「御霊の実は愛・喜び・平安」
ガラテヤ人への手紙5章16節から26節
牧師 小林智彦

【聖書箇所の朗読】

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」
ガラテヤ人への手紙5章16節から26節

【ガラテヤ人への手紙:その背景と問題】

パウロがガラテヤにある教会に手紙を書いた理由は、割礼の問題でした。
割礼とはユダヤ人男子が神との契約を結んだ印として、生まれて間もなく男性性器の一部を切り取る儀式のことです。またユダヤ教に改宗する外国人(異邦人)も、割礼を受けるならユダヤ教徒(ユダヤ人とは見なされない)と見なされました。
ユダヤ人にとって割礼は、神に選ばれた印であり、民族の誇りでもありました。

ガラテヤ人への手紙を書いた当時は、ユダヤ人クリスチャンが多数を占めていました。
キリストの救いがユダヤ民族を越えて、全世界に広がるには幾つもの障害を乗り越えなければなりませんでした。初期のクリスチャンたちは、使徒も含めてですが、異邦人(外国人:非ユダヤ人)が救われることには目が開かれていませんでした。
ペテロは異邦人を汚れた者と思っていました。これはペテロの偏見ではなく、当時のユダヤ人はみな同じ考えを持っていました。しかしペテロは聖霊の導きによって、ローマ人のコルネリオに福音を伝えます。そして聖霊は異邦人も救いの対象であることをハッキリと示すため、コルネリオを含め、ペテロのメッセージを聞いて信じた者に聖霊のバプテスマを授けたのでした。

しかし、ユダヤ人クリスチャンはペテロが異邦人に福音を伝えたことには批判的でした。
異邦人が救われるはずがない!と思い込んでいたからです。しかし、聖霊がペンテコステの日にあの120人に下ったように、異邦人にも下られたことを聞いて、やっと、異邦人も救われることを理解したのです。

人種・民族の壁はとても厚いことを教えています。
しかし、聖霊がこの壁を越えさせて下さったのです。

「異邦人も救われる」から、やがて異邦人にも積極的に福音を伝えようと言う者が神によって起こされます。その代表がパウロです。パウロは神によって、異邦人への使徒として選ばれた者です。

2:7 それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
2:8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
ガラテヤ人への手紙2章7.8節

異邦人が続々とパウロの宣教によって救われるようになると、ユダヤ人クリスチャンから新たな疑問が湧き上がってきました。それが割礼の問題です。
救われて神の民に加えられたのなら、割礼を受けなければならないとユダヤ人クリスチャンは考えたのです。そして積極的に異邦人クリスチャンに割礼を授け、そして割礼を受けなければ救いは完成しないと、割礼を伝えるグループまで登場してきました。

救われたばかりの異邦人クリスチャンはこの割礼を強調するグループ、割礼派によって信仰がかき乱されるようになりました。

この割礼という民族の誇りも、福音を伝える上では大きな障害になりました。
この割礼の問題を乗り越えるために、聖霊はパウロにこの手紙を書かせたのです。

【表面的な印、目に見えるものに頼りたい人間の弱さ】

ガラテヤ人への手紙には、目に見えるものや伝統に弱い私たちの性質が明らかにされています。霊的で本質的なものには目が開かれず、目に見える表面的なものだけに捕らわれやすいのが私たちの性質です。

ユダヤ人クリスチャンは自分たちの伝統、民族的な優越性を誇り、当時は少数だった異邦人クリスチャンに自分たちの伝統、価値観を押しつけようとしました。
神の愛と恵が押しつぶされようとしていたのです。

また割礼というユダヤ人に与えられた約束を異邦人にも押しつけることによって、最も大切な信仰による救い、キリストが十字架の上で成し遂げた救いの業を否定することになる危険性にユダヤ人クリスチャンは気が付きませんでした。

しかし、このガラテヤ人への手紙はユダヤ人クリスチャンを非難するための手紙ではありません。このユダヤ人クリスチャンが犯した過ちは人類に共通するものなのです。

ガラテヤ人への手紙が書かれた時は、ユダヤ人クリスチャンが多数を占めていました。
そしてユダヤ人の民族的な独自性を押しつけてしまうことが問題でしたが、時代が変わり、異邦人クリスチャンが多数を占めるようになると、今度はユダヤ人クリスチャンを迫害するようになります。ユダヤ教的な習慣をすべて捨て去り、異邦人クリスチャンのようにならない限り救われないと、全く逆のことをするようになるのです。そしてキリスト教会が長い間ユダヤ人を迫害することが続きました。

パウロがガラテヤ人への手紙で最も伝えたいことは、ユダヤ人にも異邦人にも共通する罪深い性質なのです。それは聖霊に従わない頑なな心、本質よりも、目に見えるものや伝統の方を重んじる罪深い性質なのです。パウロはこれを「肉」と手紙の中で呼んでいます。

「肉」とは私たちの罪深い性質のことです。神学的には「原罪」とも呼ばれます。
聖霊様に聞き従うか、生まれながらに持った罪の性質に流されるか、これはクリスチャンであっても自らが選択しなければならないのです。

ジェームズ・ヒューストンという神学者がいます。カナダのリージェント大学の学長を務めた人物で日本にも何回も来ています。彼の講演を聴きに言った時、ちょうど上野に来られたのですが、上野の博物館で「金と銀−かがやきの日本美術」という展示会が行われていました。ヒューストン先生も講演前に時間があったようで博物館に見学に行かれたそうです。そして金や銀で覆われた日本の仏像をたくさん見学されました。
講演の中でその金や銀で出来た仏像の話しをされました。「なぜ仏像は金や銀で覆われているのか?金や銀で造られているのか?」。私は考えたこともなかったので、興味深く聞いておりました。先生が言うポイントは、「偶像は中身が空っぽだから、外側を金や銀で覆う必要があるのだ」ということでした。その通りだと私も思いました。

偶像は中身が空っぽだから、外側を価値あるもので覆わなければならない!

