「七つの封印が解かれる」
黙示録6から7章
牧師 小林智彦

【 黙 示 録 の 解 釈 に つ い て 】

○過去主義的な解釈
黙示録は紀元一世紀の歴史的な状況の中で理解されるべきとする考え方とその解釈。
この考えでは、黙示録はローマ時代の迫害に苦しめられていたキリスト者に対してのみ書かれた書物であり、一世紀以降に関する預言的な要素を認めないと考える。

○歴史主義的な解釈
黙示録は紀元一世紀から現代に至るまでの歴史的過程を象徴的に述べているとする考え方とその解釈。この立場の代表的な人物であるE・Bエリオットによれば、七つのラッパは紀元395年から1453年の期間を指すと考え、第一のラッパはゴート族のローマ侵入、第二のラッパはゲンセル族の北アフリカ侵略、第三のラッパは・・・と、黙示録中の象徴を歴史の事件に当てはめて解釈する立場である。この立場の問題は、解釈者によって象徴の解釈が異なることである。黙示録の個々の叙述が歴史上の出来事の何を意味しているかを決定するのに客観的な基準がないので、解釈者の見解は全くの主観に基づいている。

○未来主義的な解釈
この考えは、黙示録の4章以下を未来に対する預言であると考え、教会の空中携挙から始まり、大患難時代、キリストの再臨、ハルマゲドン、千年王国、最後の審判、新天新地などについて述べられていると解釈する。全体的な点では未来主義を取りながら、4章の始めに教会が空中に携挙されるという見解を取らない者もいる。この立場は黙示録に預言的要素を見いだす点では優れているが、教会の空中携挙の点で意見の相違がある。

教会の空中携挙に関しては、千年王国の前に携挙があるとする考え(患難前携挙説、患難時代の途中の携挙説、患難時代後携挙説)、千年王国の後に携挙があるとする考えがあります。また教会の空中携挙と千年王国も否定する無千年王国の立場を取る人がいます。

※アメリカで話題になり、日本語でも出版されている「レフト・ビハインド」は患難前携挙説に基づいた小説です。患難前携挙説に立つグループは、再臨を待ち望む過度な希望から教会に混乱を引き起こしてきたこともあります。92年に韓国で起きた再臨騒動を引き起こしたタミ宣教会やタベラ世界宣教会も過激に患難前携挙説の立場を取るグループでした。この韓国で起きた再臨騒動は社会的にも問題化しました。再臨を確信した信者たちが仕事や学業を放棄し、財産をすべて献金したり、教会で集団生活する者たちが多く現れたからです。しかし結果的に再臨を熱望していた多くの人々は失望に終わりました。この騒動の影響を受けて多くの信者が教会から離れ、社会にも悪いイメージを与えました。

再臨は必ずあります!これは主の約束です。しかし、この事件は黙示録の解釈を巡って、時に深刻な被害を教会や社会にもたらすことがあることを教えています。
黙示録はローマ帝国から迫害を受けていた初代教会を力強く励まし、前進させる力となりました。しかしその一方で可笑しな神学が黙示録を乱用し、教会を混乱させて来たのです。

私たちは聖霊さまの導きのもとで、知性を働かせながら黙示録を学んで行きましょう。
黙示録は決して難解な書物ではありません。その象徴をすべて理解することは困難かもしれませんが、しかし、その大意はすべての信者が理解できます。
多くの人は黙示録の本文を丁寧に読むことをせずに、偏った神学が入り込んでいる注解書や解説書を読みます。聖書的な裏付けや確信が無いまま、偏った神学を受け入れてしまいます。それは注意すべきです。

船橋エクレシアの黙示録の解釈は未来主義的な解釈になります。黙示録はこれから起こることの預言、特に世の終わりに関する預言として解釈すべきです。しかしヨハネに幻が示されてから既に千八百年も経過しています。その預言の幾つかは既に実現していると考えます。しかしそれは終わってしまったのではなく、幻で示された型が終末に向かって繰り返され、さらにその破滅的な力を増し加えていくと考えています。
また未来主義的な立場ですが、患難前携挙説を肯定することは出来ません。「レフト・ビハインド」は読み物としては面白いかもしれませんが、黙示録が示している内容とは異なると確信します。黙示録が教えているのは、聖徒は患難の中でも主を証し続け、主は聖徒を守られることです。聖徒は神の怒りから守られるが、迫害によって多くの聖徒の血が流されることが書かれてあります。しかし主を証していのちを失う者には主からの報いがあることが書かれているのです。

