「十戒は神と人への愛」
出エジプト記20章
牧師 小林智彦

本日は聖書通読箇所から「十戒」を学びましょう。
お配りした「十戒」をご覧下さい。ご一緒に拝読しましょう。(出エジプト記21章)

【 十 戒 】

十戒は律法の中心です。旧約聖書における最も大切な戒めです。この戒めはイスラエルに与えられただけでなく、私たちクリスチャンにも与えられている戒めです。
もし十戒を覚えていないのなら、ぜひ暗記して下さい!

十戒は私たちにとって幸せへの確実な道です。十戒を守る者は神の祝福を受けます。

また十戒は私たちにとってガード・レールです。この外に外れるなら、そこは崖です。
谷底へと転落していくのです。十戒は私たちにいのちと平安を約束します。
また神と人とのいのちある関係を維持します。十戒は最も大切な戒め、普遍の法則です。

十戒とは何か?なぜ与えられたのか?十戒を守るとどうなるのか?について学び、戒めに対するアレルギーや拒否反応を取り除いきましょう。そして積極的に十戒を守り、戒めを越えた世界、神の愛を本当に生きるものになりましょう。

十戒の1から4までの戒めは神に対する戒めです。
そして5から10までの戒めは人に対する戒めです。
新約聖書でイエスさまは十戒を二つの戒めに要約しておられます。

「『先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。』そこで、イエスは彼に言われた。『「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』」マタイによる福音書22章36節から40節

このイエスさまのみ言葉は旧約聖書を、そして十戒を要約している言葉です。
戒め(律法)は何のためにあるのか?それは「愛」を行うためにあるのです。
私たちは「愛」が大切であることを誰もが認めています。しかし本当の「愛」が分からないのです。沢山の男女が「愛」を語り合い「愛」を誓い合いながら関係が破綻しています。
それは本当の「愛」を知らないからです。

多くの人が「愛」を感情と捉えています。しかし、それは気分に左右されます。
それはただの「恋愛感情」です。それはギリシャ語では「エロス」の愛です。
「エロス」は、本来は価値あるものを愛する愛です。つまり価値がないと思ったら、その時点で「エロス」の愛は冷めていくのです。とても気まぐれな愛です。
何故なら自分の勝手な価値観に基づいているからです。

しかし、神の愛は決して気まぐれではありません。また私たちが家庭で、教会で実践する愛も決して気まぐれであってはならないのです。気まぐれではない「愛」、それは神の「愛」である「アガペーの愛」です。これは相手の価値によらない愛、無条件の愛です。

神の戒めである十戒は私たちにアガペーの愛を実現させ、また自分が真の愛に生きているかを示す神の尺度なのです。

【わたしは、あなたの神、主である】

「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出したあなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」出エジプト20章2.3節

イスラエルが、そしてクリスチャンである私たちが律法を守る理由がここに書かれています。イスラエルにとってはエジプトから解放して下さった神を神とすることは当然でした。私たちも同じです。クリスチャンはエジプトから解放されたのではなく、死と滅びから救い出され、罪とサタンの奴隷状態から解放されたのです。
主を唯一の神とすることは、この解放された状態に留まることをも意味します。

イスラエルにとっては主を唯一の神としないことは、再びエジプトと神々の奴隷になることを意味しました。クリスチャンも同じです。十戒を守るか守らないか?それは私たちにの自由です。しかし、主を唯一としないなら、私たちは再び罪の奴隷に舞い戻るのです。

私たちが生まれ育った日本にはエジプトと同じように様々な神々が満ちあふれています。
多神教的な考えで、神々の中にイエスも加えるのでは決してありません。
神々の一つとしてキリストを信じても、それは決して救いにはなりません。

父・子・聖霊なる神だけを神とし、主として信じ、仕え、礼拝するのです。
他の神々の偶像を造り(買う)、拝み、仕えてはならないのです。(第二戒)

偶像の中には人間を神格化することも含まれます。お金や他の価値あるものを崇拝することも偶像礼拝です。以前も話しましたが、日本の神々の一つの名前は「みんな」です。
日本人は特定の宗教に従う人は少なくなってきていますが、「みんな」に従う人は多いのです。また「みんな」が言うことには従います。日本で最大の宗教は「みんな教」です。
「みんな」に聞き従わないで、主の声、聖書に聞き従いましょう。!

