「キリストの十字架の死と復活に与る」
ローマ6章4節から8節
牧師 小林智彦

【 聖 書 朗 読 】

本日の礼拝はイエス・キリストの復活を記念する復活記念礼拝です。
二千年前、私たちの罪の身代わりとなって死なれたイエスさま、しかし主イエスは死んで終わりではありませんでした。三日目の朝、日曜の朝に復活されたのです!
罪と死に勝利してイエス・キリストは復活されました。
私たちは主イエスの勝利と復活を心から喜び、主を誉めたたえましょう。
主が復活したこと、それがグッド・ニュース!福音の中心です!
なぜグッド・ニュースなのかと言えば、主イエスの復活は私たちの人世を根底から変えてしまう神の恵みの力だからです。

それでは主イエスが復活された朝の出来事を聖書から見ていきましょう。

朗読箇所:ヨハネによる福音書20章

【変えられた弟子たち】

イエス・キリストの十字架の死と復活は弟子たちを変えました。
ただの心の変化ではなく、新しく創造されたと言っても言い過ぎのない変化です。

弟子たちを新しい存在に創り変える直接の原因は三つあります。
第一がキリストの十字架の死と復活を目撃したこと。
第二がキリストの昇天を目撃したこと。
第三がキリストの約束である聖霊様を受けたことです。

これらの体験が弟子を新しく創り変えました!

この体験以前も弟子たちは聖書を学び、キリストに従い、祈っていました。
しかし、十字架以前の弟子と聖霊を受けた弟子たちはまるで別人です。

弟子たちはゲッセマネの園で、イエスの傍らで眠りこける弟子でした!
人を恐れてイエスを知らないと嘘を付く弟子もいれば、イエスを見捨てる者もいました。
彼らの信仰の歩みは不安定で、人と自分を比較し、実を結ばない歩みだったのです。

しかし、使徒の働きを読めば、聖霊を受けた後の弟子たちがどのように変えられたかを見ることが出来ます!まさしくイエスさまの似姿に変えられたのです。

この朝、私たちは神の御前で自分の信仰生活を吟味しましょう。
自分は十字架以前の弟子の状態に留まっているのか?
それともキリストの十字架の死と復活のいのちによって新しく創られた者か?

もしキリストの十字架の死と復活を体験していないなら、この朝、キリストの死と復活の力を体験しましょう!キリストの十字架の死と復活は私たちを変える神の力です!

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」第二コリント5章17節

これがキリストの死と復活が私たちに与えるものです。キリストの十字架の死と復活に私たちも組み入れられ、新しく造られた者に変えられましょう!

【私たちを変える力】

キリストの死と復活がなぜ私たちの人世を変えることが出来るのでしょうか?
弟子たちはどのようにしてキリストの死と復活によって人世が変えられたのでしょうか?

パウロはローマ人への手紙6章でキリストの十字架の死と復活がどのように私たちを変えるのか教えています。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」
ローマ人への手紙6章4節から8節

キリストの死を象徴するバプテスマを受けることが、キリストの死と私たちを継ぎ合わせるのです。キリストが死なれたのは私たちの罪のためであり、私たちの罪を背負って身代わりに罰としての死を受けて下さったのです。

キリストの死は罪を滅ぼすための死です!私たちも信仰により、バプテスマによってキリストと結び合わされているのなら、その死の力が私たちのうちにある罪を滅ぼすのです。

バプテスマを受けるとは、罪に生きる人生に死ぬことを決意した証です。
バプテスマは教会員になるための儀式ではありません。もちろん神の体に加えられる意味も含まれるのですが、直接的には罪深い生き方に死ぬことを神と人の前に誓うことです。
キリストの死に結び合わせられ、キリストの命に結び合わせられる信仰の行為なのです。

それではバプテスマを受けるなら自動的にキリストの死の力が流れて来て、自然に罪深い生き方から解放されるのでしょうか?

ある罪に関しては、そういうことも考えられます。
信仰告白に伴い、聖霊がその人を助けて下さるからです。
キリストを救い主として告白し、主を心に招き入れるなら、聖霊様がその人の心に住んで下さいます。そうすると罪に対する自覚が生まれ、何が罪なのかを分からせて下さいます。
そうすると、私たちは良心が少しずつ清められ、罪に対する抵抗力が増し加わります。
このように罪が清められ、そして神と人を愛する生き方に変えられていくことを聖化と呼びます。キリストを信じ、そしてバプテスマを受けて罪に死に、キリストの復活のいのちを受け入れるだけで自然に聖化されていく場合もあります。

