「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」
レビ記1章から10章
牧師 小林智彦

今週と来週は旧約聖書のレビ記が通読箇所になります。メッセージ箇所もレビ記です。
旧約聖書は創世記、出エジプト記の20章ぐらいまでは楽しく読めますが、十戒を越えた辺りで急に読むのが辛くなってきます。細かい律法、また幕屋の詳細な説明、祭司の服装。そしてレビ記になると動物犠牲の捧げ方が書いてあります。何かただ繰り返しのようで、また何の目的かも良く分からず、読み進めていくと段々と眠くなってしまいます。

旧約聖書を通読したことがないと良く聞きます。
旧約聖書と新約聖書の関係が分からないと言う方もいます。
特にレビ記が分からないと嘆く人もいます。

パウロはローマ人の手紙で私たちとユダヤ人の関係をオリーブの枝と根に喩えています。

「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。」ローマ人への手紙11章16から18節

野生種のオリーブとは私たち新約時代のクリスチャンを指しています。
そして私たちを支える根とは、旧約時代の信仰の祖先たちであり、また旧約聖書も指していると考えて良いでしょう。

新約聖書をより良く理解するためには、旧約聖書の理解は欠かせません。
なぜなら旧約は新約聖書の根に当たる部分です。
切り取った花も美しいのですが、やがては根がないので枯れてしまいます。
しかし鉢植えの花は根があるので長持ちします。そして花が落ちた後には実を結びます。
私たちの信仰も同じで、新約の恵は旧約の理解の上にさらに豊かにされるのです。

旧約の理解はイエスさまの十字架の犠牲の意味を更に深くします。

【レビ記の目的】

それではレビ記が書かれた目的について学びましょう。
レビ記だけを取り上げても、私たちはその内容についての理解は半端なものになります。
レビ記は出エジプト記の次ぎに位置する書物です。物語の流れを理解することが大切です。

「モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。『あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。(3節)あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。(4節)今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。(5節)あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。(6節)』」出エジプト記19章3節から6節

主なる神はモーセを通してイスラエルを死と滅びの国であるエジプトから、また奴隷の状態から解放しました。そしてイスラエルと契約を結びました。それは5節にあるように、イスラエルを「私の宝」にするためです。そして宝の民であるイスラエルを神は整えて祭司の王国、聖なる国民にしようとされました。
主はイスラエルと契約を結ぶために十戒を与えられ、契約の内容を説明されました。
そして祭司の王国とするために出エジプト記の後半からは幕屋と祭司についての決まりを示されました。そして祭司が捧げる礼拝と聖なる国民としての行いについてはレビ記に示されています。

レビ記には宝の民であるイスラエルを祭司の王国とするため、聖なる国民にするため、神が定められた方法が書かれています。

なぜ私たちがレビ記を学ぶのでしょうか?その理由は何でしょうか?
それはモーセを通してイスラエルを救った神が、イエス・キリストを通して私たちをも救われたからです!イスラエルを宝の民とされた神は、私たちをもイエスにあって宝の民として整えようとされているのです。

イスラエルを祭司の王国、聖なる国民と整えようとされた神は、私たちも祭司の王国、聖なる国民に整えようと願われているのです。

レビ記はイスラエルを祭司の王国、聖なる国民にするための神の手段が書かれています。
レビ記は1章から10章までが礼拝について書かれています。
神が喜ばれる礼拝について書かれています。それは先ず犠牲について書かれています。
そして祭司の努めについて書かれています。
11章から27章までが聖なる国民の歩みについて書かれています。
この二つの目的のためにレビ記は書かれているのです。

レビ記の1から10章までに、礼拝の本質が書かれています。
それは先ず全焼のいけにえから始まります。

初めてレビ記を読む人は疑問だらけになるでしょう。
なぜ神は動物の生け贄を求められるのか?なぜ焼き尽くす必要があるのか?
そして眠くなります。自分にとっては何も楽しくないからです。
ここがレビ記を理解する上での一番のポイントです!
レビ記は読んでいても面白くも楽しくも何のです!
なぜなら、私たちを喜ばせるためにレビ記は書かれていないのです。
レビ記が書かれたのは私たちを喜ばせ楽しませるためではなく、私たちを救って下さった神を喜ばせ、神を楽しませるための書なのです。

レビ記を含め律法の書は自分を楽しませる読み物ではありません!
神に喜んでもらうための、神の定めた方法が書かれているのです。

ここが礼拝の土台です!礼拝とは私たち人間が楽しみ、喜ぶためにあるのでありません。
神に喜んで戴くためのものなのです。人間中心の礼拝は礼拝であっても神に受け入れられるとは限りません。神はカインの捧げ物を退け、アベルの捧げ物を喜ばれました。

レビ記は神が定められた礼拝の規定が細かく示されています。
神はご自分を礼拝するための方法をハッキリと提示されたのです。
神の定めに従うこと、これが神を主とすることです。神を神とすることです。

神を主と呼びながらも、自分が主である人はレビ記の本質を理解できません。
自分が先ず心の王座から降りて、謙らなければなりません。

しかし、私たちが神の前に謙り、心の王座から降りて神のみ言葉に従い、神を神とする時、神は私たちを宝の民と喜ばれるのです。これは私たちが聖なる民、祭司の王国になるための手段なのです。

【神へのいけにえ】

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(1節)
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(2節)」ローマ人への手紙12章1.2節