「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」この三番目の戒めは分かり辛いかもしれません。テレビで時々、耳にします。「オーマイ・ゴッド!」という表現は、まさに神を冒涜する表現です。クリスチャンは決してこの表現を用いてはいけません。

聖書の考えでは、名前はそのものの本質を表していると考えます。
神の名前は、神の深い本質の表れなのです。決して神の名を軽々しく扱ってはならないのです。神の名は私たちの信仰と愛の表現の中にのみ語られるべきなのです。

第四の戒めである安息日は、ユダヤ人の守り方とクリスチャンの守り方は違います。
保守的なユダヤ教徒は金曜日の夕方から土曜日の夕方までを安息日とし、エレベーターのボタンを押すことさえも労働と見なして押さないそうです。
シナゴーグで礼拝を守るための日として、安息日を文字通り厳守しています。

クリスチャンの安息日は日曜日に決められてはいません。クリスチャンにとっては特定の日が安息日と定められてはいません。もちろん特定の日を安息日として、自分で戒めを守ることは良いことです。私たちが礼拝を日曜日に守るのは、多くの人が礼拝に来やすいからです。土曜日の方がより大勢の人が礼拝に集まりやすいのならば、土曜日に変更しても差し支えないのです。
安息日に関しては、クリスチャンは特定の日とすることから解放されています。

「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」
ローマ14章5.6節

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」
コロサイ人への手紙2章15節から17節

安息日を特定の日とすることからは解放されていても、安息日の精神は大切です!
つまり最低でも一週のうち一日は神を礼拝するために、日を捧げることです。
これは私たちの霊・魂・体に休息を与え、神との交わりから、いのちをいただく為に必要です。安息日を大切にしましょう。安息日を神との交わり、また神の家族との交わりの日として大切にしましょう。

ここまでが神さまとの関係における戒めです。この戒めを守ることは神を愛することなのです。そして神を愛する者には大いなる祝福が約束されています。

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」出エジプト記20章5.6節

主を唯一の神とし、主にだけ仕え、主をのみ拝む者は、大いなる祝福が約束されています!
恵が千代に至るまで与えられるのです!
しかし、恐ろしいことに神を憎む者、主を自らの神としない者は呪いがあります。
それは神からの呪いではなく、家系の呪いであり、自ら招いた呪いです。
つまり主を信じない者には、救いと解放がないと言うことです。
主イエスこそ私たちを死と滅びから解放して下さった方であり、罪と悪魔の奴隷状態から私たちを解放して下さった方だからです。この方を主とし、この方のみを礼拝しましょう!


【あなたの父と母を敬え】

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」出エジプト記20章12節

この戒めは人に対する戒めの中で、いちばん始めに来る戒めです。
父と母を敬うことは大切です。これを疎かにしては、いかなる祝福も願えません。

不幸な家庭環境が多いことは嘆かわしいことです!父や母に対して恨みと憎しみを抱えている人が多いことを知っています。親が嫌いという人も少なからずいます。
これほど不幸なことはありません。親との関係は、私たちにとってはいちばん始めの人間関係です。その関係が壊れているなら、他の関係を健全に築くことは難しいことです。

親を恨みながら、健全で幸福に満ちた人世を送ることは決して出来ません!
また親を恨みながら、神との関係を持つことも出来ないのです。

「聖書が読めない、祈れない、神の愛が分からない、賛美を聞くと吐き気がする!」、救いを求めて教会に来ても、神を求めているのに、このような問題を持つ方がいます。牧師をしていて、ハッキリと分かってきたことは、その人は何らかのいのちに関わる罪を犯していることです。

過去にオカルトや悪霊と関わる宗教を信仰していた人、そして親に対して激しい憎しみ、怒りを抱えてる人はこのような問題が出てきます。

先ず父母をキリストにあって、心から赦すことです!それは自分が滅びない為でもあります。赦さない心は、誰に対してもですが、いのちの流れを留めてしまいます。
キリストにあって赦すことです。赦したくない理由、受けた傷はすべてキリストに告白しましょう。キリストは私たちの傷を十字架の上で代わりに背負って下さいました。
あなたがキリストに辛い過去、受けた傷を告白するなら、あなたはその過去から解放されます!そして信仰と意志によって両親を赦し、そして祝福を祈るのです!

