「神、人、罪、救い」
創世記1章から11章
牧師 小林智彦

【 創 世 記 】

創世記は聖書の始めの書です。創世記は聖書の中でも非常に重要な書です。
創世記は私たちが抱いている根本的な問題に答えを与えます。
創世記には重要な事柄の始めが書き記されています。
イエスさまは黙示録の中で「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示録22章13節)」と言われました。
黙示録は世の終わりについて記してありますが、創世記は世の始まりに関して記してあるのです。私たちが目にしている全ての物の始まりが創世記には記してあります。

そして私たちが信じる神さまご自身についても明確に記されてあります。
ある牧師が、日本人がキリスト教と聖書を理解するためには「神・罪・救い」についての理解が不可欠だと言ってました。なぜなら日本の文化にある「神・罪・救い」と、聖書が教える「神・罪・救い」は全くと言って良いほど内容が違うからです!
創世記はこの問題に明確な答えを与えます。
創世記は「神・罪・救い」プラスして「人間とは何か?」についても明確に教えています。

今日は創世記から「神・人間・罪」そして今年のエクレシア目標聖句から「救い」について学びましょう。

【真の神は創造主】

創世記の1章1節から2章3節まで、神が天と地とそれに満ちる全てのものを創造されたことが書かれています。聖書は先ず、私たち人間が信ずべき神はどなたであり、何をされた方かを明確に教えているのです。

これは日本人の神概念とかけ離れています。私たちはこの違いについて意識しましょう。
日本人の神概念は「触らぬ神に祟りなし」です。神についてはあまり近寄らない方が良いのです。少し離れたところから、恭しく接しているのが良い関係なのです。
そして「鰯の頭も信心」と言われるように、信仰の対象よりも信仰心が大切です。
だから日本人の80%以上は正月に初詣に行きますが、自分が拝んでいる対象に関しては、関心がないのです!どのような神で、何をなし、私たちとどのような関係があるか、全く理解しないで拝んでいるのです。多分、これは世界の中でも珍しい信仰だと思います。
だから日本人はカルト宗教に騙されやすく、本当の神の教えであるキリスト教に関しては背を向けるのです。

「鰯の頭も信心」、それは結局は自分の信仰心に頼っているのです。つまり自力本願、自分の力に信頼を置いているのです。それは本当の意味では助けにはならないのです。
信仰心はキリスト教においても大切ですが、最も大切なのは信仰の対象です!

創世記は人間が信ずべき神、そして真の神は六日間で天と地とそれに満ちる全ての生き物、そして人間を造られた神、この方こそ真の神であり、信ずべきお方であると言っています。

私たちが信じなさい!と勧めている神は偶像の神ではないのです。
木や石で作った神々を信仰する必要も敬う必要もありません!それらは人間が自分の手で作った物だからです。人間が作った物を信じ、敬う必要など全くないのです。
しかし、人間を造った神は信ずべきです!また敬い礼拝すべきなのです!
自分の親を敬い従うなら、尚更のこと全人類の親である真の神は信じ敬うべきなのです!

聖書は創世記から始まり、黙示録に至るまで真の神はどなたであり、何をされたかが明確に書き記されています。創世記を読んで分かるように、普通の言葉で分かり易く書かれています。どうぞ真の神はどのようなお方なのかを求めながら読んで下さい。
もし聖書を読んで神について、「もっと分からなくなった」と言う方がいるのなら、それは聖書が難しいのではなく、その人の中にある神に対する思いこみが理解を妨げていることに気付いて下さい。日本人の神概念を土台、前提として聖書を理解するなら、混乱しか生まれないでしょう。聖書を自分勝手に読み込まないで下さい。
謙った心で聖書を読むならば、必ず正しい神の姿を見いだすことが出来るでしょう。

【人間は真の神によって造られた】

創世記の1章26節から2章25節まで、神が人間を創造されたことが書かれています。
この箇所は人間とはどのような存在か、人間の目的、使命、役割を明確に教えています。

「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記1章26.27節

聖書が一番始めに人間について記している箇所です!
哲学者が自らの経験や推論によって導き出した人間理解とは違うのです。
人間を創造された方が、何の目的のために人間を造られたのかが書かれているのです。
これは権威ある神の言葉であり、人間とは何か?その根本的な問題に明確に答える箇所なのです。