これは偶像に限らないことでしょう。最近テレビを見ていると、考古学をテーマにしたものが多いです。去年の年末にはエジプトのピラミッドやツタンカーメンを取り上げている番組が幾つもありました。印象的だったのはあるレポーターがツタンカーメンの黄金のマスクを見て、感激して涙を流している場面でした。

ツタンカーメンの黄金のマスクは確かに値段が付けられないほど高価で、多くの金が使われています。しかし何故、ツタンカーメンは黄金のマスクを造らせたのでしょうか?
仏像と同じです。黄金のマスクの下のツタンカーメンには命がないのです。腐敗してボロボロになった死体を隠すための黄金マスクなのです。

私たちは中身がお粗末であればあるほど、立派な覆いで隠そうとします。
中身が立派ならば、表面を飾り立て、過度に立派に見せる必要はないのです。
偶像は神でも何でもありません!ただの石や木であり、人間の手で造ったものです。
それを神に似せようとするから、金や銀や高価なもので覆う必要があるのです。

それに対して主イエスは真の神、生ける唯一の神であられるので、立派な覆いは必要がありませんでした。イエスを金や銀で覆っても、金や銀の方が色褪せて見えるのです。
内側が本物なら、外側を覆う必要はないのです。内側から輝きが溢れ出してきます。

本物とはこのようなものです!ガラテヤ書でパウロが言いたいことはこのことなのです!
つまり割礼のような目に見える印にこだわり、民族の伝統や習慣を誇り、外国人にまで押しつけるような考えは、内側の霊、つまり人格が空っぽだとパウロは教えているのです。

内側に築き上げられる霊的な人格、神とともに歩むことによって、私たちの内面に形作られる神の子としての性質よりも、私たちは人と比べられる表面的なものに価値をおいてしまいます。自分を誇らせるもの、自分を美しく、賢く見せる表面的なものに私たちは心が引かれてしまうのです。この性質が「肉」であり、生まれつき持っている罪深い性質、また古い性質と呼ばれるものなのです。

パウロはこの「肉」、私たちの古い性質に流されないで、御霊によって歩みなさい!と勧めています。表面を誇る空しい生き方から、神の子供らしく、御霊に導かれ、そして聖霊によって霊的(神の性質:それは愛)な人格の実を結ぶことを求めなさいと教えています。

私たちクリスチャンは神の子です。神の子供なら、表面的なものを誇る必要はないのです。
神の子供であるなら、内側から神の愛が流れ出るからです!

クリスチャンは決して自分の属している教会堂の大きさ、教団教派の自慢、伝統、また自分の神学的な知識などを誇ってはならないのです。それら表面的なものを誇れば誇るほど、内面の空しさが明らかにされるからです!
表面的、人間的なものを誇るクリスチャンがどれ程、魅力がないかを知ってください。
それはイエスさまが嫌われたパリサイ人や割礼派の人々と全く同じ生き方です。

主が願われるのは、御霊に導かれ、聖霊の人格の実を豊かに実らせる人です。
このような人は内面から神の愛が溢れ出てくる人です。

【御霊の実は、愛、喜び、平安・・・】

神が願われることは、私たちが古い性質に流されて生きるのではなく、御霊に導かれることです。そして聖霊による人格の実、神の愛の性質に私たちが変えられていくことです。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

これらの実はすべて愛の様々な面であると考える聖書学者がいます。御霊の実、神の人格は愛であり、愛の中には喜び、平安、寛容、親切・・・があると考えられるのです。

これらの実、神の御性質はどのように私たちのうちに結ばれるのでしょうか?

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」詩編1編1節から3節

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ(2節)」

聖書に書かれてある神のみ言葉を「喜びと」することです。いつもみ言葉を口ずさむことです。聖霊の実は神のみ言葉によって結ばれるのです。

御霊の実は「愛」で始まります。先ずは聖書から神がどれ程大きな愛で私たちを愛しているかを知ってください。神の愛を聖書の中から探し出してください!
そして、その箇所を暗記してください!覚えることなしに、どうして口ずさむことが出来るでしょう。もちろん、皆さんは努力はいらないはずです。愛されることは努力は要らないはずです。しかし、自分で神の愛を聖書の中から探してください!
自分で求めなければ、御霊の実は結ばれることはありません。何故ならこの実は、あなたの中に結ばれるのですから!

そして、神の愛を口ずさむのです!信仰を持って、喜びをもって神の愛を口ずさむのです。神のことばには聖霊の力が臨みます!口ずさむことによって、神の愛はあなたの人格に聖霊によって刻み込まれていくのです。

神の愛が聖霊によって体験できるなら、それは神のことばを行う大きな力となります。
神の愛が分からないなら、神のことばを実行することは難しいです。ただの道徳や宗教活動になってしまいます。それは苦痛になります。

しかし、神の愛が分かるなら、神のみ言葉を行うことは苦痛にはなりません!

まず神の愛を聖書から探し出すことです!それを覚え、口ずさみ、聖霊によって神の愛と赦しを体験することです。そして、神の愛に押し出されてみ言葉を行ってください。
み言葉を行う時、私たちの心の中には次々と御霊の実が結ばれ、多く成長していくのです。