「あなたがたは神の神殿」
コリント人への手紙第一、1章から7章
牧師 小林智彦

今週の通読箇所はコリント人への手紙第一の1章から8章までです。
教会が置かれていたコリントの町自体は偶像に満ち、性的な不品行に満ちた町でした。
またギリシャ人特有の知識を誇る価値観が蔓延していました。
そのためコリント教会はとても問題が多い教会であり、パウロを悩ませていました。

しかしコリント人への手紙は私たちに多くの教訓を与える書です。
私たちは失敗から多くの教訓を学ぶことが出来ます。
コリントは偶像に満ち、性的に乱れた町であり、知識を誇る町です。それは今の日本と重なる点が多いのではないでしょうか?日本も偶像に満ちています。性的にはコリント以上に乱れています。そしてギリシャ人のように知性を誇っています。
コリント人への手紙から、私たちは多くの教訓を得ることが出来ます。

【感謝するパウロ】

「私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。」第一コリント1章4節

コリント人への手紙はコリント教会内の問題に対してパウロが書き送った手紙です。
コリント教会には分派の問題がありました。ペテロ派、アポロ派、パウロ派、そして自分たちだけが本当のクリスチャンと自称するキリスト派までいました。
勝手に派閥を作って、教会内で競い合っていたのです。
パウロ派以外のグループは教会の中でパウロが使徒であることを疑ったり、パウロの欠点を指摘して自分のグループを自慢していました。
またコリント教会内には信じられないような不品行の問題があり、また酒に酔ったまま礼拝に参加して、礼拝をメチャクチャにする信徒までいました。

これらの問題に対処するために書かれたのがコリント人への手紙ですが、その書き出しは「感謝」で始まっています。「あなたがたのことをいつも神に感謝しています。(4節)」

この言葉はお世辞でしょうか?私はそうではないと思います。パウロは本当にコリント教会の信徒たちを神に感謝していたのです。
問題があったとしても、コリントの教会は教会です。教会はキリストの体なのです。
主イエスさまがコリントの人々を愛し、教会として建て上げて下さったのです。

私たちはパウロの姿勢を見習いましょう!
私たちの教会にも問題があります。日本の教会にもたくさん問題があります。
問題があるからと言って、「こんな教会はダメだ!日本の教会はダメだ!」と言う前に、まず自分が属する教会を与えて下さった神に感謝しましょう。そしてキリストの体である教会を感謝しましょう。問題は確かにあります。完璧な教会など存在しないからです。
しかし、良いところもたくさんあるのです。そして神のあわれみと恵を覚えるなら、感謝すべきところはたくさんあるのです。

教会に対し、また教会の信徒、また牧師に対してもただ批判的な態度、あら探しは止めましょう。それは何の解決にもなりません。
教会の問題を解決しようと取り組むなら、先ず感謝することから始めましょう。
そして神の恵みを数えましょう!良いところを見つけましょう!

これは教会に限らず、家庭においても私たちが取るべき態度です。
家庭にもたくさんの問題があります。問題なら直ぐに指摘できるでしょう。
しかし、まず感謝を私たちは覚えましょう。家庭があること自体、素晴らしい恵です。
両親の存在を神に感謝しましょう。伴侶を、子ども達を主に感謝しましょう。
神の家庭における恵を覚え、家族の良い点を主に感謝しましょう。

感謝をもって問題を見るなら、嘆きにはなりません。
感謝を持って問題を見るなら、問題は成長のための課題に変わっていくのです!
感謝の心を持つならば、問題は無くなります。成長のための課題へと変えられるのです!