【巻物の封印が解かれ四頭の馬が現れる】

「また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で『来なさい。』と言うのを私は聞いた。私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、『来なさい。』と言うのを聞いた。すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、『来なさい。』と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。『小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。』小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、『来なさい。』と言うのを聞いた。私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」
 ヨハネ黙示録6章1節から8節

父なる神の御手の中にあった巻物を屠られた子羊として表されているイエスさまが受け取り、その封印が一つ一つ解かれていきます。

第一の封印が解かれると白い馬でした。手には弓を持ち、勝利の上に勝利を得ようとして出ていきます。第二の封印が解かれると赤い馬が現れます。この馬に乗る者は大きな剣が与えられ、地上から平和を奪い取ることが許されます。
第三の封印が解かれると黒い馬が現れます。この馬は飢饉と貧富の差を象徴しています。1デナリは当時の労働者の日当に当たります。一升は約1リットルに当たり、小麦一升は大人一人の1日分の必要量と考えられていました。まる一日働いて、やっと食べることが出来る。それは飢饉、もしくは物価の高騰を表しています。しかし、葡萄酒やオリーブ油と言ったある意味、贅沢品は損なわれないのです。これは貧富の差が広がることを意味していると考えられます。もしくは白い馬も赤い馬もともに戦争を表しているので、戦争による飢饉、また戦争に勝利する国と負けた国の貧富の差を表しているのかもしれません。

第四の封印が解かれると青ざめた馬が現れます。この馬に乗る者の名は死で、その後にはハデス(死者が審判を受けるまで留まる場所)が従います。

この四頭の馬の幻はすべて戦争に関係する災害を携えてやって来ます。
黙示録が書かれる前から戦争はありました。ローマ帝国は当時の世界帝国です。つまり、多くの国々を戦争によって侵略し、領土を広げていったのです。
ローマの前はギリシャが帝国を築き上げました。その前はペルシャ、バビロン、アッシリアと遡ることが出来ます。つまり黙示録以前にも大規模な戦争はありました。

そこでもう一度、白い馬の幻を考えるなら、この白い馬は「勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行(く)」のです。つまりローマ帝国はさらに領土を拡大しようと出ていくのです。この白い馬に導かれて国々はさらに激しく争い合うようになると言う預言です。
残念ながら聖書はこの世の中が続く限り、戦争は無くならないと預言しています。
そして世の終わりに向けて、その戦争は激しさを増していくだろうと預言しているのです。

第一次世界大戦、そして第二次世界大戦と戦争は大規模になり、戦争で犠牲になる人の数も増え続けます。第二次世界大戦では5千万人の人々が犠牲になりました。
また戦闘で無くなる人数も多かったのですが、餓死する人も大変な数に上りました。
この悲惨な戦争、戦争でなくなる犠牲者、戦争による飢饉で無くなる人、戦争に伴う病気で亡くなる人の数は増え続け、戦争の悲惨さはさらに大きくなっていくのです。

これは神から来る災いでもありますが、本当の原因は人間の罪にあります。
「勝利の上にさらに勝利を」、これは私たちの罪を表しています。今ある物で決して満足しない心、隣人をむさぼろうとする心、これが争いや盗みを引き起こすのです。

世の終わりには人間の隠された罪がどんどん明らかにされていきます。
罪が隠されたままで終わることは無いのです。隠されていた罪が明らかにされていきます。
人間の中にある自己中心性、残虐性などが隠されず、むき出しにされていくのです。

世の終わりに近づけば近づくほど、神を知らない人と、神を知る人の違いが明らかになります。世の終わりには偽善者はいなくなるかもしれません。神を本当に愛し、信じている人と、神を憎み、徹底的に逆らい続ける人と明確に分けられていきます。
神はグレーな、あやふやな状態では人を裁かれないからだと思います。
神の裁きは誰の目にも明らかなためです。

【殉教者の魂の叫び】

「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。』と言い渡された。」
黙示録6章9節から11節

第五の封印が解かれると、次ぎに現れたのは殉教したクリスチャンの魂です。「祭壇の下」にいるのは、彼らの流された血が捧げ物として神に受け入れられたことを表しています。

この第五の幻は、私たちクリスチャンへの警告であり、励ましでもあります。
四頭の馬の災いが終末に向けて拡大するように、この幻も終末に向けて拡大していきます。
キリストへの信仰を守り、主を証して殺されるクリスチャンの人数は増加していくことを預言しています。クリスチャンを取り巻く環境は厳しいものになるでしょう。
私たちはこの預言を厳粛に受け止めるべきです!

