「あなたは、わたしを誰だと言いますか」
マルコによる福音書8章29節
牧師 小林智彦

「それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』彼らは答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。』するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」マルコによる福音書8章27から29節

イエスさまは私たち一人ひとりにも同じように問いかけています。
「あなたは、わたしを誰だと言いますか」と。

イエスは一体誰なのか?

頭の良い人はキリスト教の神学の本を読んで「イエスはキリストです」と答えるでしょう。しかし、イエスが尋ねているのは「あなたは、わたしを誰だと言いますか」です。

自分にとってイエスは誰なのか?その答えが、その人の信仰になるのです!
信仰とは一体何か?

信仰についてもキリスト教の辞典や神学書をひもとけば、こと細かく定義されています。
しかし、ひと言で言うならば、「私にとってイエスは誰なのか?」、それが信仰です。

人の信仰を借りてこないで下さい。
「回りの人がキリストだと言っているので、自分も多分そうだと思います。」
これは借り物の信仰です。本人の言葉になっていません。
それは他人の信仰であって、自分の信仰、自分を導き、自分を生かす信仰ではありません。

「私にとってイエスは誰なのか?」、耐えず自分に問い続けて下さい。


【ペテロの信仰告白】

ペテロは「あなたは、キリストです」と答えました。
これはペテロの信仰から出た告白でした。何か正解を出そうという動機からではなく、それ以外には考えられないと言うペテロのイエスへの思いが表れたのです。
マタイの福音書ではイエスさまはペテロの信仰の告白を喜ばれたことが書かれています。

ペテロの信仰告白に続き、他の弟子たちも「あなたこそキリストです」と次々に信仰を告白しました。それは心からの告白であり、弟子たちの信仰そのものでした。
イエスさまは弟子たちが正しい信仰を告白したことを心から喜ばれたのです。

イエスさまの公の生涯において、弟子たちの信仰告白は大きな転換点です。
弟子たちの信仰告白の直後に、イエスさまは初めて十字架の死と復活を語り始めます。

イエスさまの公生涯を旅に例えるなら、弟子たちの信仰告白以降は十字架に向かう旅が始まるのです。

弟子たちの信仰告白以前は何を目的とした旅だったのでしょうか?
それはまさしく弟子たちの信仰を育てる旅だったと言えるでしょう。
弟子たちがイエスはキリストであると明確に分かるように、弟子たちの心に信仰を植え付け、正しい告白が出来るまで養い育てることが目的の旅と言えるのです。

そしてイエスさまの目的は、マルコの福音書では8章29節で遂げられたのです。

「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」




【信仰告白とプロセス】

このペテロの告白の直後にイエスさまは十字架の死と復活について語り始めます。

「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
マルコ8章31節

イエスさまにとっては新しい旅の始まりです。それは公生涯の後半部の始まりでした。
ご自身の受難と十字架の死、そして復活についてハッキリと弟子たちに示されました。

イエスさまは弟子たちの信仰の状態を良くご覧になり、彼らの信仰の状態に合わせて弟子たちを導いておられることが良く分かります。イエスさまは真の羊飼いです。
良い羊飼いは羊の状態を良く知り、群れの状態を良く知って群れを導かれます。
イエスさまが一番の関心を持って見ていたのは、弟子たちの信仰の状態でした。

イエスさまは始めから十字架の死を弟子たちに示しませんでした。
十字架の死と復活を始めから教えても、弟子たちは全く意味を理解できなかったでしょう。
そしてイエスさまに対しては間違った信仰を抱く可能性もありました。

弟子たちに食べやすい信仰の食物を与え、適度な信仰の訓練を与えて弟子たちの信仰を育てられたのです。そして十字架の死と復活について語っても大丈夫かを確認してから、教え始められました。

イエスさまは弟子たちとの信頼関係を築き、そして信仰の成長のプロセス(過程)を大切にされる方です。

今日でもイエスさまはプロセス(過程)を大切にされます。
私たちの信仰を越えてしまう真理を私たちに示されません。また私たちの信仰を越えてしまうような使命も私たちに与えられません。

だれでも霊的な成長、信仰の成長には順序があります。誰でも始めは霊的な幼子です。
幼子には幼子の大切な食事があります。赤ちゃんに、栄養があると言ってステーキを食べさせたら、直ぐにお腹を壊してしまうでしょう。

自分の信仰の成長状態を知ることは大切なのです。
「自分にとってイエスは誰なのか?」、借り物の信仰ではなく、自分の心からの告白が、自分の状態を明らかにするでしょう。

借り物の信仰で、信仰生活を送ると疲れ果ててしまいます。
イエスが自分の救い主、神であり、自分の主人だという明確な確信が無くては、イエスさまと一緒に十字架を背負うことは出来ません。

愛してもいない人に、「あなたのことを愛してます」と口先だけで言うのと同じです。
実感が全く沸かないし、やがては疲れるでしょう。借り物の信仰は疲れるのです。

私たちがイエスをキリスト、自分の主人とするには信仰のプロセス(過程)が必要です!
イエスさまはお一人お一人にその信仰のプロセス(過程)を用意されています。

私たちがいま直面している問題が、イエスさまが備えて下さっている信仰のプロセスです。イエスさまと問題を乗り越えることによって、私たちの心の中には主に対する確かな告白が生まれるのです。

イエスさまと問題を乗り越えることによって、私たちはイエスさまは今も生きて、助けて下さる方であると、心から信じ告白することが出来ます。

苦しい時、主を覚え、主の約束を信じて堅く立つ時、私たちの心の中には平安が流れてきます。主は私たちを癒し、慰める方であると心から信じ告白することが出来ます。

キリストを体験することから告白が生まれ、キリストに対する告白が信仰そのものです。私たちは苦しみのなかに、問題のなかに、導きのなかに、キリストを体験するのです。
体験のない告白は生まれません!告白のない信仰も無いのです。


【信仰の旅】

私たちのクリスチャン・ライフは信仰の旅です。
ともに歩んでおられるキリストを体験し、告白し、真の神の姿を更に深める旅です。

弟子たちはイエスの教えを聞き、イエスこそモーセを越える教師であることを知り、またイエスの言葉がすべて実現することを見て、この方こそ生ける神のことばであることを知ったのです。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
ヨハネ福音書1章1節

ヨハネが福音書の冒頭で語っている言葉は、ヨハネが頭で考えた哲学ではありません。
イエスさまとともに歩んだ彼の心から告白の言葉なのです。
イエスさまはペテロの信仰の告白を喜び、ヨハネの信仰の告白も喜んでおられます。
神は私たちの信仰の告白を心から喜ばれるのです。

私たちはイエスさまとともに信仰の旅路にあります。
あらゆることの中にイエスさまを見いだしましょう。イエスさまがどんな助けを与えて下さるのか、イエスさまの教えがどんなに確かであるかを体験しましょう。

イエスさまは弟子たちが「あなたは、キリストです」と正しく告白するために、弟子たちを荒波のガリラヤ湖を通らせました。イエスさまは海と風を言葉で支配することが出来ることを示すためでした。またイエスさまは弟子たちに、パンがないのに4千人の人々を養うように命じました。それはイエスさまこそ、天からのパンであることを示すためでした。

私たちの地上の生涯はイエスさまとの旅です。旅の目的はイエスさまを正しく告白することです。不平や不満、不信仰な告白によって主を悲しませないようにしましょう。
私たちの人世を導いておられるイエスさまにいつも、「あなたは、キリストです」と、私たちの信仰を告白しましょう。