しかし、ある罪に関してはバプテスマを受けた後もなかなか止められないことがあります。
誰にでも、その問題はあります。クリスチャンになる前から習慣的に犯し続けてきた罪、悪習慣、そして聖書と異なる優先順位に生きることなどは自然に解決しないことがあります。これらは意識的に悔い改めていかなければならないのです。

私たちの心の中には罪の砦があります。この砦に気付きましょう!罪の要塞です。
これは悔い改めを拒絶し、キリストの十字架の死を拒絶する砦です。
その中には私たちの古い性質が陣取っているのです。

罪の要塞には色々な種類があります。
不信仰という罪の砦があります。主を第一として生きていくと、様々な困難があります。
その時私たちは不信仰という罪の砦に逃げ込むことがあります。
「信仰は信仰、生活は生活」と信仰と生活を分けて住み分けている人がいます。
教会に来る時はクリスチャン、教会を一歩出たらこの世の価値観で生きる。
日本で信仰を第一にしてたら生きては行けないと言う不信仰の砦があるからです。
自分の内にある罪の砦に気付き、それを手放さなければなりません。
これは意識的に行うことです。

砦をみ言葉によって取り壊し、中に隠れている古い性質を十字架に付けなければ、罪に対する勝利、キリストの復活に与ることは出来ません。

今まで習慣的に行ってきた罪を止めることは勇気が必要です。
そして痛みと苦しみを耐える忍耐力も必要です。
またその罪に関連する品物や人間関係も具体的に処理しなければなりません。

何度も言いますが、このような習慣になっている罪は自然には解決しません。

イエスさまも私たちの罪を背負うために、どれ程苦しまれたかを覚えましょう。
パウロはこのように言っています。

「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(5節)」

パウロは「もし私たちが」と仮定法で文章を始めています。つまりパウロはキリストの死と同じになることは自然にそうなるという可能性を否定しています。
「キリストの死と同じようになる」とは、いつか気付いたらそうなるのではなく、信仰による決断です。皆さんも古い人、罪の性質に死ぬことを決断して下さい!

イエスさまは自分の罪ではない、私たちの罪の十字架を背負って下さったのです。
そしてイエスさまは罪と死ぬために十字架のくびきをともに背負おうと呼びかけておられるのです。イエスさま一人が十字架に架かって死ぬだけでは、その罪を滅ぼす死の力は私たちには来ません。イエスさまとともに十字架を背負い、イエスさまとともに苦しみ、イエスさまとともに死ぬから、イエスの復活の力も私たちに臨むのです。

罪に死ぬことを避けたい気持は良く分かります。
イエスさまもゲッセマネの園で血の汗を流すほど苦しまれました。
イエスさまは私たちの罪のためにそこまで苦しまれたのです。私たちは自分の罪のために同じように取り組むべきです。しかし、一人ではありません!イエスさまがともにいて下さいます。

以前も分かちあいましたが、最近の私は楽しさや幸運のなかよりも、忍耐のなかに、み言葉を守ることの辛さのなかに神を見いだします。

生活のなかで上手く行かない時、私もついカッとなります。しかし、主の忍耐を覚えて、怒ることよりも愛することを選ぶ時、そこに主を見いだすのです。

私たちが自分の罪を擁護する罪の砦を放棄する時、自分の罪を止めるために辛さ、苦しみ、忍耐を試される時、その時こそ私たちはともに十字架を背負って下さり、苦しみ、辛さをともに背負って下さる主を知るのです。

罪を否認し、罪を肯定し、この世の価値観に流され、罪を楽しむ生活のなかには、どこをどう探しても主はおられません!

洗礼は受けた、聖書も読んだ、でも!復活の主を知らないクリスチャンは少なくありません。それは自分の罪をともに背負うキリストを知らないからです!
自分の罪に死ぬことが無ければ、自分の罪のために死んで下さったキリストを知ることは出来ません!キリストとともに死ぬ者だけが、復活のキリストに出会い、その新しい命に生かされるのです!

この朝、私たちは罪の砦を放棄し、古い人を滅ぼすための十字架を背負う決意を新たにしましょう。

罪の砦には不信仰があります。神の約束よりも今の状況の方を信じ信頼する心の態度です。
罪の砦には延期という砦があります。家に帰ったら悔い改めようと言うのが延期です。
罪の砦には気ままという砦があります。気が向いたら悔い改めようと言うのが気ままです。

私たちはこの罪の砦を信仰、従順、勇気によって取り壊さなければなりません!

十字架を経なければ復活はありません。主が背負われた十字架の後を私たちも自分の十字架を背負い従いましょう!