「過越しの祭りとキリストの十字架」
出エジプト記12章1節から42節
牧師 小林智彦

今日はイエスさまのエルサレム入城を記念する「棕櫚の主日」、「パーム・サンデー」と呼ばれています。イエスさまが十字架に付けられるまでの苦しみを覚える受難週の始まりです。この週、私たちは、私たちの罪を代わりに背負って苦しめられたイエスさまの苦しみを覚えましょう。神の愛はキリストの十字架に表されています。
キリストが受けた苦しみ、キリストが背負った十字架を思う時、私たちの心にハッキリと神の愛の大きさ、深さ、広さが分かるのです。

【過越しの祭りの由来」

イエスさまが十字架に付けられ死んだ日は、ちょうどユダヤ人の過越しの祭りの日でした。
これは決して偶然ではなく、神が計画された日でした。
イエスはユダヤ人指導者たちの妬みや恨みから殺害されたのではなく、その死は神の偉大な計画を実現するための死でした。イエスは神の偉大な目的の為に死なれたのです。

イエスはなぜ十字架で死ななければならなかったのか?
イエスの十字架の死は何のためだったのか?
それはイエスが十字架で死んだ日、過越しの祭りと大きな関係があります。

過越しの祭りの由来は、旧約聖書の出エジプト記12章1節から42節に記されています。

イスラエルと彼の子孫70人がカナンの地の飢饉を避けてエジプトに避難してから400年が過ぎ、イスラエル民族はおよそ300万人に増えました。イスラエルの人口増加に危機感を持ったエジプトのファラオは、奴隷労働をもってイスラエルを苦しめます。
苦役に喘ぐイスラエルの叫びを聞いた神は、解放者としてモーセを選びます。
モーセは神から授かった奇跡を通してファラオにイスラエルをエジプトから開放すように要求しますが、ファラオは要求に応じません。神は頑ななファラオに対してエジプトに十の災害を下します。十番目の災害、それは今までの災害の中で最も恐ろしい物でした。

「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。」出エジプト記12章12節

神はエジプトを裁き、激しい罰をエジプトに下されたのです。
しかし、神の民であるイスラエルだけはこの災害から免れました。
神は神の民がこの厳しい裁きを免れるように、神の民に一つの印を与えられました。

「イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。(3節)」
「あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。(6.7節)」
「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。(13節)」出エジプト記12章3.6.7.13節

かもいと門柱に羊の血が塗られたイスラエルの家だけは神の裁きは通り越したのです。
神の恐ろしい裁きが全エジプトに臨みました。

「真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。『おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、主に仕えよ。おまえたちの言うとおりに、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。』エジプトは、民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。人々が、『われわれもみな死んでしまう。』と言ったからである。」出エジプト12章29から33節

神がエジプトに下した十番目の災いはエジプトの神々を裁き、頑ななファラオの心を砕きました。そしてイスラエルを苦しみと奴隷の地であったエジプトから、ファラオの支配から解放したのです。これが過越しの祭りの由来です。
子羊の血が塗られたイスラエルの家だけは神の裁きと罰は過ぎ超しました。
そしてイスラエルは解放され、神の約束の地カナンに向けて旅立ちました。

イスラエルはこの月を民族の第一の月と定め、過越しの祭りを祝うようになったのです。イエスが十字架に付けられたのは、まさに過越しの祭りの日、犠牲の子羊が屠られるその時だったのです!

【過越しとキリストの十字架】

イエスの十字架の死は決して偶然に起きたことではありません。
またキリスト自らの作為によって、この日に十字架に架かったのでもありません。
イエス・キリストを遣わした天の父なる神が、過越しの日に十字架の死を定めたのです。

ユダヤ人の過越しの祭りと、キリストの十字架にはどのような関係があるのでしょうか?
天の父なる神はなぜ過越しの日に、ご自分の一人子が十字架に付けられることを許したのでしょう。

新約聖書の時代に生きる私たちクリスチャンが旧約聖書とその出来事を理解する上で、大切な原則を教えてくれるのはヘブル人への手紙です。ヘブル人への手紙のキーワードは、「さらに優れた」、また「より優れた」です。
少なくともこの言葉はヘブル人への手紙の中で15回用いられています。

御使いよりもさらに優れたキリスト、さらに優れた契約の仲介者であるキリスト、旧約時代のいかなる犠牲よりも優れたキリスト、大祭司よりも優れたキリスト、などです。
ヘブル人の手紙ではイエス・キリストは旧約時代のあらゆる救いよりも、よりすぐれた救いをユダヤ民族だけではなく、信じる全ての人々に与える者であると教えているのです。

イエスさまご自身も自分のことをこのように教えています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」マタイによる福音書5章17節

旧約聖書の時代ではユダヤ民族に限定されていた救いを、イエスさまは、よりすぐれた救い、全世界のすべての人々に及ぶ、大いなる救いに拡大されたのです。
ユダヤ人だけの救いと解放であった過越しを、自らが過越しの子羊となることで、イエスを信じる全ての人々に救いと解放をもたらしたのです!

過越しの祭りの日に十字架に付けられたイエス、イエスを私たちの救いのために神が備えて下さった過越しの子羊と信じ、その流された血を自分の罪のためと信仰によって受け入れるなら、私たちの罪は赦されるのです。

信仰によってイエスの血を受けた私たちには、やがて来る神の最後の裁き、神の怒りからも救われるのです。世の終わりには神がエジプトを裁かれたように、全世界を裁かれます。イエスを信じる者には、イエスの血が塗られているのです。神の裁きはイエスの血が塗られている者を過越していくのです。

過越しはイスラエルをエジプトの地とファラオの支配から解放しました。
イエス・キリストは私たちを死と滅びから救い出し、罪の束縛から解放します。

聖書は罪を犯している者は誰でも罪の奴隷であると教えています。
そして罪が私たちに支払う報酬は永遠の死です。

イエスを信じる者は罪の束縛と支配から救い出され、またイエスの復活のいのちを受けて、永遠の滅び、死からも救い出されるのです!

イエスはこの完全な救いをユダヤ人だけではなく、信じる全ての者に与えられました。
イエスは自らを過越しの子羊とすることで、この救いを私たちにもたらしたのです。

【この月の十四日までそれをよく見守る】

今日はイエスさまのエルサレム入城を記念する「棕櫚の主日」、「パーム・サンデー」です。イエスさまが十字架に付けられるまでの苦しみを覚える受難週の始まりとされます。
イエスさまがこの日曜にエルサレムに入られたのにも理由があります。

「イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。(3節)あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、(6節)その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。」
出エジプト記12章3.6.7節

モーセは過越しの羊を「この月の十日」に用意しなさいと命じています。
イエスさまはまさにこの言葉に従ってニサン(アビブ)の月の十日にエルサレムに入られたのです。モーセは「あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る」と書いています。私たちも私たちの救いのために十字架に架かられたイエスの苦難を覚え、イエスを良く見守りましょう。

イエスは十日にエルサレムに入られ、十四日までの毎晩、オリーブ山で夜を過ごされたと聖書にあります。最後の夜はゲッセマネの園で祈られました。私は毎晩、ゲッセマネの園で祈られたのだと思います。イエスは最後の夜は血の汗を流しながら天の父に祈りました。その時イエスは弟子たちにこのように言っています。

「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。』それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。』それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
マタイによる福音書26章36節から41節

私たちはこの週、私たちの救いのために痛み苦しまれた主を覚えましょう!
主の苦しみ、痛みをみ言葉の中に、また祈りの中で覚えましょう。
神の愛は十字架の中にこそ完全に表されているのです。