「全焼のいけにえ」
レビ記1章
牧師 小林智彦

先週に続いて、今週もレビ記からみ言葉を学びましょう。
レビ記から礼拝の本質について大切な原則を学ぶことが出来ます。
神に喜ばれる真の礼拝者へと成長するために、レビ記から原則を学びましょう。

【全焼のいけにえ】

「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。」
レビ記1章2.3節

「ささげ物」はヘブル語で「コルバーン」、元々の意味は「近づける」でした。
「ささげ物」を捧げることは礼拝の中心であり、「ささげ物」は私たちを神に近づけることは先週学びました。

レビ記の「ささげ物」で始めに登場するのが「全焼のいけにえ」です。
「全焼のいけにえ」は旧約聖書の中では他のささげ物に比べ一番多くの記述があります。
ノアが箱船から出て、先ず始めに「全焼のいけにえ」を神に捧げました。
神はアブラハムにその子イサクを「全焼のいけにえ」として捧げるように彼を試みました。
「全焼のいけにえ」は「ささげ物」の中でも最も重要な「ささげ物」と考えられます。

「全焼のいけにえ」は新共同訳聖書では「焼き尽くす献げ物」と訳されています。
新共同訳の方が分かりやすいと思います。その名の通り煙になるまで焼き尽くす捧げ物です。ヘブル語は「オーラー」で、もともとの意味は「上る」でした。
自分を神に捧げ尽くす、献身を表明する捧げ物でした。

【全焼のいけにえの捧げ方】

「その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。」4節


すべてのいけにえを捧げる時に要求されていることは、いけにえの頭の上に手を置くことです。捧げる者が手を置くことで、その人の罪がいけにえに移ることを表しています。
また手を置く時に、心に示されるあらゆる罪を告白しました。

「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。」レビ記16章21節

神がいけにえを捧げる者に要求していることは、罪の明確な自覚です。
罪の明確な自覚なしには、罪を告白することなしには、いけにえは無意味であるのです。

私たちには雄牛や子羊よりも遙かに優れたいけにえが神から与えられました。
それは私たちの救い主であるイエス・キリストです。
イエス・キリストは二千年前に全人類の罪を取り除くために十字架に架かりました。

しかし、それならば全ての人の罪は赦され、全ての人が救われたのでしょうか?
そうではありません!ただ個人的に、心から自分の罪を自覚してキリストに罪を告白し、キリストに自分の罪を委ねた者だけが救われたのです。

罪の明確な自覚、キリストに罪を告白することが私たちと神を近づけるのです。

ヨハネは第一の手紙1章6節から10節で同じ原則を教えています。

「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。(6節)」

神の前に罪を隠して生きることは、闇の中を歩むことと同じです。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。(7.8節)」

神の前に罪を告白する者が御子イエスの血を受け、罪が赦されるのです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(9.10節)」

罪を神の前に明確に自覚し、罪を告白する者だけが罪の赦しときよめを受けます。
罪を犯さない完全な者が神に近づくのではありません。罪のない者はいないからです。
神は罪を覚え、それを告白する者を御子イエスにあって赦し、きよめ、神との交わりに招き入れてくださるのです。


私たちは日々、自らの罪をキリストの前に自覚し、罪を告白し、神との交わりの中に赦しときよめをいただいて歩みましょう。これこそが神が願う礼拝者の生き方です。

【贖いの血潮】

1:5 その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。

いけにえの動物は捧げる本人が屠らねばなりませんでした。
動物を屠殺する経験はほとんどの人がないと思います。
現代では電気ショックや炭酸ガスによる麻酔、銃などで屠殺するそうです。
それは動物がなるべく苦しまずに、短時間で死ぬために考案された方法です。
しかし、旧約時代には刀で頸動脈を切る方法しかありませんでした。
屠殺の方法は聖書には具体的には記されていません。イスラム教徒は現在もいけにえを捧げるそうですが、彼らは動物の後ろ足を縛り、逆さに吊ったところを直ぐに頸動脈を切るそうです。しばらく動物は暴れるそうですが、それにより短時間で血が頭に回り、動脈から流れ出て死ぬそうです。旧約時代に行われていた屠殺方法はこれに近いと思われます。

