「イエス・キリストの黙示」
黙示録1から6章
牧師 小林智彦

「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。」黙示録1章1.2節

今週の聖書通読箇所は「ヨハネの黙示録」です。1章から6章までを分かちあいます。

「イエス・キリストの黙示」と冒頭にあります。書名はヨハネの黙示録ですが、正確にはイエス・キリストの黙示なのです。黙示という言葉は普通では使われない言葉です。
ギリシャ語では!Apokavluyi"(アポカリュプシス)で、「被いが取り除かれる」、「明らかになる」という意味です。新約聖書の他の箇所では「啓示」、「現れる」と訳されています。

「イエス・キリストの黙示」とは今までは隠されていた神のご計画、特に世の終わりに関するご計画がイエス・キリストによって明らかにされたと言う意味です。

旧約聖書の預言書にも世の終わりに関する預言が記されています。
しかし、それらは部分的であります。そして、隠されている部分があります。

「:4)『ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。』:8)私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。『わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。』:9) 彼は言った。『ダニエルよ。行
け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。』」ダニエル書12章4節、8、9節

ユダヤ人のバビロンからの解放、またその後に起こるギリシャ、ローマ帝国を預言したダニエルでしたが、世の終わりに関しては「秘められ、封じられてい:9)」ました。
しかし、ヨハネ黙示録ではイエス・キリストによって秘められていたものが明らかにされ、封じられていた書物の封印が解かれたのです。

黙示録は世の終わりに関する預言の集大成なのです。
また黙示録は新約聖書の巻末に置かれています。これは旧約も含めて聖書の巻末です。
黙示録には創世記から始まる人間の罪と悪に対する裁きが示されています。
創世記は人類の最大の問題である罪の始まりが書かれ、また神の救いの計画が始められたことが書かれています。それに対し黙示録では罪に対する裁き、そして神の救いの計画が完結することが書かれています。黙示録は聖書の巻末にただ置かれているのではなく、その内容においても、聖書の完結を現す書なのです。

創世記と黙示録の対比

創 世 記  

・始めの書
・最初の天と地
・パラダイスの喪失
・人類の敗北(サタンの勝利)
・最初の人(アダム)とその人の花嫁
・いのちの木の喪失(死が入った3:19)
・悲しみ、涙、呪いが罪によってもたらさ れた。
・贖いの約束
※ダニエル書は封じられた書(ダニ12:4)

黙 示 録

・完成の書
・新しい天と地
・パラダイスの回復
・サタンの敗北
・最後の人(主イエス)とその人の花嫁
・いのちの木の回復(死が除かれた21:46)・罪の終わり、涙、呪われるべき物がない

・贖いの完成
※封印が解かれた書(黙4:5)


「また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、『巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。』と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
すると、長老のひとりが、私に言った。『泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。』」黙示録5章1節から5節

全能の父なる神の手にある巻物は七つの封印で封じられていました。
それを開くことは誰にも出来なかったのです。しかし「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」と呼ばれている私たちの主イエス・キリストが勝利を得たので、この巻物を開くことが出来るのです。なぜイエスだけがこの巻物を開くことが出来るのでしょうか?
それは主イエスだけが罪と死に勝利したからです、永遠のいのちを信じる全ての者に与えることの出来る方だからです!

父なる神の手にある巻物、それは罪と悪を滅ぼす神の怒り、裁きの書です。
それは時が来るなら必ず実現する内容です。しかし、それは罪人にとっては悲しみと嘆きの始まりです。神の裁きに耐えることが出来る人は誰もいないからです。
救いの希望が無いのなら、この巻物の内容は知らない方が良いのです。
救いの希望が無いのなら、この書物は絶望と落胆であり、大きな恐れをもたらすだけです。

しかしイエス・キリストにあっては希望があるのです!

イエス・キリストを信じることにより義と認められた者には希望があるのです。
キリストの十字架で流された血によって罪が赦された者は神の裁きにあっても平安があります。私たちの罪に対する神の怒りと裁きはキリストが十字架の上で身代わりに受けて下さったからです。

イエス・キリストによって義と認められた者には神の裁きと怒りは希望と慰めです。
なぜならこの世に罪と死をもたらした悪しき者たちが滅ぼされる日だからです。
罪が完全に滅ぼされ、神と神を信じる者に敵対してきた悪魔が滅ぼされる日です。
呪いがなくなり、神の祝福によって全てのものが新しくされる希望の日の始まりです。

私たちはイエス・キリストによって義と認められ、罪赦されたこと、神の裁きと怒りの中にあっても完全に守られていることを喜びましょう。
私たちにとって黙示録は悲しみの書ではなく、希望と喜びの書物なのです!

