性質に新しく生まれなければ、人生に真の意味と目的を見いだすことは出来ないのです。

死んだら終わりの人生に本当の意味や目的、希望は見いだせません!
人生の希望や目的が見いだせたとしても、それを行うことが出来ないなら、何と辛く悲しい人生でしょうか?罪の性質に死んで、イエス・キリストにあって新しく生まれなければ私たちの人生に希望は無いのです!

【水と御霊によって生まれる】

「ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。』イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。』」ヨハネ福音書3章4節から8節

「新しく生まれなければならない」とニコデモは言われて、とても驚いたことでしょう。それは当然だと思います。「どのようにして?」とイエスさまに質問しました。

イエスさまの答えはいつも明確です!
「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(5節)」

水とは水のバプテスマ、つまり洗礼を表しています。
御霊とは神の聖霊による聖霊のバプテスマを表しています。

私たちはイエス・キリストを神の一人子なる神、救い主として信じること、またキリストが私たちの罪を背負い、十字架の上で私たちの身代わりに死の罰を受けて死なれたこと、そして三日目に罪と死に勝利して復活され、信じる者に聖霊にある復活のいのちを与えて下さることを信じるなら、水のバプテスマを受けることが出来るのです!

信仰を持って水のバプテスマを受ける者は、聖霊のバプテスマも受けます。
聖霊のバプテスマは、神の霊ご自身が授けるものです。水のバプテスマを受ける前に、既に霊によって新しく生まれ変わる者もいれば、水のバプテスマと同時の者もいます。
明確に聖霊のバプテスマを受けたと感じる者もいれば、後になって確かに自分の性質が変えられたことを通して、知る場合もあります。

いずれにせよ、イエス・キリストが私たちのために十字架で成し遂げたことを信じることです!私たちの罪の性質はキリストの十字架の死によって滅ぼされたのです。
水のバプテスマとは、私の罪深い性質はキリストともに死んだこと、キリストの死と一つになることの決意であり、信仰の表明です。

そして、神はこの信仰を認め、確かに神の霊によって私たちの性質を根本的に造りかえて下さるのです!キリストが私たちの罪のために死なれ、しかし三日目に復活したように、信じる私たちも、罪の性質に死んで、新しい神の子の性質に生まれるのです!
これがキリストにある解決であり、救いです!

【どうして?そのようなことがあり得るのでしょう?】

「ニコデモは答えて言った。『どうして、そのようなことがありうるのでしょう。』」9節

ニコデモが発した疑問、このように聞きたくなるのは良く分かります。
しかし、イエスさまはこの質問に対しては直接の答えをしていません。

キリスト教は確かに「教え」と付いているので、何か難しいイメージがあるかもしれません。聖書も分厚いので、これをぜんぶ読んで理解しなければ分からないと考える人もいるでしょう。しかし、聖書をぜんぶ読んで理解してから、信じた人はいないのです。

ニコデモが「どうして、そのようなことがありうるのでしょう」と問うたように、聖書にある教えをぜんぶ頭だけで理解することは出来ないのです!

「キリスト教」よりも「キリスト道」と言った方が本当は良いと思います。
イエスさまご自身が、「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」と仰いました。

「キリスト道」です。柔道や空手道、合気道などのように「道」とは、まず体験することなのです。その道に従って歩む時、始めて理解できるのが「道」なのです。

もちろん空手や柔道、合気道も理論の部分もあります。しかし、上達するには頭よりもからだの理解の方が重要なのです。師匠の業を見習いながら、始めて理解できるのです。

キリスト道も同じです。キリストの言葉を頭で理解できなくても、従う時、信じて歩む時、始めて霊の部分で理解できるのです!そして、今まで自分の努力では変えられなかった部分に変化が起きるのです。

神は私たちの頭よりも偉大です。なぜ自分の小さな脳みそに収まる神に、神を縮小するのですか?神は私たちの脳みそよりも遙かに偉大です。私たちに予測不能なことをされるのです。だから私たちの口からは賛美が溢れ出すのです。

キリスト教は体験宗教です。そしてキリスト教は絵に描いた餅ではなく、実際に食べられる餅です。いやいのちのパンです!食べてみなければ分からないのです。
理論だけで中身のない哲学ではないのです。

それでも理性が邪魔をして、信仰に入れない人がいるのなら、既に信仰に入った人の証を聞いて下さい。信じてどのように人生が変化したか?
キリストを信じて人生が変わらない人、考え方や優先順位が変わらない人はいません。
キリストの命は私たちの性質を根本的に造りかえる強力な力です!
引力を打ち破るロケットよりも、遙かに強い力を私たちの内面に注ぐのです!

このニコデモの教訓はしかし、既にクリスチャン・ライフを送っている私たちにも大きな教訓であります。

信じた始めの頃は、色々な変化があった、でも最近は信仰生活がマンネリ化して来た。
何の変化も新しさもない!そんな方はいませんか?

いつの間にかみ言葉を知的に理解するだけで、信仰を持って一歩を踏み出すことを忘れてしまったのではないですか?

信仰は歩みです。それは私たちの脳みその外に出て行く一歩、脳みその外におられる神に出会う一歩です。生ける神はいつも私たちの理解よりも大きいお方です!
私たちの考えを遙かに上回る生きた神といつも歩みましょう!それが信仰のいのちです。

具体的には、まだ福音を聞いたことがない親せきや友人や知人にイエスさまのことを分かちあって下さい。福音を伝えるのです。そうしたらビックリすることが直ぐにおきます。
もちろん祈って、聖霊様の導きを求めて下さいね。

しかし福音を伝えようと決心して、具体的に行動する時、考えられないようなことが次から次へと起こります。ぜひ一歩を踏み出しましょう。また一緒に福音を伝える働きをしましょう。

【信じる者は永遠のいのちを持つ】

「『だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。』」
     ヨハネ福音書3章13節から15節

「モーセが荒野で蛇を上げたように」とは旧約聖書の民数記の出来事です。
イスラエルが神の怒りと罪の呪いを受け、苦しみに喘いでいる時、神は救いを提示しました。青銅の蛇を旗竿の先端に付け、誰でもこれを神からの解決と仰ぎ見るなら救われるとしたのです。

蛇は呪いの象徴です。神は私たちを苦しめる罪の呪いを木に貼り付けにされたのです。
神の解決を信じ受け入れた者は、罪の呪いから解放されたのです。
イエス・キリストは私たちを苦しめる呪い、罪の束縛、死を身代わりに受けられました。
イエス・キリストも私たちの身代わりに、私たちの呪いを受けて死なれたのです!

キリストが十字架で死なれたのは私たちを罪と死から解放するためであったと、信じる者は今日でも新しい命を受けるのです!

私たちの救いはキリストの十字架を見上げることから始まります。
永遠のいのち、新しい神の子供としての性質は十字架の死から始まるのです!

見上げましょう!キリストの十字架を!そして一歩進んで信じ、受け入れましょう。
水のバプテスマを受けていない人は、信じてバプテスマを受けましょう。
罪を告白し、悔い改め、キリストにある新しい命を受けましょう。

キリストには答えがあります。私たちの問題の全ての解決はキリストにあるのです!