「ヨセフの信仰の訓練」
創世記37章から50章
牧師 小林智彦

【神は愛する者を訓練し、整え、用いられる】

今週は聖書通読箇所からヨセフの生涯を通して学びましょう。
ヨセフの物語は霊的な教訓に溢れています。この箇所を繰り返し読むことをお勧めします。
この箇所から皆さんに分かちあいたいことは、神が与える霊的な訓練についてです。
神さまはご自分の救いの働きを成し遂げるために、人を用いられます。
誰でも良いのはありません。また豊かな才能や生まれや育ちが良いから用いられるのでもありません。神がご自分の働きのために用いられる人は、神に訓練された人です。

神は愛する者を訓練し、育て、そしてご自分の働きのために用いられます。
自分の能力や回りの助けを受けて用いられる人もいますが、長い目で見ると、その働きの途中で消えてしまったり、高慢になったり、悪い影響を及ぼす場合が多いのです。

「初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない。」箴言20章21節

年齢が若いのに、分不相応な働きや財産を与えられるのは本当の祝福にならない場合が多いのです。与えられた財産、委ねられた働きを有効に用いるには、それに相応しい人生経験が必要なのです。

ヨセフがエジプトの宰相になったのは三十歳だったとあります。とても若いと思われるかもしれません。しかし、ヨセフは三十歳になるまでに驚くほどの試練を受けました。
ヨセフが奴隷として売られた時の年齢は聖書には書かれてありません。
しかし、ヨセフは銀二十枚で売られたと書いてあります。(創世記37章28節)
イエスさまは銀三十枚で売り飛ばされましたが、銀三十枚は成人した奴隷の値段でした。
ヨセフは銀二〇なので、彼が奴隷として売り飛ばされた時は未成年だったと分かります。
おそらく十代の前半から半ばだったのではないかと思われます。
宰相となる三〇まで、実に十何年を厳しい試練によって鍛えられ、整えられたのです。
だから彼は途中で挫折することなく、神の計画を最後まで成し遂げることが出来たのです。

神は愛する者を訓練されます!神からの訓練は神の愛の印です。

「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」                 ヘブル人への手紙12章5から11節

神の訓練を避けてはなりません。また神に対して不平や反抗心を持ってはなりません。
神は私たちを愛するが故に訓練されるからです。
若い頃は一生懸命に学び、経験を積み、沢山の人と出会い、話しを聞くことが大切です。

しかし私たちはなるべく早く大きな働きがしたい、人の前に立ちたいと思いがちです。
神が用いられるのは謙虚に学び、謙虚に神と人に仕える人です。
能力があっても高慢な人は人生の最後には敗北者になります。祝福されません。

神はヨセフを選び、ヨセフを愛し、ヨセフに大切な働きを委ねる計画を立てられました。神がこのヨセフに対する計画を実行に移されるに当たって、まず為されたことはヨセフを訓練することでした。その働きに相応しい人物にするためにヨセフを整えることでした。

また創世記の37章からはヨセフだけではなく、ヤコブの全ての子ども達も、やがて来る時代に備えて選ばれ、整えられています。神の祝福を全世界に分かちあう偉大な働きのために、神は相応しい者を選び、そして選んだ者を整えられるのです。

神は選びの器をどのように訓練し、どのように整えるのでしょうか?

【悩みの炉を通しての訓練】

「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。」箴言17章3節

聖書には信仰が聖めるられることを、金や銀の精錬に喩えている箇所があります。

金や銀の純度を高めるには坩堝や炉に入れて高温で溶かさなければなりません。
溶けた金や銀からは不純物が上の方に浮かび上がってきます。その不純物をとることによって純度が高まるのです。金の純度を表す18金や24金の18や24という数字は精錬された回数を表すそうです。炉で溶かされるたびに、金や銀はその純度を増すのです。
私たちの心、信仰心も同じです。主の訓練を通して信仰は聖められるのです。

「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」イザヤ書48章10節

神が私たちの信仰を精錬して下さる炉には、「悩みの炉」と呼ばれる炉があります。
ヨセフはこの「悩みの炉」で溶かされ、不純物が取り除かれ、整えられていきました。

ヨセフは兄弟たちに奴隷として売り飛ばされました。ミデヤン人のキャラバンに売り飛ばされ、このキャラバン(隊商)はエジプトに向かいました。
奴隷として売り飛ばされ、エジプトへと連れて行かれるヨセフの苦しみについては、創世記よりも詩編の105編に詳しく書かれてあります。