「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう(26)」

誰でも人間なら、心の奥深いところに神のかたちがあるのです。
神を知らない国や民族は歴史上に存在したことがありませんでした。
神を頭から否定する人も、苦しい時には神を思い出すのです。
人は危機的な状況の時には、不必要なものは手放し、最も必要なものを握りしめます。
飢えて死にそうな時に、高級車や大型テレビが欲しいと思う人はいません。
誰でも水や食べ物が必要なことに気付くのです。最も辛い時、人は神を思い出すのです。それは表面的な部分では神を否定しても、心の奥深いところでは神を知る証明です!
私たちの心の一番深いところには創世記1章26節のみ言葉が記されているのです!
私たちは神によって造られ、神のかたちに神に似るように造られたのです。

そして、このみ言葉は私たちが生きる目的でもあります。
私たちが神の人格に似た者になるように成長すること、これが私たちの生きる目的です。
神の持つ愛、そして正義、これらが私たちの人格となることが生きる目的なのです。
そのためには私たちは真の神がどのような人格を持っておられるのかを知るべきです。

私たちが神に似た者に成長すること!この人生の目的を受け入れて、これを目指して歩むなら、私たちの心には喜びと平安、そして満ち足りた思いが与えられます。

全て作られたものは作られた目的に従う時が一番幸せなのです。
たとえば私が手にしているマイクで一生懸命、耳をほじろうとしたら、何と効率が悪く、また馬鹿げたことでしょうか?それは本来のマイクが造られた目的から離れているからです。人間も同じなのです。人間が目的を忘れ、ただ可笑しく、欲望だけを満たすために生きていくなら、それは却って私たちに苦痛をもたらすのです。

人生の正しい目的を知ることがどんなに大切かを理解して下さい。
聖書はそれを秘密にするどころか、一番最初にハッキリと書き記しているのです!

私たちは神に似た者に、そして神に似るように造られ、これを目的に生きています。
聖書から私たちが目標とする神の姿、その人格について学びましょう。

【 罪 】

「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」創世記1章31節

神が創造されたものは人間を含めて、非常に良かったのです。
しかし現在の地球の環境、そして特に人間を見ると非常に良かったとは言えません。
なぜでしょうか?非常に良かったと言われているにも関わらず、多くの人々は人世の中で悲しみ、苦しみ、絶望を覚え、また病気に苦しむのは何故でしょうか?
その原因が創世記の3章に明らかにされています。
神は人間が住む最高の環境を備えられました。そこはエデンの園と呼ばれる場所です。
神は人間にエデンでの仕事、そして人間の権利と規則とを明確に定めました。
ところが最初の人間であったアダムとエバは神の規則を破ったのです。
神の言葉に従わなかった彼らに罪と呪いが入り込んだのです。
私たちはアダムとエバが犯した罪によって、生まれながらに罪の性質を引き継ぎ、罪の呪いをも引き継ぐことになったのです。

私たち人間を悲しませ、苦しませ、病気にし、やがて死に至らしめる原因は罪なのです!

私たち日本人には聖書が教える「罪」が分かり辛いかもしれません。
私たちは「罪」と言えば、行為における「罪」しか思い浮かべません。
嘘を付いたり、人のものを盗むこと、人を殺すこと、それらの犯罪行為を「罪」と捉えます。もちろん、犯罪も罪ですが、聖書が取り扱っている罪とは「罪深い性質」のことです。私たちは誰でもこの「罪深い性質」を引き継いでいます。神学用語では「原罪」と言います。誰もがこの原罪を持っています。そして自分の力や努力では罪の力に勝てないのです。

私たち人間は神に似た者に成りたいと言う欲求があります。
つまり人世を正しく生きたい、人を愛し、社会に貢献する生き方がしたいと言う欲求があるのです。何が正しい生き方なのかが分かるのです。しかしそのように生きられないのです。何が悪いか分かる、しかし、その悪が止められないのです。
これが私たちの姿であるとパウロはローマ人への手紙の7章で教えています。
最初の人アダムとエバの神への不従順を通して罪の性質がその子孫である人類全体に広がり、罪の呪いが私たちを罪深い行いと滅びに縛り付けているのです。

