「主の晩餐」
第一コリント11章17節から34節
牧師 小林智彦

今週も第一コリントから主のみ言葉を学びましょう。
今週の通読箇所はルカによる福音書の1章から8章です。メッセージと通読箇所がずれてしまいますが、通読はいつも通り続け、さらに本日の聖書箇所も読み返して下さい。
メッセージ箇所は第一コリントの11章です。
なぜ今週も続けてコリントの手紙から学ぶのかと言いますと、この11章から14章は教会と礼拝の秩序についてパウロが教えている大切な箇所だからです。

コリントの前はレビ記を学びましたが、そこで強調したことは自分が楽しみ、喜ぶための礼拝から、神を喜ばせる礼拝について学ぶことでした。
レビ記、ならびに旧約の律法が読み辛いのは自分勝手が赦されないからです。
礼拝と儀式に関して、すべて神の方法が細かく定められていました。
つまり礼拝とは私たちの方法ではなく、神の方法に私たちが従うことが前提なのです。
神を喜ばす礼拝とは、神の方法に従うこと、それを守ることが無ければ成り立ちません。

コリントの教会には幾つもの問題がありました。
分派・分裂の問題、先週学んだように自分の権利と自由を過度に主張し、信仰の弱い人を踏みにじる問題、そして無秩序な礼拝の問題でした。

「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」14章33節
「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。」14章40節

パウロはこの手紙を大切な目的のために書きました。それは分裂から一致のために、そして無秩序から秩序のために、霊的幼子から霊的な大人へと成長させ、愛に生きるためです。

11章から14章までは教会と礼拝の秩序、また一致について書かれていますが、その真ん中の13章は有名な「愛の賛歌」の箇所です。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」
第一コリント13章4節から8節

この箇所はほとんど全てのクリスチャンによって知られ、愛されている聖書箇所です。
しかし、この愛は分裂と分派のある教会では決して実現できない愛です。
この偉大な愛は教会の分派・分裂を乗り越えたところにあるのです!
またこの愛はキリストの体が互いの賜物を通して支え合い、助け合い、神の栄光のために一致して進む時に表されるのです。

コリントの教会は自分の知性を誇り、自分の権利と自由を乱用して信仰の弱い者たちを踏みにじりました。そうすることで愛を踏みにじったのです。
コリントの教会は勝手にグループを作って、他のグループと議論し、争い、分裂を教会に持ち込みました。分裂こそ愛を壊す原因です。
コリントの教会では神の定めた権威を軽んじる信徒たちがいました。口では神を愛していると言いながら、神の定めを軽視していたのです。
またコリントの教会ではキリストの完全な愛の現れである十字架の死を象徴する「主の晩餐」の意味を見失い、軽んじることでキリストの愛を否定していました。

私たちの教会はどうでしょうか?「愛は大切!互いに愛し合おう!」と言いながらも、コリントのクリスチャンたちと同じことをしてはいないでしょうか?

【 主 の 晩 餐 】

今日、特に皆さんと分かちあいたい箇所が「主の晩餐」についての箇所です。
「主の晩餐」は、私たちが聖餐式と呼んでいるものと同じです。
「主の晩餐」、聖餐式の意味と目的をコリントのクリスチャンたちは見失っていました。
私たちもこの箇所から聖餐式の意味と目的を正しく学びましょう。

「ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。」
第一コリント11章17節から22節

これがコリント教会の状態でした。パウロは「あなたがたをほめません」とハッキリ注意しています。パウロは決してイエスマンではありませんでした。感謝すべきことは一つ一つ神の御前に覚え、心の感謝を捧げましたが、注意すべきことはハッキリと指摘しました。パウロにとって「主の晩餐」が正しく守られていないことは見過ごせないことでした。

「主の晩餐」が守られない一番の原因が分派・分裂にありました。
当時の聖餐式は「主の晩餐」と呼ばれるように、夜に守られていたようです。
この箇所からは具体的なことは良く分かりませんが、パン一切れだけを食べるのではなく食事になっていたようです。それぞれがパンと葡萄酒を持ち寄ったのでしょう。
本来なら皆が食事の席に着き、主を覚えるために祈ってからパンを裂けば問題は無かったのですが、分派・分裂の問題から一致が保たれないままの普通の食事になっていた。
そして先に食事を始めたグループが、他の人たちの分のパンと葡萄酒を飲んでしまい、もう既にお腹一杯になって酔っぱらっている人たちと、食べ物が無くてお腹を空かせたままの人たちがいたのです。一つの教会であるのに、「主の晩餐」を守るどころか、普通の食事会すら持てないほど一致の無い教会でした。

パウロにとって、教会内に一致が無いまま「主の晩餐」が形だけ守られることは見過ごすことの出来ない問題でした。
なぜなら「主の晩餐」、聖餐式の目的は一致することにあるからです!