【あなたがたは神の神殿です】

「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。』また、次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる。』ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」
第一コリント3章18節から23節

コリント教会の問題、成長への課題は彼らの知的な高ぶりにありました。
コリントですからギリシャです。ギリシャは哲学、そしてあらゆる学問の発祥の地です。
コリントのクリスチャンたちもギリシャ人としての知性を相当に誇っていたようです。
彼らは自分の知性をひけらかすために良く議論していたようです。
そして議論で相手を言い負かすと、自分の方が知者であると誇り、相手を従わせていたようです。知的な暴力を振るっていたとも言えるのです。

彼らは信仰の土台から離れて、知性を比較し合う土台へと移っていきました。
信仰の目標が、議論で勝つことに変わってしまったのです。

彼らは自分の知性の尺度で優れてると思った教会指導者を自分の派閥のリーダーにして、リーダーたちを勝手に比較し合いました。そしてこれは、教会全体を巻き込む議論になり、教会の目標も大きく曲げられてしまったのです。

そこでパウロは教会で行われていた議論に対して指摘しました。

「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。』また次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる。』ですからだれも人間を誇ってはいけません。」第一コリント3章18から21節

教会内で誰が一番優れているか議論すること自体が無益なのです。
だれも人間を誇ってはならないのです。

コリントのクリスチャンたちは信仰の目標を間違えたのです。
クリスチャンの信仰の目標は、自分を誇ることではありません。議論して自分の正しさを認めさせることではないのです。

私たちの本当の目標は神の栄光を表すために、自らを神の住まいとして建て上げることなのです。

「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」
第一コリント3章13節

私たちが真のクリスチャンかどうかは議論によって明らかにされるのではありません!
主が再臨される時、主イエスご自身が私たちを正しく評価されるのです。
私たちの地上の課題は、他のクリスチャンと議論や比較で優れることではなく、主の再臨の火を覚えて、主に喜ばれ、主に評価される愛の働きを推し進めることなのです!

私たちの信仰の目標もコリントのクリスチャンたちのようにズレてしまってはいませんか?以前の日本の教会でもメガチャーチ・ムーブメントというのが流行しました。
大きい教会堂、ショーアップされた礼拝、フルバンドの賛美、沢山の会衆。
少し大きくなった教会は自分たちの教会堂の大きさを誇り、会衆の数を誇りました。
もちろん、それが御国の拡大のためにつながるのなら良いことでしょう。
しかし、コリント教会と同じように、ただ他教会と比較して、この世の価値観で優れるためなら何の意味も無いのです。

私たちも気を付けましょう!大きい教会堂、優れたメッセンジャー、優れた賛美リーダー、それらは素晴らしいです。しかし、それは主の再臨の日に行われるあなたの評価とは何の関係もありません!あなたがどんなに素晴らしい教会に所属していたかは関係無いのです。あなたが何をしたのか?あなたが神の栄光を表すために何をしたのかが評価されるのです。

本質を見誤らないように気を付けましょう。
神の栄光を表すのはあなたです!あなたが神と人を愛し、神の御国を建て上げるために何をしたのか?主の再臨の日に耐えうる神殿を自分の中に建て上げましょう!

【正しくない者は神の国を相続できない】

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」第一コリント6章9節から11節

パウロの厳しい警告に私たちは耳を傾けましょう。
パウロはハッキリと警告しています、「正しくない者は神の国を相続できない」と!
そして何が正しくないのか、罪のリストを明確にリストアップしています。

パウロはコリント人への手紙では特に不品行の罪を取り上げています。
性的な罪を表すことばに姦淫と不品行の二つが用いられています。
姦淫とは結婚している者が伴侶以外と性的な関係を持つこととであり、不品行とは未婚の男女が性的な関係を持つことと定義している聖書学者がいます。

日本はコリントに負けず劣らず性的な罪が溢れています。
日本でも不倫、つまり既に伴侶がいるのにもかかわらず、他の異性と性的関係を持つことは非難されています。堂々と不倫する人は少ないです。
しかし結婚前に不特定多数の異性と性的関係を持つことや、結婚する前に同棲することに関してはクリスチャンの間でも罪と考えない人がいるようです。
しかし、それは大きな間違いです。聖書はハッキリと不品行の罪であると警告しています。

これらの罪を行っているなら「神の国を相続できない」のです!