「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」ローマ人への手紙7章21から24節
 
パウロは自分の中にある罪の性質に向き合い、嘆いています。
自分の力では、この罪深い性質を克服することが出来ないからです。
パウロは「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24)」と救いを求めて叫んでいます。

ローマ人は十字架刑と言う残忍な処刑方法を考え出しましたが、もう一つ恐ろしい処刑の方法があったそうです。それは死刑囚に病死した死体を縄で縛り付けて処刑する方法です。
病死した人間の死体から腐敗した毒素や病原菌が皮膚を通して死刑囚に染みこんで行くのです。やがて毒素で体は弱り、病気に感染し死んでいくのです。

パウロが「だれがこの死の体から」と書いた時、この処刑方法のことを思い浮かべながら書いたのだろうと言われています。まさに罪の性質とはこのようなものなのです!
私たちは自分では罪を犯したくないと思いながらも、自分に結びつけられている罪深い性質から毒が回り、悪いと思いつつも罪に負け、罪に流され、やがては滅びていくのです。
この罪深い性質から私たちはどうしたら解放されるのでしょうか?

【キリストによる救い】

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」ローマ8章3.4節

私たちに結び合わせられていた死の体をキリストが代わって背負って下さったのです!
ここに救いがあるのです!罪のないキリストだけが、私たちに代わって罪深い性質、死の体を身代わりに背負い、カルバリの丘でご自身の体とともに罪を、死の体を滅ぼして下さったのです。キリストの十字架の死と復活を自分の罪のためだったと信じる者の上に、この救いと解放は訪れるのです!

キリストは十字架の上で死なれましたが、三日目に復活しました。
信じる者にはこの復活の新しい命が注がれます!

私たちは自分の力では罪深い性質には勝てませんでした。しかしキリストの身代わりの死を信じることにより、私たちを罪に向かわせていた罪の性質は徐々に力を失い、キリストの死を受けてやがては完全に滅びていくのです。
そして私たちイエスを信じる者には、キリストの復活の力が日々注がれます!
キリストの復活の命、その力は神の子としての性質を私たちに与えるのです。
神の子としての性質とは神と人を愛する性質です。神の戒めを守ることが出来る性質です。

「神の戒め(神とひとをあいすること)は自分の古い性質に従わず、聖霊さまに従って歩むなら守られるのです。」ローマ8章4節

クリスチャンは残念ですが、地上に生きている間は罪の性質からは完全には解放されません。この罪の性質を受け継いだ肉体がまだ生きているからです。
だから選択なのです!クリスチャンはこの世にいる間は二重人格です。
罪深い生き方を続けることも出来るし、神の子としての生き方を選ぶことも出来るのです。神の聖霊に従わないなら、私たちはクリスチャンであっても罪深い生き方しかできません。

しかし、聖霊さまに従って生きるなら、私たちは神の子として成長し、成熟し、神の戒めを守るのです。それは神を愛し人を愛する生き方、イエス・キリストに似た者に変えられていくのです!これこそ私たち人間の生きる目的です。それは聖霊さまに従って歩む時にのみ可能になるのです。

聖霊さまに従って歩むとは、日々、神を礼拝する生き方です。
毎朝、毎夕、神の言葉を読み、学び、神を知ることです。神と交わりの時を保つことです。
賛美と感謝を捧げ、神の願われることを祈り、自分の必要をも神に知って頂くことです。
そして神と人への愛を行えるように、聖霊さまの力を受けることです。
日々、神を礼拝する生き方を続けるなら、私たちの中には神の子としての性質がどんどん大きく育ちます。そして、自然に神の戒めを守り、罪を憎むように変えられていきます。

しかし、時には信仰と意志をもって聖霊に従うことを強く選択しなければならない時も訪れます。意地悪されたり、否定的な言葉を掛けられたり、誤解されたり、また自分の思う通りに物事が進まない時などです。どんなに成長しても、自然に罪深い反応が出てきそうです。このような時、私たちは信仰と意志をもって聖霊さまに従うのです。

イエスさまだったらどうするだろうか?心の中で聖霊様に示してもらうのです。
そして、その通りに歩めるように聖霊様に助けてもらうのです。
結果がどうであろうと、私たちは聖霊様に従って歩むことが出来るのです。

この一年、特に聖霊様に従って歩むことを心がけましょう!これはもちろん一生涯のテーマですが、特に今年は意識的に取り組んでいきましょう。