「心の貧しい人は幸いです」
マタイによる福音書5章1節から12節
牧師 小林智彦

「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」
マタイ福音書5章1節から12節

【山上の垂訓(説教)】

今日皆さんと分かちあう箇所は「山上の垂訓(説教)」として、知られている箇所です。
この「山上の垂訓(説教)」を聞いた群衆(弟子も含めて)は「その教えに驚」きました。
なぜなら「イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたから(マタイ7:28)」とあります。

イエスさまの教えは当時の律法学者の教えと大きく違っていました。
パリサイ人・律法学者は自分たちの正しさを擁護するために律法を用いました。
しかしイエスさまは「天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」と、天の父の基準を明らかにされました。またパリサイ人・律法学者が儀式と形式に熱心なのに対し、イエスさまの教えは生活中心、具体的で実際的でした。

山上の垂訓(説教)はマタイ福音書のなかで、イエスさまの教えの中心です。
これを何度も読み返し、イエスさまが伝えたいことを汲み取ってください。
しかし、この山上の垂訓(説教)をパリサイ人・律法学者のようには読まないで下さい。
知的な理解だけで終わってしまうなら、何の意味もありません!

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
マタイ7章24節から27節

この山上の垂訓(説教)をただ聞いて、頭で理解して終わらせないで下さい!
この教えを一つずつ、生活の中に適用し、行って下さい。
それが揺るがない人世、永遠に続く人世の土台を形作ることになるのです。

【幸いな人】

イエスさまは山上の垂訓(説教)を「なんと!幸いだろう・・・」と始められました。
イエスさまは私たちに本当の幸せに至る道を示して下さいました。
イエスさまの願いは私たちが幸せになることです!
イエスさまが私たちに教えて下さった幸せは、決して無くなることがありません。

私たちは誰もが幸せになりたいと願います。しかし私たちが今まで知っている幸せ、また私たちが今まで追い求めている幸せはとてもはかないものです。
私たちが今まで追い求めてきた幸せは、人や物に完全に依存しているからです。

お金があれば幸せ!しかし、景気に大きく左右されます。
健康であれば幸せ!しかし、食べ物には気を遣い、運動は重荷になり、老化を恐れます。家族がいれば幸せ!しかし、子ども達はいずれ独立し、優しい両親も老いていきます。

私たちの追い求めている幸せが如何に人や物、やがて無くなるものに頼っているかを知ってください。イエスさまが喩えている砂の上に、家を建てているのと同じなのです。

イエスさまの言葉を土台として、本当の幸せな人世を築いてください。
イエスの言葉を土台とするなら、あなたの幸せは無くなることがありません!

イエスさまが喩えておられるように、砂の上に家を建てた人にも洪水や嵐は押し寄せてきます。クリスチャンでも人世の試練は避けられません。しかし、イエスの言葉を土台としているなら、その試練の中にあっても平安があるのです!
幸せは奪い取られることがないのです。

【心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです】

イエスさまは「幸い」を八つに分けて教えておられます。
最初の四つの「幸い」は主に神さまに対する心の姿勢、態度について教えています。
後半の四つは、主に隣人に対するものです。

それでは、いちばん始めの幸いを分かちあいましょう。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです(3節)」

「天の御国はその人のもの」、これには深い意味がありますが、敢えて強調したいことは、神ご自身がその人とともに住んでおられる人のことです。天の父も、そして御使いたちも、その人と一緒に居たいと願う人、それが「心の貧しい人」なのです。

世の中の幸せの条件を挙げるとしたら、先ほども言ったように、お金や健康、家族などが上げられるかもしれません。私も健康の大切さは実感します。健康はとても大切です。
しかし、健康でなければ幸せでないと考えるとどうなるでしょうか?

もちろん不健康な生活をして、健康を損なっている場合は、生活習慣を改めることで健康になれるでしょう。その人には努力して健康になって欲しいと思います。
しかし、健康の回復の望みを失った人はどうなるのでしょうか?

親族が癌に冒され、あと僅かしか生きられないと分かっていながら、「頑張るのよ!頑張るのよ!」としか声を掛けることが出来なかったと良く耳にします。
回復の望みがないのに「頑張れ」と言うのは、言う方も、言われる方もともに辛いと思います。健康で無ければ幸せでないとの考えがそうさせているのです。

しかし、イエスさまが私たちに伝える幸せは、健康を回復する望みが絶たれた人であっても幸せなのです!お金が無い人、家庭が無い人でも幸せなのです!

