「キリストにある自由と愛」
第一コリント8章から11章1節
牧師 小林智彦

「次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」
第一コリント8章1節から3節

コリントの8章から11章1節までは、愛と自由について学ぶ大切な箇所です。
パウロはクリスチャンの愛と自由を、教会内で起きていた問題を通して教えています。

コリントの教会には「偶像にささげた肉」ついての混乱がありました。
「偶像にささげた肉」とは、市場で売られている肉のことです。コリントの町の中心には愛の女神アフロディーテを祭る神殿がありました。コリントの町はこの偶像の宮を中心に発展したのです。そのためあらゆる市民生活に偶像礼拝の影響がありました。
市場で売られている食用の肉も、偶像に礼拝行為をしてから屠殺されました。

そのため、コリントのクリスチャンたちの間に食肉に関して様々な意見の対立が起きたのです。ある人は偶像にささげた肉を食べることは偶像礼拝に関わることになると考えました。またある人は、偶像の神は本来存在しないのだから、偶像にささげた肉を食べても偶像礼拝に関わることにはならないと考ました。

偶像の神は存在しないと確信する人たちは、市場で売られている肉を食べない人たちを信仰が弱いと裁いていたようです。そして彼らの良心を踏みにじって、食肉を勧め、また自分たちは偶像は存在しないとの知識をさらに見せつけるために、神殿での飲食をも行ったようです。つまり食肉キャンペーンを行ったわけです。

それによって偶像の神は存在しないと言う確信がまだ無い人も、信仰が弱いと思われないために、人目を気にして肉を食べ、その後で罪責感にさいなまれる信徒がいたようです。

パウロは偶像の神は実際には存在しないことに関しては同意しています。
偶像の神に儀式を通してささげられた肉も、決して汚されることは無いとの考えに同意しています。しかし、この知識をどのように用いるのかが大切であると言うのです。

偶像の神は存在しない、それは真理だが、その確信を持てない人たちもまだ存在している。真理に基づく知識であっても、それを振り回すことによってある人々の信仰が混乱し、良心を傷つけるのなら、あなたは愛によって行動しているのではないとパウロは警告しているのです。

そして偶像の神は存在しないと自分の知識を誇って、偶像の神殿での祭儀にまで参加する信徒には、あなたは偶像ではなく、その背後にいる悪霊と関わっていると警告しています。

パウロの指導に対しては反発が当然予想されました。
「肉を食べて何が悪いのか?肉を食べようと食べまいと、私の自由だ!」と。
「偶像の神は存在しない!それが真理であり、正しい知識なら偶像の宮で食事をしても自分の自由のはずだ!」と。

「日本の教会で考えられるケース」を考えてみましょう。

パウロはこのように答えています。

「知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」第一コリント8章10から13節

パウロはたとえ正しい知識であっても、その用い方が大切だと教えています。
たとえ自分の自由であっても、神の家族に躓きを与えるのなら、パウロはその自由を放棄すると言っています。これが愛なのです!

たとえ真理に基づく知識であっても、たとえ保証された自由であっても教会のメンバーに不快感を与え、信仰の躓きとなり、間違った方向に導くのなら、それは罪なのです。

「私には自由がないでしょうか。」第一コリント9章1節

パウロのような生き方を不自由と考える人は少なくないでしょう。教会のメンバーに配慮して、自分の自由を制限する。とても窮屈な生き方のように聞こえます。

パウロは自分の自由について、どのように考えていたのでしょうか?

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」第一コリント9章19節

パウロはキリストにあって本当に自由の人でした!その自由は、隣人を建て上げ、キリストの栄光を表すためには自分の自由を放棄し、喜んで奴隷になれる自由を持っていました。
パウロはキリストの栄光のために、自由を主張する時は思い切って主張し、放棄する時には徹底的に自由を放棄したのです。パウロこそ自由を活用した人物でした。

神と隣人のために自分の自由を放棄すること、これが愛です!

コリントのクリスチャンは自分を自由人だと誇り、自分の知性を誇っていました。
しかし、彼らの知性はキリストの体である教会を破壊し、自己主張から解放されていない自由でした。それは肉(古い性質)に属する自由であり、霊(神の子)に属する自由ではなかったのです。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」
第一コリント10章31節から11章1節

私たちはキリストにあって神の子です!生まれつきの自分、自分の栄光を求め、自分の権利だけ主張する古い性質に、キリストとともに死んだ者です!

神の子は神の栄光を表すことを求め、神と隣人のためには進んで奴隷になる、自分の自由を放棄できる性質です。パウロが模範を示しました。そしてその生き方はイエスさまの生き方です。私たちもパウロのように、イエスさまに倣う者となりましょう。

自分の栄光のために、自分の権利だけを主張する自由は肉の自由です!
肉の自由が十字架に付けられないなら、神の家族は滅ぼされてしまいます。
教会の中でも、この世と同じで自分の権利を強引に主張する人が支配するようになります。我が儘で、自分勝手な人に教会は滅ぼされてしまうのです。

私たちは自分の自由を放棄できる真の自由に生きているか?自分の自由を他者を建て上げる愛のために用いているか吟味しましょう。

そして聖霊様の助けを求めて、神の権利を捨て、自分のいのちまでも捨てて私たちを愛して下さったイエスさまに従いましょう。