「民数記から学ぶ戒めと教訓@」
牧師 小林智彦

本日は民数記から霊的な教訓を学びましょう。

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」第一コリント10章11節から13節

パウロはイスラエル民族の荒野の試練について語っています。
それは単なる過去の出来事ではなく、私たちへの戒めであり、私たちがその出来事から教訓を得るように書かれたのだと教えています。
イスラエルの荒野の試練について書かれているのが旧約聖書の民数記です。

パウロが教えているように、私たちも旧約聖書を読む時に、単なるイスラエルの歴史として読むのではなく、信仰生活における大切な教訓として読みましょう。
イスラエルが荒野で体験した試練は、私たちの信仰生活にも起こるのです!

民数記という書の由来は、「民を数える」ところから来ています。
民数記には二回、イスラエル民族の人口調査をしたことが書かれています。
一回目はエジプトを出て二年目に行われました。

「人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、主はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。』」民数記1章1.2節

この時の調査では、二十歳以上のイスラエル人の男性で、軍務につくことのできる者は、六十万三千五百五十人でした。

そして、二回目の人口調査はエジプトを出て四〇年目に行われました。
この時のイスラエル人男性で、軍務に就くことの出来る者は六十万千七百三十人でした。

驚くことに、始めの人口調査の時に数えられた男性は二人を除いて、みな荒野で死に果ててしまったのです!この人口調査の時に数えられなかった二十歳以上の女性やお年寄りも全て、二回目の人口調査の時には死んでしまったのです。これが荒野で起きた出来事です!

出エジプトを体験して、神が約束された乳と密の流れる地カナンに辿り着いたのは、成人した男性の中ではたった二人、カレブとヨシュアだけでした。
カレブとヨシュア、そして荒野で生まれた新しい世代が神の約束の地に入ったのです!

皆さん!パウロの言葉を思い出しましょう。これは私たちへの戒めであり、教訓です。

クリスチャン・ライフにも荒野が用意されています!
イエスさまを信じて、洗礼を受けたら直ぐに天国でしょうか?違います。
イスラエルが神の驚くべき奇跡によって出エジプト、紅海を渡ったのは民族としての洗礼・バプテスマです。その後直ぐに約束の地のカナンに入りましたか?
違いますね。荒野を通らなければならなかったのです。これが戒めであり、教訓なのです。

イエスさまを信じて、バプテスマを受けて、直ぐに携挙されて神の国に入れたら何と楽でしょう。しかし、そのように救われて直ぐに天国に引き上げられた聖徒は誰もいません。パウロを始め、イエスさまの12弟子たちも激しい試練の中を通りました。

イスラエルが荒野を通って約束の地に辿り着いたように、私たちの信仰生活も、荒野を通ってから神の国に辿り着くのです!

荒野を軽く考えてはなりません。なぜなら六十万もいた男性は二人を残して皆死に絶えたからです!

しかし、これは入試の倍率とは違います。天国に入れるのが三十万分の一だと言うのではありません。能力や頑張りによって荒野を乗り越えるのではないのです。
この荒野では誰もが死ななければならないのです!

イスラエルの六十万人の男性は荒野で死に絶えましたが、彼らの子孫が荒野で生まれ、育ち新しいイスラエルとして荒野で整えられました。彼らは純粋な神の言葉と神のパンを食べて育った新しい世代、罪に満ちたエジプトを知らない世代です。

これが教訓です!

イスラエルは民族としては荒野で新しく生まれ変わったのです。エジプトで生まれた世代は荒野で死に絶えなければならなかった。荒野で生まれた偶像を知らない新しい世代だけがカナンの地に入ることが出来た。

これは私たちクリスチャンにとっては何を意味するのでしょうか?
私たちも、私たち自身は神の国に入れず、次の世代だけが神の国に入れるのでしょうか?そうではありません!私たちの罪深い性質は神の国にはいることが出来ず、ただイエス・キリストによって新しくされた神の子の性質だけが、神の国を継ぐことが出来るのです。

私たちクリスチャンは、バプテスマを受けて、それで終わりではないのです。
神の国に帰るまで、私たちは罪の性質に死に続け、そして新しい性質に生まれ変わらなければならないのです!これが私たちの信仰生活です。そして荒野の生活なのです!

私たちは古い罪深い性質のままでは、決して神の国に入ることは出来ないのです。
古い罪深い性質、先祖アダムから引き継いだ原罪に死ななければならないのです。
罪深い性質を持ったままならば、私たちが行くべき場所は永遠の裁きを受ける場所です。

しかし、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた者は、この原罪を滅ぼし、神の子供として生きるための救いと再生の道が開かれたのです。

私たちは、この荒野で自分の罪深さに気付き、そして悔い改めることが大切なのです!
罪を認めず、罪を抱えたまま神のもとに帰るのなら、私たちは主から叱られます。
罪に打ち勝つ手段を与えられたのに、罪を手放さずに大切に抱えていたら、私たちは主から大変に厳しいお叱りを受けることになります。

罪が示されているのにもかかわらず、またその罪から解放される恵の手段が示されているにもかかわらず、その罪を手放さず、恵の手段である悔い改めに進まないのならば、やがては信仰の道からも離れてしまうかもしれません。
だから決して荒野での試練を軽く考えてはならないのです。