「こうして主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。
主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。
彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。」
詩編105編16節から19節

ヨセフは足に枷をはめられ、裸足で砂漠を歩かせられました。エジプトに至るまでの長い道のり、彼は何を考えたのでしょうか?もちろん自分を奴隷に売り飛ばした兄弟のこと、愛する父との別れ、また将来の不安などが小さいヨセフの心を悩ましたことでしょう。

この時のヨセフが何を考えたことは聖書に書かれていません。しかし、この試練、悩みの炉はヨセフの心を変えました。

父と一緒に暮らしていた時のヨセフは、父の愛情を一心に受けてそれを鼻に掛けるところがあったみたいです。兄の悪行を父に告げ口したり、ヨセフにだけ与えられた「そでつきの長服」を自慢したり(聖書には書いてない)、自分が兄弟たちの支配者になる夢を二度までも話したりしました。父には愛されていましたが、兄たちからは妬まれ、憎まれていました。もちろん依怙贔屓(えこひいき)する父ヤコブにも問題はあり、弟に激しい嫉妬を抱く兄たちの方に更に大きな問題はあります。しかし、足枷をはめられたヨセフは父や兄への復讐心に燃えることは無かったようです。

神はどんなに才能がある人物でも、父や兄、家族に恨みや憎しみを抱える人間を用いられることは無いからです!恨みや憎しみは神の祝福、また助けさえも拒絶します。
ヨセフが兄たちへの怒りと復讐心で一杯だったら、神は彼を用いることは出来なかったでしょう。ヨセフはそのまま奴隷として生涯を終えたことでしょう。

悩みの炉の中で、ヨセフは兄たちに対する復讐心、怒りを捨てたようです。
彼には兄たちに復讐する権利はあったかもしれません。しかし、それを捨てたのです。
父親の愛情を一心に受けて鼻高々になっていた自分の高ぶりも捨てました。
ヨセフは神の備えた悩みの炉の中で不純物が除かれ、赦しと謙遜を身につけたのです。

いま、皆さんの中に「悩みの炉」を通らされている人はいませんか?
自分を苦しみのどん底に突き落とした家族を憎んでいる人はいませんか?
会社の上司、同僚を憎み、怒りと復讐心ではち切れそうな人はいませんか?
確かに、あなたには復讐する権利があるかもしれません。
しかし、怒りと憎しみ、恨む心はあなたにも死と破滅をもたらします!

神がヨセフを悩みの炉に導いたのは、ヨセフを苦しめるためではなく、彼の中から憎しみや復讐心、怒り、赦せない心を取り除き、赦しと謙遜を輝かせるためでした。

いま、確かに自分もヨセフとおなじ悩みの炉を通らせられていると思うなら、信仰の決断を通して怒り、憎しみ、復讐心、赦せない心を手放しましょう。
これらの不純物を手放さないなら、「悩みの炉」の熱さは増していきます。
そして私たちの心が不純物と一緒に燃え尽くされて、滅ぼされてしまいます。

復讐心、憎しみ、怒り、恨みは自分の心を破滅させるマイナスの力に溢れています。
赦すとは、これらの思いを忘れるのでも、我慢するのでもありません。
主に委ねることです!ローマ12章19節にはこう書いてあります。

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」

心の不純物を取り除いて下さるのは主イエスの十字架です!主を信頼しましょう。
自分で復讐することは放棄しましょう。

【主がともにおられる=私はいつも、私の前に主を置いた】

奴隷としてエジプトに連れて行かれたヨセフは、エジプト王パロの廷臣で侍従長のポティファルに買い取られます。そしてポティファルの家で奴隷として仕えることになります。

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。」創世記39章2から4節

ポティファルの家でヨセフは奴隷としては異例の出世を遂げます。
なんとポティファルの家を管理するようになるのです。
ポティファル家族に次ぐ者となりました。

この記事を読むと「奴隷がそんなに偉くなる訳がない!」とか「やっぱり聖書はおとぎ話だ!そんな絵に描いたような出世物語が現実にある訳がない」と思われるかもしれません。
またヨセフだけは特別に幸運な人で、私たちとは関係ないと思われるかもしれません。