父母をキリストのゆえに敬い、愛を積極的に表し、仕えるものには祝福が豊かに訪れます。

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」出エジプト記20章12節

これは旧約時代のイスラエルにとっては最大の祝福の言葉です。
この戒めに真剣に取り組んで下さい。自分の心の態度は神に喜ばれるか、聖霊様に吟味してもらって下さい。この戒めを軽んじるものは神に軽んじられます。しかし、この戒めを重んじ、心を尽くして守ろうとするものは神に重んじられ、神の助けを受けます。

【むさぼってはならない】

「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
出エジプト記20章17節

何かを欲しいと思うことは、決して罪ではありません。しかし、願っても自分のものになるはずのない物、それを願うことは罪なのです。隣人の妻、これはいくら願っても自分の妻とすることは出来ないことです。しかし、それを願い続けるなら不倫や、夫を殺害するなどの殺人へと発展していくことでしょう。

犯罪行為を犯さなくても、心の中で欲しがることも罪なのです。
すべての罪は心の中から始まります。殺人も姦淫も盗みも偽証も心の思いから始まります。
犯罪を犯さなければ良いと言うのは、この世の中の基準です。
しかし、神は心の中を見るのです。心の思いや動機も神の前に隠れることはありません。

【十戒を守る】

十戒は最高の律法、律法の中の中心です。そしてこの戒めは心の態度さえも判断します。私たちはこの律法を心を込めて守ることを命じられています。皆さん守ってください!

律法に真剣に取り組み、律法を心から守ろうとする時、私たちは初めて自分の罪深さが見えてくるのです。犯罪行為を犯していなくても、心では隣人を憎んでいる。誰も見ていないなら・・・何をするか分からない。私たちの心には罪が宿っているのです。
普段は気付かない。誰もが同じだと思っている。また罪が生まれつきの性質なので、罪に流されていても普通だと思い込んでしまうのです。

しかし律法に真剣に取り組む時、私たちは自分の内に宿る性質に気付くのです。
私たちは律法に真剣に取り組む時、もしくは律法を無視した結果、罪の刈り取りをする時にキリストの救いが必要であることを知るのです。

私たちは十戒を守ろうと取り組んでも、完全には守れない、また守りたくない自分に気付かされます。そして、その心は自分の頑張りや努力では変えられないのです。
その弱さ、罪深さを代わりに背負ってくれる救い主が必要なのです。

イエス・キリストは私たちの身代わりに、私たちの罪を十字架として背負って下さり、罪の罰を私たちに代わって受けて下さったのです。キリストは罪を十字架の上で滅ぼされました。私たちはキリストの身代わりの十字架の死と復活を信じる時、自分の罪深い性質から解放されるのです。私たちを束縛している罪はキリストの死によって滅ぼされました!そしてキリストは三日目に復活し、信じる私たちに復活の力、神の子の性質を与えて下さるのです。

キリストを救い主として受け入れ、自分の弱さ、罪深さを一つ一つキリストに背負ってらい、そしてキリストの復活の力を信仰によって受け取るのです。キリストともに歩む時、私たちは十戒を守り行う力が与えられていくのです!

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイによる福音書11章28から30節

疲れた人とは本来の意味は律法を背負って疲れた人なのです。そして重荷とは自分一人で律法を守るひとです。私たちは足に罪という足枷をしたままでは、神の戒めを守ることは出来ません。赦せない心という罪を背負ったまま、更に人を愛する戒めも守れません。
キリストにこそ救いがあります。キリストは十字架のくびきを私たちとともに背負って下さるのです。

私たちはキリストともに十字架で日々死ななければなりません。十字架上で死んだのはキリストだけではなく、罪に縛られた自分も一緒に死んだのです。だから!キリストともに復活することが出来るのです。キリストの復活を信じる私たちには神の子の性質が与えられるのです。そしてキリストともに新しいくびきである十戒を背負うのです。
キリストともに歩むなら、神の律法は重荷ではなくなります。
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(30節)」