「教会はキリストのからだ(1)」
エペソ人への手紙
牧師 小林智彦

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」エペソ1章17節から19節

エペソ人への手紙を学ぶ上で大切なのは祈りです。
聖霊様の知恵と啓示が豊かに与えられるように祈り求めましょう。

エペソ人への手紙のテーマは「キリストの体である教会」です。

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
エペソ1章22.23節
教会とは一体何なのか?教会はなぜ存在するのか?
教会についての正しい理解を持つことはとても大切です。

自分のことをクリスチャンだと考えている人の中にも、教会を大切に考えない人もいます。
家で聖書を読んでいれば、充分な信仰生活が送れると考える人もいます。
また自分の好みや、イベント目当てに教会を渡り歩く人々もいます。
このようなクリスチャンは世界的に増えていると考えられます。
この人たちの一番の関心は自分の満足です。自分の楽しみ、自分の喜びのためです。

私はクリスチャンが楽しむこと、喜ぶことに反対するつもりは全くありません!
その反対です。クリスチャンが主にあって本当の喜び、本当の満足を知って欲しいのです。クリスチャンが救われ、成長し、実を結び、喜びに満たされるには、教会が不可欠です!

キリストの教会の中に私たちが組み込まれ、キリストの体の生きた一部となる時、私たちの信仰生活は多くの実を結び、神の栄光を表し、キリストの命の喜びを共有するのです。

教会を離れた健全な信仰生活はあり得ません。煩わしい人間関係がないので、自己満足は得られるかもしれませんが、実を結ぶことは決してありません!

教会と私たちの正しい関係に目が開かれなければなりません!
教会がなぜ存在し、教会は何のために存在するのか?自分は教会とどのように関われば良いのか?それが本当に理解できないならば、教会生活はやがて苦痛になるでしょう。

だから祈りが必要なのです。聖霊様の助けにより知恵と啓示が与えられ、エペソ書にある教会の姿が見えるように私たちは祈り求めなければなりません。

行き過ぎた個人主義が、私たちの霊の目を覆い、教会を破壊しようとしています。
神の栄光ではなく、自分の滅ぶべき肉の性質である自己中心、自分を満足させ喜ばせようとする心が、聖書の真理を覆い隠しています。

特に教会についての真理が書かれているエペソ書には覆いが掛けられています!
だからパウロも、教会についての真理を書く前に、知恵と啓示の霊が注がれるように祈り、また私たちも祈り求めるようにと、この祈りを書き記しているのです。

教会は私たちの個人的な満足のために存在するのではありません!
教会は私たちの古い性質、自己中心(行き過ぎた個人主義)の上には決して建て上げられません。教会はキリストの体であり、キリストの十字架の死を通して罪に死んだ者、聖霊に導かれて歩む者によってのみ建て上げられるものなのです。

キリストの体に組み込まれることこそ、神の御心に生きることであり、実を結ぶ信仰の歩み、聖霊にある喜びと力に溢れるのです!

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」エペソ1章23節

【良い行いとは、キリストの体を建て上げること】

「充実した信仰生活のためには、教会に加わることが大切なんですね!」と、この程度の理解で終わらないでください。
エペソの手紙は私たちが教会に加えられることこそ、救いあると教えています。

エペソ2章は私たちの救いにの経緯について書いてあります。
キリストに出会う以前、私たちはどのようなものであったのか?

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」エペソ2章1節から3節

キリストに出会って救われる以前の私たちの姿です。
霊的には死んでおり、悪霊の支配に置かれ、滅びに向かって歩み、神の怒りを受ける者でした。全く良い実を結ぶことの出来ない存在でした。

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」エペソ2章4節から6節

神は罪人の私たちを愛してくださった!そしてキリストの死といのちに継ぎ合わせてくださったのです!それは具体的にはバプテスマ(洗礼)を通してキリストの死(罪に対する死)を通して罪人として死に、キリストの復活のいのちに結びつけられ、新しい神の子として再創造されたのです。

しかし、ここで理解して欲しいことは、キリストに継ぎ合わされることはキリストの体である教会に継ぎ合わされることなのです!
キリストと教会を分けることは出来ないのです!

私たちはキリストの体である教会に組み入れられたから、聖徒であるのです。
キリストの体である教会に組み入れられたから、私たちもキリストの体なのです!

キリストを信じていると言っても、もしキリストの体である教会に組み入れられていないのなら、私たちは依然として霊的に死んでおり、不従順の霊に従い、怒りの子なのです。
またバプテスマを受けていても、キリストの体である教会と自分の関係に目が開かれず、教会を批判し、教会から離れている者も、同じように霊的には死にかけており、不従順の霊に惑わされており、その生き方は聖霊を悲しませるのです!

「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
エペソ2章7節から9節

救いが自分の努力の結果ならば、私たちは救われた後、気ままに自分の生きたいように生きて良いのです。しかし、私たちは自分の努力の結果救われたのではなく、キリストの努力の結果として救われたのです。私たちは既にキリストと一緒に死んで、葬られました。
いま生きている私は、キリストのうちにある私であり、私はキリストと教会のものなのです。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2章10節

私たちはキリストの命にあずかり、再創造された神の被造物です。
私たちの所有権は古い自分から、イエス・キリストに移ったのです。これが救いです。
そして神の所有、神の作品となった私たちは、神の「良い行い」をするべきなのです。
このエペソ2章でパウロが言う「良い行い」とは、前後の関係から教会を建て上げることを指しています。「良い行い」の具体的内容は同じ2章の19節〜22節を指しています。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
エペソ2章19から22節

私たちの救いはキリストの死と復活に継ぎ合わされ、そしてキリストの体である教会に継ぎ合わされることなのです!私たちは救われて神の作品となりました。それは神の良い行い、つまりキリストの体をこの地上に建て上げることなのです。
自分が継ぎ合わされているキリストの体である教会が成長すること、それが私たちの霊的な成長であり、私たちは頭であるキリストを賛美し、証しするのです。

私たちの救い、私たちの成長が、キリストの体である教会とどのように関わっているのか聖霊様によって目が開かれましょう!教会は私たち自身なのです。