キリストを信じる信仰はこの世の中で楽しく生きていくための保証ではありません。
キリストはハッキリとあなたがたはこの世にあっては患難があります!と仰っています。

しかし、恐れてはならないのです、なぜならキリストは既に世に勝ったから、また御子を信じる者は世に勝つからです。(ヨハネ16章33節、第一ヨハネ5章5節)

この幻は私たちの目を覚まします。この預言の通りに、世界中ではキリストの御名のために殉教する人々が後を絶ちません。北朝鮮でも、中国でも多くのクリスチャンの血が流されています。しかし迫害が厳しくなればなるほど、信仰は強く、そして純粋にされていきます。それは暗闇の中でこそ真の光が輝くのと同じです。

しかし日本のクリスチャンが置かれている状況が一番過酷なのかも知れません。
ぬるま湯から茹でられるカエルのような状態です。
熱湯ならカエルは瞬間に飛び出して逃げます。しかし、ぬるま湯だと気持が良くなって逃げません。気が付くとお湯は熱くなり、そのまま茹でられてしまうのです。
日本のクリスチャンも暗闇より危険な偽りの光の中に置かれ、自分の大切な光を見失う危険があります。聖霊の炎よりも、偽りの光に誘惑され、信仰を失うことが一番危険です。

祭壇の下で叫ぶ殉教者の幻はクリスチャンのための預言です。

「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」ピリピ人への手紙1章29節

キリストを信じる信仰の歩みには苦しみを伴う時があるのです。これは覚悟して下さい。キリストを信じればすべてがバラ色、ハッピーになる!これはサタンの嘘です。
多くの人がキリストを受け入れた後で信仰から離れていきます。
「キリストを受け入れれば人生が楽になる、何でも上手く行く!そういわれたから信じたけど、かえって人生が辛くなった!だからもう信じない!」

何かセールス・トークのような美味しい勧誘の言葉に誘われてキリストを受け入れた人は、必ず信仰生活の中で躓くでしょう。キリストを信じても人生は楽にならないからです。
プライドは砕かれ、罪は示される。迫害と苦難のある人生です。キリストが十字架を背負ったように、私たちも本当にキリストとともに歩むなら、それぞれの十字架を背負うことになります。この世の人生はクリスチャンにとっては十字架の道なのです。

クリスチャンにとっての本当の喜び、本当の安らぎは十字架の向こうにあるのです!
祭壇の下で叫ぶ殉教者には白い衣が与えられました!白い衣は聖さの象徴です。
罪から完全に清められた心であり、神の愛の性質に変えられることを聖化と言います。
そして祭壇の下で叫ぶ殉教者には休みが与えられました。神の御手の中で休めるのです。

クリスチャン・ライフは決して喜びの連続ではありません。辛いことや苦難があります。しかし、それでもキリストに従い続ける理由は聖化を体験しているからなのです。
私たちは罪を主の前に告白し、悔い改めます。その時、少しずつ私たちの心は聖化されるのです。赦せない人を、信仰によって赦す決断をした時、私たちの心は聖化されます。
自分勝手な生き方から、み言葉に従って人生を生きる時、私たちの心は聖化されるのです。

赦せない人を赦し、憎しみから解放されること、それが聖化です!罪を楽しんでいた心を変えて頂き、罪を憎む心に変えられたこと、それが聖化です!聖化とは罪からの解放であり、キリストの心に近づくことです!天において完全に聖化されるのです。これは大きな希望です。この聖化される希望を握りながら、苦難の中でも主とともに歩み続けましょう。

「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。『アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。』」
黙示録7章9節から12節

ヨハネには天での礼拝の幻が示されました。数え切れない大群衆が喜びの叫びをもって主を礼拝しています。その一人ひとりは白い衣を着ています。
この白い衣を着た天の大群衆は何処から来た人たちでしょうか?