パウロはローマ人への手紙12章で、新約時代のクリスチャンが神に捧げる礼拝について大切な原則を教えています。そして興味深いことは、この1.2節はレビ記を構成と一致していることです。一節ではパウロは神に受け入れられる、聖い、生きた供え物について述べています。これはまさにレビ記の1章から10章までの内容に一致します。
また2節の「この世と調子を合わせては生けません」、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために」はレビ記11章から27章の神の聖別、聖なる民の歩みの教えと一致します。

レビ記の原則とローマ人への手紙でパウロが教えている礼拝と聖徒の歩みの原則は一致します。パウロがキリストにある聖徒の歩みとして書いた12章1.2節を深く理解するためには、レビ記の理解は欠かせません。

それではレビ記からいけにえを通しての礼拝を学びましょう。

「主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。』」レビ記1章1.2節

神は先ず「ささげ物」についてモーセに告げられました。
「ささげ物」を捧げることは礼拝の中心です。
礼拝には大切な要素があります。
神を拝み、ひれ伏すこと。神に仕えること。そして、神に「ささげ物」を捧げることです。

「ささげ物(ヘブル語:コルバーン)」は、もともとの意味は「近づける」です。
「ささげ物」は、「私たちを神に近づける」と言う意味があります。

神は繰り返し、「ささげ物」を持ってくることを命じています。

「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。」申命記16章16節(参照箇所 出23:15,34:20)

神が繰り返し「主の前に、何も持たずに出てはならない」と言われたのは、「ささげ物」は神に近づくための手段であり、礼拝の大切な要素だからです。

私たちはこの原則をしっかりと覚えましょう。
繰り返して言いますが、礼拝はまず第一に神を喜ばすためにあります。

しかし、注意しなければならないのは、私たちの礼拝において「ささげ物」は献金だけを指しているのではありません。献金も大切な「ささげ物」ですが、もっと大切な「ささげ物」があります。それは私たち自身であります。

自分自身を捧げることが、最も優れた「ささげ物」です。
ただ自分自身を捧げることは、あまりにも抽象的です。それを具体化するために、み言葉に対する献身があります。自分の考えとは違っていても、神のことばが明確に教えていることがあるなら、神のみ言葉に従って自分の生き方を変えることです。

み言葉に対する献身、これは最も優れた神への捧げ物であり、礼拝の大切な要素です。

そして、感謝と賛美の「ささげ物」があります。神に進んで感謝の祈りを捧げ、心から神を讃える賛美を捧げること、これは私たちを神に近づける「ささげ物」です。

そして献金も素晴らしい「ささげ物」です。お金は労働の対価として得られます。
皆さんが捧げる献金は、主に仕えることであり、収穫の実を感謝して捧げることです。

私たちがこれらの「ささげ物」を主に捧げるなら、それは主が喜ばれる礼拝になるのです。
そして、これらの「ささげ物」は皆さんを主に近づけます!
主に近づけられれば近づけられるほど、私たちの心には本当の喜びが湧き上がってきます。

自分自身を喜ばすための礼拝と、真の神を喜ばす礼拝の違いを知ってください。
神を喜ばす礼拝こそ、私たちの霊が喜び、私たちの人世を変える源です。
しかし、神が喜ばれる本当の礼拝を捧げるためには、先ず痛みが伴い、古い性質に対する死が伴うことを覚えなければなりません。

「もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。」レビ記1章3から5節

3節と4節には「受け入れられるため」と繰り返されています。
主に「受け入れられる」手段は、神ご自身が定めておられるのです。

聖書はハッキリと私たちには罪があり、罪あるままでは神には受け入れられないことを教えています。そして罪は私たちの努力や善行によっては決して贖われることは無いのです。
「贖う」という言葉が出てきますが、これは「覆う」と言う意味があります。
罪が覆われることなしに、神の前に出ることは決して出来ないのです。

良い行いや、この世の地位、また私たちの能力や才能によって自分の罪を覆うことは出来ません。ただいけにえの血によってのみ私たちの罪は覆われるのです。

神は全焼のいけにえをささげる者がいけにえを連れてきて、屠ることが定められています。
そして、その前にいけにえの動物の頭に手を置きます。
それは捧げる者の罪がいけにえの動物に移るためです。4節には直接書かれていませんが、罪の告白が当然伴ったと考えられます。そしていけにえの動物を、捧げる者が屠殺します。
自分の罪にはいのちの代価が必要であることを覚えさせるための行為かもしれません。
そして流された血は祭司によって祭壇の回りに注がれました。それは罪を覆うためです。

ヘブル人への手紙によると、動物のいけにえは礼拝者を完全にすることは出来ないと書かれています。ハッキリと「雄牛とやぎの血は、罪を除くことが出来ません(ヘブル10:4)」と書いてあります。動物のいけにえの血は一時的に罪を覆うことは出来ても、罪そのものを取り除くこと、また捧げる者の良心を清めることは出来ませんでした。

「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」ヘブル10章14節

神は恵によって、完全ないけにえを今日私たちのために備えてくださいました。
私たちは動物のいけにえを捧げる必要はないのです。

しかし、レビ記を学ぶ時、私たちはなぜいけにえが必要なのか、そしてなぜキリストが十字架に付けられ、血を流されたのか、その深い意味を見いだすことが出来ます。

いけにえを捧げる者がいけにえの動物の頭に手を載せ、罪を告白したように、私たちも日々、キリストに自分の罪を告白しましょう。また私たちの罪がキリストを十字架に付けたことを覚え、罪から清められることを真剣に求めましょう。私たちの心を清めるために流されたキリストの血を覚えましょう。