私たちの救い主イエス・キリストとの一致、そしてクリスチャン同士の一致です。
キリストに結び付き、そして互いに結び付いて一つのキリストの体を建て上げるのです。
その一致のために、キリストは「主の晩餐」、聖餐式を守るように定められたのです。
コリントのクリスチャンは一番大切な「一致」を見失っていました。

「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」第一コリント10章16.17節

パウロは「主の晩餐」、聖餐式はキリストにあずかる(コイノニア=交わり、一つになる)ことだとハッキリと教えています。そしてキリストと交わる者は、キリストが一つであるように一つになると教えています。

つまりキリストとは交わりを持つけれど、同じキリストと交わりを持っているあの兄弟、あの姉妹とは交わりを持ちたくないと言うことは出来ないと教えているのです!
これはとても大切な真理です。

多くの人がイエス・キリストを愛している!キリストのためなら死んでも良いとさえ言っているのに、キリストの体である兄弟・姉妹を赦すことが出来ないでいる。
一致を保ち、交わりを深めるための責任を忘れてしまっている。

私たちはどんなに努力してもキリストを養うことなど出来ません。神を養うことは人間が出来ることではないのです。しかし、キリストの体に対しては私たちは立て上げるための努力は出来るのです。キリストの体とはキリストを信じる兄弟・姉妹です。

ヨハネも同じことを言っています。「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することは出来ません(第一ヨハネ4章20節)」と。

キリストと交わりを持つことは、キリストの体であるクリスチャン同士の交わりを持つことです。キリストを愛するとは、キリストの体である教会、兄弟・姉妹を愛することです。
キリストとキリストの体を分けて考えないようにしましょう!

【主の晩餐の大切な要素】

「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」
第一コリント11章23.24節

レビ記からいけにえとその捧げ方について学びましたが、イエスさまがパンを裂かれたのも、いけにえの捧げ方に従っていると思います。
まずパンを取られました。いけにえの動物は自らが引いてきて、そして自分の手をいけにえの動物の上に置くのでした。イエスさまは感謝を捧げられました。いけにえを捧げる者は自分の罪を告白することが求められています。私たちはパンを取り、自らの罪のためにイエスさまがいけにえとなられたこと、そしていけにえの子羊である主を送って下さった父なる神に感謝を捧げるのです。この祈りを通していけにえに自分の罪が移りました。

それからイエスさまはパンを裂かれました。いけにえを捧げる者は自分自身で動物を屠らなければなりませんでした。自分の罪が赦されるには、いのちの代価が必要であり、自らの罪がいけにえの動物を殺したことを意識するためでした。
私たちはパンを裂く時に、キリストを殺したのは自分であることを覚えるべきです。

「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」
第一コリント11章25節

葡萄酒(ジュース)の杯は、キリストが私たちと契約を結ぶために流された血を象徴しています。神がイスラエルと契約を結ばれる時に、モーセが血を振りまいたように、契約の締結には血が必要でした。イエスは十字架で自分の血を流して、私たちと契約を結ばれたのです。これは神の恵の契約です。私たちはイエスを信じる信仰によって神の子とされたのです。私たちはキリストの流された血によって罪が赦されたのです!
神の怒りと律法の呪いから私たちは解放されました。罪と死の滅びから解放されました。

この杯から飲む度に、キリストと結んだ恵の契約を思い起こしましょう。

「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」第一コリント11章26節

この26節も大切な教えです。それはこの大きな恵に対する私たちの当然の応答が書かれています。この無代価で与えられた恵、そして神が私たちを愛していのちまで与えてくれたことを私たちは当然、まだ知らない人たちに伝えるべきです。
これは私たちの当然の責任でもあるのです。私たちは聖餐式を通してキリストと交わり、この大きな神の愛と救いの意味を再確認し、キリストを伝える思いを新たにしましょう。

【自分を吟味しなさい】

「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」第一コリント11章27.28節

パウロは自分を吟味しなさいと警告しています。
なぜなら相応しくないままでパンを食べ、杯を飲むならば、キリストの血と体に対して罪を犯すことになるからです。パウロがキリストに対してと言わずに、キリストの血とキリストの体とを分けていることに注意して下さい。

吟味するのはキリストの流された血潮に対して、キリストと結んだ恵の契約に対して自分は忠実であるのか吟味して下さい。キリストは私たちの罪のために死なれたのです。
私たちはキリストの血によって罪からきよめられた者として歩んでいるか?
またキリストの愛と恵を分かちあっているか?
吟味しましょう。キリストとの関係において示された罪があるのなら悔い改めましょう。

またキリストの体である教会に対して罪を犯していないか吟味しましょう。
キリストの体である兄弟・姉妹を愛しているか?愛を行っているか?
私たちの関係が上辺だけの関係、形式的なものになってはいないか?
一緒に集まり、一致を保ち続けるための努力を怠っていないか?
兄弟・姉妹が滅ぶべき罪を犯していながら、見て見ぬふりをしていないか?

主の前に吟味しましょう!そして罪が示されるなら素直に神の前に悔い改めましょう。
その上でパンと杯を取りましょう。

頭であるキリスト、そしてキリストの御体である教会との一致がなければ、私たちは13章の愛を行うことは出来ません。しかし、頭であるキリストとしっかりと結び付き、キリストの体である教会としっかり結び付く時、キリストから愛と聖霊が豊かに流れ、愛に生きる力に満たされるのです。