星野富弘さんは現在でも活躍しておられるクリスチャン・アーティストです。
彼は小学校の体育教師でしたが、授業中に起きた事故のために、首から下が麻痺しました。動くのは首から上だけです。しかし、彼は病床でイエスさまを信じました。
もちろん彼は始めは病気をいやして欲しいと、以前の体に直して欲しいと祈り求めたのでしょう、しかし、ある時から彼はイエスさまには以前の健康な状態に戻るよりも素晴らしいご計画を持っておられることに気付いたのです。彼は病床にあってイエスに感謝を捧げ、首より上しか動かない状態で神と人に仕え始めました。
彼は絵筆を口にくわえ、神が造られた花々を色紙に書き、人を慰め、励ます詩を書き始めました。多くの人が星野富弘さんの生き方、また作品に触れて神に出会いました。
なぜならイエスさまが富弘さんと一緒にいることが、誰の目にも明らかだったからです。
彼は体は健康にしてもらえませんでした。しかし神は彼が健康だった時には到底出来なかったことを彼を通して行っているのです。星野富弘さんは幸いな人、心の貧しい人です。

ボブ・ウィーランドさんと言うアメリカ人がいます。彼は大リーグからスカートが来るほど高校の野球部で活躍した人です。しかし卒業後にベトナム戦争に徴兵されました。
彼は戦場で地雷を踏み、下半身が吹き飛ばされてしまいました。しかし、奇跡的に一命はとりとめました。長い年月、彼は病院の別途で天上だけを見つめる生活を送りました。
大リーグで活躍することはもはや不可能。普通の生活すら送ることは困難です。
彼は始めは神にも捨てられ、世の中にも捨てられたと絶望感に打ちのめされたそうです。
健康でなければ幸せになれない!このような思いこみに捕らわれていたのかもしれません。しかし、天上を見つめながら彼はある時「自分は神様に見放されたのではなく、生かされたんだ」と気づいたのです。そして「自分はただ足がなくなっただけ、何でもできる一人の人間だ。神のカがあるかぎり、どんな困難も乗り越えてみせる」と決心したのです。
彼は足が無くても生かされていることを神に感謝しました。
そして、体が不自由でも、神は自分に対して素晴らしい計画があることを確信しました。
ボブさんはアメリカ大陸を腕だけで横断することを計画しました。
それを通して精神的に落ち込んでいる人や悩んでいる人を励ますためです。
そしてキリストを証しながら、約4年かかってアメリカ大陸を腕だけで横断しました。
彼は大リーグで活躍する以上に、多くの人をキリストにあって励ましたのです!

メグの友人で香港に住んでいるフェイスさんという、クリスチャンの音楽家の方がいます。
素晴らしい信仰者です。歌手として活躍されCDも販売しています。去年、私たちのところに遊びに来てくれました。私がフェイスさんに会うのは2度目ですが、始めにあった時よりも、何か聖く輝いている感じがしました。
話を聞くと、香港から家族と中国に宣教旅行に出かけられたそうです。彼女の家族は皆、素晴らしいクリスチャンです。そして中国での宣教旅行から帰ると、なんと彼女の事務所は泥棒によって荒らされた後でした。そして彼女が最も大切にしていたパソコン、何故大事にしていたかと言うと、彼女の作曲した楽譜や作詞した歌詞が、すべてパソコンの何かに入っていたからです。そのパソコンが盗まれていたのです!とても落胆したそうです。

しかし、その中で彼女は以前に増して、神の愛を間近に覚えるようになったそうです。
彼女はこのような悲しい出来事のなかでも、神に感謝し、神を愛することを学びました。
フェイスさんは物事が上手く行く時も、そうでない時も変わらず神を愛する人に成長したのです。神がともにおられる聖さが彼女の中から流れていました。

皆さん、この人たちは皆、優秀で能力がありました。しかし弱くされ、能力が奪われ、貧しくなりました。回復の希望さえ断たれてしまったのです。誰もが決して望まない窮地に追い込まれました。

しかし、彼らが貧しくなった時、弱くなった時、この世の幸せが望めなくなった時、真の幸せへの希望が開かれたのです。それはやがて無くなる健康や、お金や、そういった物や状況に基礎を置く幸せではなく、決して無くなることのない神とそのことばを土台とする幸せです。

生ける真の神を信頼し、いま自分が置かれている状況を感謝できる人、そのような状況のなかでも神に希望を持つ人が幸いな人です!

