「救いの道は悔い改めから始まる」
マタイによる福音書3章6節
牧師 小林智彦

【救いの道は悔い改めから始まる】

「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』この人は預言者イザヤによって、『荒野で叫ぶ者の声がする「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」』と言われたその人である。」マタイによる福音書3章1から3節

天の父なる神はご自分の一人子イエス・キリストに先駆けて、バプテスマのヨハネを遣わし、救いの道を整えられました。バプテスマのヨハネの役割は、確かな神の救いへの道、その道の入り口を明確に人々に示すことでした。

救いの道、その入り口は一つしかありません!
その入り口は「悔い改め」です。救いの道は「悔い改め」から始まります。
また神に至る救いの道は、悔い改めによって進むのです。

イエスさまも、ご自分では何一つ罪を犯されませんでしたが、「悔い改め」こそ救いの道であることを示されるために、進んで「悔い改め」の印であるバプテスマを受けられました。イエスさまは私たちに「ここが入り口です!」と教えて下さっているのです。

さて悔い改めとは何をすることでしょうか?

【罪を罪として認めること】

「自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」マタイ3章6節

「悔い改め」を正しく理解しましょう。悔い改めはカトリックの懺悔ではありません。
確かに自分の罪を告白すると、それだけで解放を体験します。
しかし多くの場合、また同じ罪を犯してしまいます。その度に告白して離れようとします。
でも、またしばらくして同じ罪を犯してしまう。やがて告白すること、悔い改めることがバカらしくなり、止めてしまう。何かが可笑しいのです。

「悔い改め」とはギリシャ語でメタノイァ、「変化」を意味します。
心が変えられるのです!行いの前に、まず心が変えられなければ悔い改めでは無いのです。
心は知性・感情・意志で構成されています。
この知性・感情・意志がすべて変えられ無ければ悔い改めにはなりません。

心の知性の部分が悔い改めるとは、罪の認識が変えられることです。
神が「罪」とされたことを、心から「罪」であると認めることです。

神が「罪」とされたことを認めること、これがなかなか難しいのです。
「罪」の基準が神のみ言葉ではなく、私たちの常識や経験に基づいているからです。

何が「罪」なのか?先ずは聖書の基準にしっかり立つことです。聖書が「罪」と定めていることは二千年前も今日も変わらず神の御前には「罪」であることを認めることです。
この世の基準に合わせて「罪」を割り引かないで下さい。

「罪」から来る報酬は死です!この真理はいつまでも変わることがありません。
この世の基準では常識化していることでも、神が「罪」とされたことは、私たちに決して幸いをもたらすことはないのです!

最近はモラル・ハザードと言う言葉を良く耳にします。倫理の崩壊を意味するそうです。
聖書の価値観に立たない人たちも、世の中で起きている状況を見ると倫理が崩壊していると危機感を覚えているのです。
しかしモラル・ハザードはアダムとエバが神に背いてから、既に始まっているのです。
倫理・道徳の規準は年ごとに、その規準が低くなり、そして今は急速にその規準が下降しているのです。

同性愛の結婚が法的に認められたり、不倫や同棲が当たり前になって来ています。フランスでは生まれてくる子供の半数以上が、父親のいない子どもだと新聞が報じていました。
私たちが置かれている世の中は、聖書の基準から大きく離れてしまっています。

私たちクリスチャンも神のことば、聖書の基準にしっかりと立たないと、簡単に世の基準に流されてしまうでしょう。それほど世の力は強いのです。
私はテレビを見るなとは言いません。しかし、テレビは世の価値基準を強烈に宣伝しています。テレビは良い情報も有害な情報も一緒にして流します。
私たちが無批判にテレビの情報を受けていると、気が付いたら聖書の基準から逸れて、世の基準に立ってしまうことが起こりうるでしょう。

最近ではやたらとニュー・ハーフと呼ばれる人たちがテレビに登場しています。
皆さん、そうすることでサタンに支配されている世は徐々に同性愛を正当化しようとしていることに気付いて下さい!テレビは一方で家庭の崩壊を嘆いているようで、一方で不倫や同棲、また同性愛を美化するドラマを放映しています。

サタン・悪魔はいつも人間を騙す時は、見た目に美しく、麗しいものを用いて人を騙します。アダムとエバも善悪を知る木の実の美しさに騙されてしまいました。
誘惑は目の欲望を通して入ってきます。その時、聖書の価値観という強烈なフィルターが備わっていないと、罪への誘惑が私たちの食欲を刺激するようになります。
つまり実際に自分もやってみたいと言う誘惑が心を支配するようになります。
そうなると罪を犯すのは時間の問題になります。

聖書の価値基準、それは言葉を換えると神の国の価値基準です。
これは世の罪と悪から自分の心を守るフィルターなのです。

聖書の価値基準、神の国の価値基準は神の愛を体験することによって強化されます。
私たちは神に愛されていることを知れば知るほど、神の国の価値観は強化されます。

神のみ言葉のうちを歩むなら、私たちは神の愛を体験することが出来ます。
また神の愛を実践している人をよく観察し、その人の話を良く聞くことでも神のみ言葉の確かさを知ることが出来ます。

先日、所さんご夫妻と食事をしました。所さんご夫妻は何よりも互いを愛し合うことを実践しておられます。それは所さんが神のことばである聖書の基準にしっかりと立っているからです。所さんご夫妻からは神の愛の麗しさが流れてます。
ティムさんとクリスティーンさんも神の愛をもって互いに愛し合う模範的な夫婦です。
信仰によって堅く愛し合い、神の愛が確かに流れ出しています。
エクレシアにはこのような模範的な家庭が幾つもあることを主に感謝しています。
これは神の基準に立つことが、どれ程の祝福と喜びをもたらすかの証明です!