「長老のひとりが私に話しかけて、『白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。』と言った。そこで、私は、『主よ。あなたこそ、ご存じです。』と言った。すると、彼は私にこう言った。『彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。』」黙示録7章13.14節

この白い衣を着た大群衆は患難をくぐり抜けてきただけでなく、その衣を小羊の血で洗った人たちでした。私たちは自分の弱さ、自分の罪を主の前に告白し、キリストの流された血によって洗ってきよめてもらいましょう!キリストの赦しを受けること、キリストによって心を変えてもらうこと、それが衣を洗うことです。

私たちの衣が白くなればなるほど、さらにキリストの聖さを求めるようになります。
さらに天の国を慕うようになるのです!

私たちの地上の人生は、神の国で主を礼拝するための備えの期間です。
まとわりつく一切の罪を、キリストの十字架の血潮で洗い清め、キリストの再臨に備えましょう。

【第六の封印】

第六の封印は大天変地異です。太陽は暗くなり、月も光を放たない、星々が地上に落ちる。これはイエスさまも世の終わりについて教えておられる印と一致します。
そして天が消え、すべての山や島がその場所から移されます。このような天変地異は、人類が体験したことのないものです。人々は逃げ惑い、そして恐怖におののきます。

「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。『私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。』」黙示録6章15節から17節

人々は逃げ惑いますが、この災害から逃れられる道は唯一つしかないのです!
私が道であり、いのちであり、真理であると言われるイエス・キリストの救いの道以外に神の怒りから逃れられる道は無いのです!

この救いの道がハッキリと示されている恵の時代に、この道を歩みましょう!
恵の時代が閉じられ、救いの道が閉ざされる前に、この道を歩みましょう!

【イスラエルの子孫十四万四千人とは誰か?】

「この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。『私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。』それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。』」黙示録7章1節から4節

イスラエルの子孫十四万四千人とは一体、誰でしょうか?私たちは含まれるのでしょうか?エホバの証人はこの「十四万四千人」を文字通りの数と受け取っています。
つまり救われる人数が「十四万四千人」しかいないと考えているのです。

この「十四万四千人」は象徴的な数です!これは第六の封印が解かれた時に、地上に生き残っているキリスト者を表しています。もちろんこれはイスラエルと言われているように、ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも含まれています。

「十四万四千人」と言う数は12×12×1000=144000です。
12は聖書の中では選びの数です。イスラエルの12部族。イエスさまの12使徒です。
それをさらに12で掛けているのです。つまり選びの上に更に選ばれた者を意味します。
そして1000は黙示録では千年王国を表しているように、完成、完全、永遠を象徴しています。つまり神の僕は神が選ばれた上に更に選んで下さったのです。そして神の選びは永遠なのです!

私たちが第六の封印が解かれ、そして第七の封印が解かれる時に生きているなら、この中に必ず数えられるでしょう。目に見えるかどうかは分かりませんが、神の目からはハッキリと分かる印を額に押されるのです。これは第七の封印が解かれ、神の最後の怒りから守られるための印です!出エジプトの時、家のかもいに羊の血を塗ったイスラエルの家だけが神の怒りから免れたように、額に印のある者は神の怒りから守られるのです。

またこれはイスラエルの部族に限定されるようにも思えますが、ユダヤ人だけでなく、異邦人クリスチャンもこの中に含まれると確信します。と言うのはこの部族表は実際の12部族を表していないからです。この部族表にはダン族の名前がありません!
もしこれが血縁によるイスラエルを表しているのなら、ダン族を抜かして書くことは絶対にしないはずです。このイスラエルの部族も本当の神の僕を象徴的に表していると考えるべきでしょう。

ダン族は旧約聖書の士師記を読めば分かりますが、イスラエルに偶像礼拝を持ち込んだ部族です。また父ヤコブの遺言では、ダンは道の傍らで待ちかまえる毒蛇と言われています。馬に噛みつき、乗り手を振り落とす毒蛇になると預言されています。父ヤコブの預言の通りダン族はイスラエルに偶像礼拝を持ち込み、イスラエルをひっくり返す毒蛇になったのです。アッシリアによる捕囚で一番始めに奴隷にされたのもダン族でした。
BC721年のアッシリアによる捕囚により、ダン族は歴史からは葬り去られるのです。

黙示録の12部族はもちろんユダヤ人クリスチャンも含まれます。そして神の更なる選びである異邦人クリスチャンも含まれているのです。これが選ばれた神の僕なのです。