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」黙示録1章7節

聖書はキリストが死んで復活したことと、そして天に上げられ、必ず再び帰ってくることが約束されています。私たちの主は必ず帰ってこられるのです!
キリストの再臨は信じ救われた者には希望と喜びの日になります!
しかし、神の言葉を否定し、キリストの救いを拒絶した人々には嘆きの日になります。
キリストの再臨の日に、私たちの家族、友人、知人が決して嘆くことがないように、私たちは私たちの主イエス・キリストの救いを証しましょう!

神は一人でも滅びる者が無いようにと、最後の審判の日を猶予して下さっているのです。しかし、いつまでもその日が延ばされることはありません!
今は恵の日です!主が救いに招いて下さっている間に主の救いを伝えましょう!

【七つの星と七つの金の燭台の幻】

1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
1:11 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
1:13 それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
1:15 その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
1:19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

ヨハネに始めに明らかにされた幻は7つの燭台で象徴される教会とその教会の真ん中におられるイエス・キリストの姿でした。そして主の手にはしっかりとクリスチャンを象徴する星が握りしめられています。

13節から16節までは天におられるイエスさまの栄光の御姿が象徴を通して明らかにされています。イエスさまは地上におられた時は柔和で謙遜な方でした。またイザヤ書53章には「私たちが慕うような見栄えもない」とあります。地上では私たちの救いを成し遂げるために、神と罪人たちの僕になって歩まれたイエスさまですが、この箇所では本来の姿を私たちに示しておられます!その姿には聖さ、情熱、生命力、勢いが現されています。キリストは完全な光の中に住まわれ、その光はキリストご自身から溢れ出ています!

そしてこの方が教会を象徴する七つの燭台の真ん中におられ、その中を歩まれるのです。そしてキリストの手の中には私たちを象徴する星が握りしめられています!

教会とクリスチャンはそれぞれ燭台と星に象徴されています。
なぜ主はこのような象徴的な幻をヨハネに示されたのでしょうか?
燭台も星も、ともに闇の中に輝く光だからです。

この神の怒りと裁きの前に暗く沈み、希望が全くない世の中にあって唯一希望の光はキリストの教会とキリストの手に握られたクリスチャンだけなのです!
教会と教会を構成する私たちは世の終わりまで、世にあって輝き続ける希望なのです!

この象徴的な幻が始めに示されていることは黙示録の教えを私たちの実際の生活に適用する上でとても大きな意味があります。

黙示録を読み進めて行くと、そこには様々な災害、不思議な象徴などが現れてきます。
私たちはその不思議な象徴に目が奪われ、また世の終わりに起きることだけに関心を持つようになるでしょう。また象徴をどのように解釈するかで論争になり、結局は黙示録は理解不可能な書物と言うことになります。それはとても残念なことです。

黙示録を読む上で大切なことは、神がご自分の権威によって定め、神が定められた時に行われることと、私たちがすべきことを分けることです。

巻物の封印が一つひとつ解かれるごとに、大きな災いが世を襲います。
それが何時なのか?また、私たちはどう備えるべきか?等は私たちクリスチャンはまったく心配する必要は無いのです!なぜなら神の民には全て、額に印が施されるからです。
封印が開かれるごとに世を襲う全ての災害から、神の民は完全に守られるのです!

黙示録を読んで、神の裁きと怒りに恐れを抱く人がいるなら、その人は大切な神の約束を見落としています。

巻物の封印が解かれるごとに、様々な災害が地を襲います。しかし、その中にあって教会は希望を放つ燭台になるのです。クリスチャンはその災いの中にあっても輝くのです。
これがまずヨハネに示された神のヴィジョンです!

そして2章と3章には七つの教会について書かれています。
七つの教会にはそれぞれの課題がありました。エペソの教会は優れた面もありましたが、始めの愛から離れてしまっていました。スミルナの教会は厳しい迫害に曝されていました。
それぞれ置かれた状況、抱える問題は違いますが、主イエスの関心は教会にあるのです!
主イエスはそれぞれの教会が問題を解決することを願っています。
問題に負け、信仰を失うなら希望の光である教会が地上から失われるからです。

私たちクリスチャンに与えられた課題は、燭台の炎を絶やさないことです!
もちろん燭台の炎自体は神から来ます。しかし、それを阻むものを教会の中から取り除くことこそ私たちの役目なのです。希望を失った暗闇の世にあっても、神のいのちを受け続けることが私たちの役割なのです!

黙示録の始めの幻は、私たちクリスチャンの役割を教えているのです。
私たちがすべきこと、それは世の終わりまで神のいのちを受けて輝き続けること、キリストには希望があることを証し続けることが働きとして与えられているのです!