神の国の基準、聖書の基準がどれ程人々を幸せと喜びに導くのか、そしてこの世の基準がどれ程人々を混乱させ、破滅に導くのか、これは言葉で議論しても答えは出ません。

しかし、実際にそれぞれの基準に立って生きている人を見ることで、どちらが正しいのか良く分かるものです。

以前、私に相談しに来られたある女性のことを思い出します。その方は結婚していて旦那さんがいます。そのご婦人はとても優秀で自分で仕事をされている方です。世間からも評価される仕事をしているのですが、仕事の取引先の方とだんだんと親しくなり、不倫関係になりました。もちろん夫には秘密です。

容貌も美しく、頭が良く、独立して仕事をしている女性、家庭もあり、しかし、その裏では不倫をしている。ちょっと一昔前のテレビ・ドラマの主人公みたいです。
こういう生き方に憧れた女性がたくさんいました。

しかし、ドラマと現実が違うのは、この方はその不倫関係を持ってから深刻な鬱が始まったことです。不安と鬱が絶えずその人を苦しませ、アルコールに走りました。
藁をも掴む思いで教会に来られたのです。

結局、その方は悔い改めを強く拒否して教会を去りました。
(皆さんは全く面識の無い方です。礼拝には一度も来たことの無い人です。)
その方が教会に来られた目的は、いまの生活を維持したまま、神さまの力で鬱だけを取り除いて欲しいと言うことだったのです。私はハッキリと悔い改めが無ければ、問題の解決はあり得ませんと言ったので、その人は主イエスの解決を拒否したのです。

テレビ・ドラマの主人公のような生活をしながら、その華やかさの裏には鬱とアルコール中毒を抱え、一番愛すべき夫には秘密を抱えながら生きる。
聖書にはハッキリと「世と世の欲とは滅び去ります過ぎ去ります!」と書いてあります。
私たちは世の価値基準、また世が理想とすることに決して未練を持つべきではありません。
それらがどれ程の破滅と滅びをもたらすのかを知ってください。

神の国の価値観、聖書のみ言葉こそが私たちを滅びから守り、実を結ぶ人世に導くことをしっかりと心に刻みつけましょう。

聖書が罪とすることを私たちが心から罪だと認められる時に、私たちの心は変えられます。
罪に未練があるから、私たちはそれから離れられないのです。
私たちの心が罪を罪と認識するなら、感情が変えられます!罪を憎む感情が出てきます。
罪を憎み、罪を悲しむ感情が無いなら、私たちの認識は変えられていないのです!

口先でいくら罪を告白しても無意味です!
み言葉と聖霊によって、罪に対する認識(知性)が変えられ、感情が変わらなければ、罪を止める(意志が変えられる)という決意は生まれないのです。

軽々しく「悔い改めました」と言うのは止めましょう。
悔い改めは、神の基準で罪を罪と認め、罪に対する憎しみ、悲しみの感情に変えられ、罪を止める決断が生まれ、罪を言い表し、罪を犯さなくなる、行動が変えられることです。


【罪を告白する】

「自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」マタイ3章6節

悔い改めるには、罪を認め、感情が変えられること、そして次ぎに告白することです。
なぜ告白する必要があるのでしょうか?黙って行動だけを変えるのではダメでしょうか?

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」箴言28章13節

黙って行動だけを変える。それでも離れられる罪もあるでしょう。
み言葉と聖霊によって罪を激しく憎む感情、罪を悲しむ感情が与えられたら、それだけで罪から離れられる場合もあります。

しかし大抵の場合、「分かっているのに止められない!」のです。
罪の行為が習慣化している、中毒になっている場合があります。
アルコール中毒、テレビ中毒、インターネット中毒、ポルノ中毒、マンガ中毒、ゲーム中毒、買い物中毒、人のうわさ話・陰口中毒、万引き中毒などなどです。

私たちは自分の努力や頑張りでは義人にはなれないのです!
また自分の努力だけで義人になれるのなら、パウロも言うように十字架は必要ないのです。

私たちは自分の弱さ、罪深さを神に告白し、神のあわれみ、神の助けを求めなければ罪から離れられません。特に罪が習慣化、中毒化しているなら、自分の罪を隠したままでは解放はありません。自分の弱さを隠し、罪を隠すなら、神のあわれみによって与えられる、十字架の死の力(これが罪の力を滅ぼします)、復活のいのち(神の子として生きる力、愛に生きる力です)を受けられないのです。

神への告白は抵抗無くできるでしょう。しかし、人に告白することに強い抵抗を覚える人がいます。これは日本の恥の文化が大きく関わっていると思います。
しかし、これは日本人に特有なのではなく、パリサイ人や律法学者も持っていました。
人前では完璧でありたい、昔から自分は立派だったと人に思わせたい誘惑です。

もちろん自分の罪を全ての人に告白する必要はありません。
しかし、私たちは罪を告白し、互いのために祈り合う、信頼できる関係を持つべきです。これは光の中を歩む関係です。

親しい関係、そして信頼できる関係を自分の悔い改めの道を前進するために持ちましょう。
互いに罪を言い表す関係を持ちましょう。これは光の中を歩む関係です。

そのような関係を持ちたいと思われる方、悔い改めの入り口からしっかり入り、そしてこの悔い改めの道を前進していきたいと思われる方、そのために互いの罪を告白し、祈り合う関係を持ちたいと願われる方は男性は私に、女性はメグに相談してください。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」箴言28章13節

神への救いの道、その入り口は罪の告白を伴う悔い改めです!
福音書はすべて、バプテスマのヨハネの悔い改めへの招きから始まっています。
信仰生活は悔い改めに始まり、悔い改めによって進むのです。

悔い改めましょう。そして罪を悔い改める信頼できる関係を始めましょう。