さて「神の国を相続」するとはどういう意味でしょうか?
二つあります。一つ目は皆さんが直ぐに思い浮かべるように、主の再臨の時から始まる千年王国、また新天新地における永遠の神の御国です。これに入れない、神の子として受け継ぐことが出来なくなると言う厳しい意味です。

そしてもう一つは、既に来ている神の国、つまり神の霊である聖霊様との交わりが断たれると言う意味です!

不品行、姦淫、そして酒に酔うこと、これらは直ぐに聖霊様との関係を断ち切ります。
もちろん他の罪もそうです。偶像礼拝、盗み、これらも同じです。
酒に酔いながら、聖霊に満たされることがあり得るでしょうか?絶対にありません。
不品行や姦淫を行いながら、聖霊さまに満たされることは無いのです。

「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」ローマ14章17節

罪によって聖霊様との関係が絶たれると、直ぐに分かることは喜びが無くなることです。
神を礼拝する喜び、賛美する喜び、聖書を読む喜び、福音を伝える喜びが無くなります。
救われた時のことを思い出して下さい!心の中からいのちの川が流れ出る喜びがあったはずです。私は日曜日が待ち遠しくてたまりませんでした。そして教会に行く朝は、朝日が輝いているのを覚えています!喜びです!聖霊は私たちに喜びと情熱をもたらします。

しかし、罪はその喜び、情熱を取り去るのです!賛美の喜びを取り去り、聖書を読む喜びを取り去ります。

不品行は罪です。結婚前に性的関係を持つことは罪です。同棲も不品行です。
たとえ国が同性同士の結婚を認めるようになっても、同性愛は罪です。
聖霊との関係を断ち切り、その罪を悔い改めないなら神の国を相続できなくなります。

完璧な人だけが神の国を相続するのではありません!
私たちは弱く、不完全です。私たちが弱さによって罪を犯しても神は悔い改めるなら豊かに赦して下さいます。心から悔い改めることです!

しかし、悔い改めの前にすべきことがあります。
それは聖霊が罪であると聖書で警告している罪を罪と認めることです。
この世の常識では同棲や同性愛が当たり前になってきても、罪であることを認めることです。それがなければ悔い改めはないのです。

パウロはコリント7章で不品行を犯さないための具体的な提案をしています。
それは結婚です。

「しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」第一コリント7章9節

独身では誘惑が非常に強いのが今の日本だと思います。
インターネットや携帯電話を通じて、不品行や姦淫の罪に私たちを誘惑してきます。
一人だと罪に立ち向かうのが難しくても、二人なら助け合えます。

しかし結婚はパウロに言わせると最善の解決ではありません。
最善の解決は7章7節「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。」
パウロは不品行の誘惑に会わなかったのでしょうか?
パウロは性的な誘惑には耐えられる特殊な人だったのでしょうか?

私はそう思いません。パウロも性的な誘惑に対して、私たちと同じように弱かったのだと思います。それならばなぜパウロは結婚しなくても性的誘惑から守られたのでしょうか?

パウロは宣教旅行を単独で行わず、いつもチームで行動しました。
テトスやテモテも独身者でした。その他にも何人もの男性に囲まれていました。
パウロは自分の問題、弱さを告白し、祈りあうコミュニティーを持っていたのです。
誘惑に陥りそうな時、直ぐに祈ってもらえる祈りのパートナーを持っていたのでしょう。

悪魔は食い尽くすべき者を求めながら吠え猛る獅子のように歩き回っています。
クリスチャンライフを単独で送っているなら、簡単に悪魔の餌食になります。
結婚している人は夫婦で互いのために祈り合って下さい。家族のために祈って下さい。
独身の人は、互いに祈り合える同性の祈りのパートナーを自分の為に持つべきです。

私たちは罪に対して敏感であるべきです。そして私たちを誘惑する悪魔よりも賢くならなくてはなりません。誰ひとり神の国を相続できない者にならないように、互いに助け合いましょう!