しかしクリスチャンと自分を呼んでいる人でも、私は多くのクリスチャンがイエスではなく偶像に仕えているのを見てきました。

健康でなければ幸せにはなれません!神よ私を健康にして下さい!この不幸で、惨めな状況から救いだして下さい!と、祈るのを聞きます。
もちろん癒しを求めることは素晴らしいことで、神は癒し主です。神に祈り求めて下さい。
しかし、健康でなければ幸せになれない、病気が癒されないのは神が自分を愛していない、病気が治らなければ神に仕えることが出来ないとするのは間違いです。

その人は健康が神(偶像)になり、イエスさまはその人の願いを叶える召使いです。
お金があったら私は幸せになり、もっと神さまと隣人に仕えられます!
こういう人も同じです。お金が偶像になり、お金が神よりも力があると思っています。

心の貧しい人は、心に偶像を持たない人です。神を神として、神に仕える人です。

ある問題に長い間苦しんでいる人がいました。彼の抱えている問題が大変なのは私も理解します。辛いことも分かります。しかし、彼の場合、問題が偶像になってしまっていました。彼は良く私に「神さまって本当にいるんですか?」と尋ねました。
「何故そんなことを尋ねるのですか?」と聞くと、「いくら祈っても、自分の問題が解決しないんですよ!」と言います。私が「神さまはあなたの祈りを既に聞いておられますよ、ただ、あなたの望む時と望む方法で答えて下さるとは限りませんよ」と答えました。

しかしその人は「今すぐに解決して欲しいんです!今すぐじゃなきゃ困るんです!」と言います。あまりに自分の時、自分の方法に固執するんで言いました。「あなたの言うことを聞いていると、あなたの方が神さまよりも偉いようですね!」

自分の願望がその人の神になっている、それは偶像を拝み、仕えていることと変わりありません。偶像を自分の為に造ってはならないと神は十戒のなかで命じられました。
私たちは石や木で偶像を造ることはないでしょうが、自分の願望を偶像として拝み仕えること、そして神を召使いにする過ちを犯してしまいます。

神は私たちの心に偶像が有るか無いか?それは私たちが貧しく、弱くされた時に分かるのです。私たちが神よりもお金、健康、能力、知識やその他諸々に仕えていたなら、私たちの幸せはいつも状況や物に振り回されるでしょう。

貧しく弱くされた時、私たちが何を信じ、何に頼っていたのかが明らかにされます。
私たちの人世が神のことばの上に建て上げられているのなら、そのような状況であっても、決して心の幸せを失うことはありません!

日本のクリスチャンの平均寿命は三年半と言われています。私はこの三年半を過ぎても、生き残っているクリスチャンの証を聞いているうちに、共通するある一つのことに気付きました。それはサバイバルしているクリスチャンは皆、祈りが聞かれなくても、それにもかかわらず!神を信じていると言うことです。

誰もが必ず、早くても遅くても神に何らかの失望を体験する時が来ます!
神を信じているのに失恋した!神を信じているのに病気が治らない!
神を信じているのに失業した。家庭が崩壊した。願わない最悪の結果になった。
神を信じているのになぜ!約束が違う!

このような体験を誰もがします。しかし、信仰を保ち続けているサバイバーは、そのような辛い体験を通しても、それでもなお!イエスを信じ、イエスの言葉に従う人です。
貧しく、そして弱くされても、それでもなお、イエスを信じる人は本当に幸いな人です。
神がその人と一緒にいて下さいます。

しかし、祈りが叶えられない、貧しくされ、弱くされた時に神から離れる人は、イエスを信じると口では言っても、心では自分の願望を神とする人、偶像礼拝者なのです。

私たちは心の動機を聖霊様に探ってもらいましょう。
自分はどんな状況においても、神に、イエスに従っていきたいと思っているのか?
それとも、自分の願望をイエスに叶えてもらいたいからイエスを信じているのか?

もちろん願い事を神に祈ることは決して間違いではありません!
しかし、神は私たちが願う以上の最善を私たちに与えて下さる方です。
祈りの答えは、私たちの願い通りではなく、神の願われる通りなのです。

私たちは自分の願望を聞いてくれるものを神とするのか?
それとも、神の御心に自分を従わせるのか?

幸いな者は、神の御心に自分を従わせる者です。神の御国はその人のものです!