神はいけにえを捧げる本人が、動物を屠らなければならないと定めています。
鳥のいけにえ以外は全て、捧げる本人が屠らなければならなかったのです。
この行為は強烈に自らの罪を自覚させることになったでしょう。

この動物が死ななければならなかったのは、いけにえを捧げる者の罪のためです。
パウロは罪から来る報酬は死であると書いていますが、このいけにえを通してユダヤ人たちは罪の罰は死であり、死を持ってしか罪は赦されないことを覚えさせられたのです。

そして動物からはおびただしい量の血が流れ出します。祭司はその血を運び、祭壇の回りに注ぎかけました。雄牛一頭の血液量は大変な量です。大人の牛で一頭600キロあります。そして血液は6%を占めるそうなので、単純に計算すると36キロです。
一頭の牛からは30リッター以上の血液が流れ出てくるのです。ポリタンク2個分です。

17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。レビ17章11節

贖いとは代価を支払って買い戻すと言う意味と、覆いをするの二つの意味があります。

買い戻すとは私たちが罪によって失った神との関係を買い戻すと言うことです。
そのためには神が与えて下さったいのちによらなければならないのです。
私たちが神との関係を元通りにするのは、私たちの努力や頑張り、善行ではなくて、ただ神が備えた恵の手段によるのです。

血は私たちの罪を覆います。また神の罪に対する怒りと裁きを覆うのです。
そして、この血は神がそのために備えて下さったいけにえの動物の血によるのです。

この原則は変わりません。だからイエス・キリストも十字架の上で血を流されたのです。
キリストの流された血は私たちを死と滅びから贖いだし、私たちの罪を覆いました。

私たちを贖い、私たちの罪を赦すことが出来るのは神の定めたいけにえの血によるのです。
神は完全な贖いのために、御子イエス・キリストを私たちに与えられたのです。

キリストが十字架で死なれたのは、自分の罪のため!キリストを屠ったのは自分である!
この罪の自覚こそ、キリストの流された血を受ける手段です。

キリストの流された血が私たちの心をきよめます!
キリストの流された血が私たちの罪を覆います。律法は私たちの罪を責められません。
既にキリストの血によって覆われているからです。罪への怒りと裁きは過ぎ去りました。

神が備えて下さったキリストと、その流された血潮を覚えましょう!
私たちはキリストにあって神の子です。

【祭壇の火を消してはならない】

6:9 「アロンとその子らに命じて言え。全焼のいけにえのおしえは次のとおりである。全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。

6:12 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。
6:13 火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。

6章には全焼のいけにえを捧げる祭司の役割と注意が書かれています。
新約時代の祭司とは私たち一人ひとりです。キリストの恵によって私たちは祭司なのです。祭司の努めは朝ごとに全焼のいけにえを神に捧げることでした。

私たちは完全な全焼のいけにえとしてご自身を捧げられたイエスを朝ごとに覚えましょう。私たちのために十字架で死なれたイエス、私たちを贖うために血を流されたイエスを朝ごとに礼拝しましょう!これは私たち祭司の努めです。

そして、祭壇の火を決して消してはならないと注意されています。
神に対する熱意を私たちは失ってはなりません。神に仕える情熱を保ち続けましょう!
私たちの神に対する熱意は熱いですか?神を愛する情熱、神に仕える情熱は冷めていませんか?

もし神への情熱が冷めているなら、火が消えそうなら、聖霊様を求めて祈りましょう!
神への熱い賛美を捧げましょう。全焼のいけにえとなったイエスを熱烈に誉めたたえましょう。主イエスに情熱を持って仕えましょう。その熱さを、火を聖霊様からいただきましょう。