【私たちの罪は荒野で明らかにされる】

イスラエルの民はエジプトにいる間は、自分の罪深さ、不信仰に気付かなかったようです。なぜならエジプトには偶像が満ち、あらゆる富と快楽に満ちていたからです。
闇は闇のなかでは明らかにされません。罪も罪深い場所では意識されることがありません。

しかし、イスラエルの民はエジプトを出て、何もない荒野に来た時、自分の罪深い性質が明らかにされました。

「また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。『ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。』」
民数記11章4から6節

荒野ですから、当然、肉屋はありません!肉屋も八百屋もありません。
快楽を提供するような場所が何もないのが荒野です!
イスラエル人は一斉に叫んだのです「ああ、肉が食べたい!エジプトが懐かしい!」

荒野には肉屋や八百屋、飲み屋はありませんでしたが、神さまは満ちておられたのです!神との交わりの場である幕屋が立てられ、そこに確かに神が居られる徴としての雲の柱が立っていました。神の言葉を語る預言者、指導者のモーセ、そして祭司がいました。
神の恵みは荒野に満ちていたのです。

しかしイスラエルはエジプトを恋い慕い、肉がない魚がないと不平を漏らし泣いたのです。神がイスラエルを荒野に導いたのは、彼らの罪の性質が明らかにされるためであり、彼らの罪が取り扱われるためでした。

私たちクリスチャンも、イエスを受け入れバプテスマを受ける時はバラ色の時です。
しかし、その後しばらくしてから荒野に導かれるのです。
何が荒野なのかは、その人によって違うでしょう。

ある人は日曜日に礼拝に来ることが荒野かもしれません。
「なぜ休みの日に、ゆっくり寝てられないんだ!? ああ、以前の生活が懐かしい」

過度にアルコールが好きな人、性的に乱れた生活を送っていた人は聖書を読む時に荒野の苦しさを体験するかもしれません。み言葉には酒に酔うこと、放蕩を禁じているからです。また特に不品行や姦淫については厳しい言葉で戒めています。
このような聖書のことばを読んだり、メッセージを聞くと、荒野の苦しみを体験します。

「クリスチャンになったら人世が更に辛くなった、楽しくなくなった」と言う人がいます。その通りです!そして、その人は確かに荒野を歩んでいるのです。
荒野では私たちの罪深い性質が明らかにされ、苦しみ、不平と不満が吹き出すのです。

この苦しみはいつまで続くのでしょうか?
結論から言うと、私たちの罪深い性質が死んで、滅ぶまでです!
荒野で不平不満を表し、荒野に導いたモーセと神に逆らったイスラエル人は全て滅ぼされました。私たちの罪深い性質が滅ぼされなければ、荒野からも抜け出せないのです!

クリスチャンにとって、荒野の苦しみから解放される道はどこにあるのでしょうか?
感謝なことに!私たちには救い主イエス・キリストの十字架の道があります!

キリストの十字架だけが荒野から私たちを解放する脱出の道です。

荒野で私たちを苦しめるのは神の言葉でも、神ご自身でもありません。私たちのうちにある罪深い性質なのです。この罪深い性質が私たちを死と滅びに導くのです。
そして私たち生まれながらの罪人には、罪に打ち勝つ力はないのです!

人間は罪を犯したから罪人なのではありません。
罪人として生まれているから、罪を犯すのです。神に逆らい、悪を喜ぶのです。
この性質は、死ななければ治らないのです!

しかし、あわれみ豊かな神は私たちが罪とともに永遠に滅びないように、私たちに救いの道を開いて下さいました。それがイエス・キリストの十字架です!

イエス・キリストは私たちの罪を身代わりに背負って、私たちが本来受けるべき死の罰を代わりに受けられました。これが救いであり、脱出の道です!

誰でもイエスが自分の罪のために十字架で死んだことを信じ、受け入れるなら、その人の罪はイエスが背負って下さったのです。そしてキリストの流した血潮は私たちの罪深い性質、良心を洗い清めて下さるのです。
イエスが死んで、三日目に聖霊によって甦らされたように、私たちもイエスとともに罪に死ぬのならば、聖霊によって神の子供として生かされるのです!

神の子供は荒野を喜びます!荒野は罪を満足させる物が無いだけで、神さまの恵は満ちているのです。

信仰生活を始めて、主とともに歩むことに辛さや苦しみを覚えていませんか?
聖書の教え、教会、そして牧師に対して苛立ちや怒りを覚えていませんか?
私たちは荒野にいます。荒野は私たちの罪深い性質が明らかにされる場所です。

私たちの中に信仰生活に伴う怒りや憎しみ、不平、不満があるのなら、それは私たちのうちにある罪深い性質が引き起こしているのです!罪を抱えていてはいつまでもこの苦しみから解放されることはありません。

信仰生活を止めることで、自分勝手な解放を手に入れないでください。エジプトに帰り、罪にどっぷりと漬かるなら、苦しみは無くなるかもしれませんが解決ではありません!

キリストが与えて下さった十字架こそが完全な解決、脱出の道です!
キリストの十字架の死が私たちの罪深い性質を滅ぼさなければ、解決はないのです!
今祈りの中に、自分の苦しみ、怒り、憎しみ、不平、不満の原因である自分の罪を告白しましょう!それを主に背負ってもらいましょう。

主は私たちを罪から救うために、身代わりに十字架を背負われたのです!
十字架こそ、荒野から、罪から、死からの脱出の道です!