ヨセフの幸運、ヨセフの驚くべき出世は「主がヨセフとともにおられた」結果でした。
主がともにおられるなら、私たちもヨセフのように幸運な人となり、すること全て成功するのでしょうか? 私はその通りです!と確信します。

「主がともにおられる」、これはイエスさまのお名前の一つですね。インマヌエルです。
祝福のなかで最も素晴らしい祝福はインマヌエルの祝福です。主がともにおられることです。主がともにおられる人世、それは主とともに歩む人生でもあります。

どうしたらヨセフのように、私たちにも主がともにいて下さるようになるのでしょうか?ヨセフは特別愛されていたから主がともにいて下さり、私たちはいくら願っても無理なのでしょうか?

主は既に私たちとともにおられます。イエスさまはインマヌエルと呼ばれると言われました。主イエスを救い主として信じた人は、既に主がともにいて下さるのです!
それなら何故ヨセフのように幸運で、なすこと全てが成功する訳ではないのは何故か?
疑問が起きるでしょう。

ここでダビデの詩編からヒントを得たいと思います。

「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」詩編16編7.8節

「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。」
ダビデは父や母を通して聞いた主のみことばを毎晩、黙想していたようです。
主のみことばを静かに口ずさみ、そしてその意味を考え、自分に何を教えているのかをゆっくり祈りながら考える、これがクリスチャンの瞑想、黙想、ディボーションです。
ダビデはそれを主からの助言として受け止めました。
ダビデは主からの助言、神のことばの教えと導きに心から従いました。
彼が直面する全てのことに神の支配を認め、そしてみことばの導きに従って行動しました。
これが「私はいつも、私の前に主を置いた。」と言うことです。
あらゆることに主を見いだし、あらゆることにみことばの教えから受けた確信によって行動する。ダビデの歩みは揺るぐことがなかったのです。
ヨセフも同じだったと確信します。

少し抽象的になりましたが、ヨセフのポティファルの家での仕事を考えると、成人していない、十代半ばの奴隷の仕事と言ったら先ずは掃除や雑用です。力も知識も経験もない、カナンの父ヤコブの下ではおぼっちゃまだったヨセフに出来る仕事は限られていました。トイレ掃除、家の掃除、汚物の処理、お皿洗いが始めの仕事だったでしょう。
そこに何を見いだすか?それが問われるのです。

パロに仕える大臣でもあったポティファルが他にも何人もいる奴隷の中からヨセフに気が付いたのは、ヨセフが言われたこと以上のことを、進んでしていたからだと私は思います。

奴隷です。奴隷は言われたことをやっても誰からも誉められません。評価されることがないのです。だから奴隷は主人から言われたことしかやりません。叱られないように、最低限しかやりません。

しかし、ヨセフは主人の目を恐れたのではなく、ともにおられる主を喜ばそうとしたのです。つまらないトイレ掃除でも、主に喜ばれるように自分で進んでやったのでしょう。
これが主がともにおられる人、ダビデのように主体的に主を自分の目の前に置く人です。

ポティファルもまたヨセフの働き、生き方の中に主がともにおられることを見いだしました。そして奴隷のヨセフに、やがて自分の全てのものを管理させるようになるのです。
何故ならヨセフが人の目よりも、神の目を恐れ、神とともに歩んでいる人物だと分かったからです。主を喜ばせようと、自分が言う以上にやり遂げてくれる人物だと分かったからです。

私たちは職場で、学校で、家庭でどのように生きているでしょうか?
神がおられるのは教会の中、それも礼拝中だけでしょうか?

私たちは職場で上司に言われる範囲内だけで仕事をしているでしょうか?それとも自分は自分の仕事を通して神と人に仕えている意識を持って仕事をしているでしょうか?
勉強もそうです。テストで良い点数をとること、人から優秀と言われる学校に入るためだけに学んでいるでしょうか?それとも、その学びは神と人に仕えるために役立つから学んでいるのでしょうか?

主の祝福は主なる神を主体的に目の前に置く人に注がれるのです!
私たちも日常のあらゆることの中に主を見いだしましょう。
人ではなく、主を喜ばす目的で働き、学び、仕えましょう。